ただいま
『……マールさ』
『なんですか?』
それはプルプの大火が起こる前。シエルが無事に帰ってきた夜のことだった。
ジュビアとエストレジャは出かけて、部屋には二人だけ。
今までは何の感情もなかったマールに対して、シエルは何を話したらよいのかわからなくなってしまった。
話題を探そうと頭を回転させていると、やけに鼓動がうるさくて落ち着かない。
『シエル先輩?』
『ごめん、なんか……っ』
顔を上げると、目の前に微笑んだマールが覗き込んでいた。言おうとしていた言葉が抜け落ちていった。
『大丈夫です。ジュビア先生、心配していただけだと思いますから』
落ち込んでいると勘違いしたマールが、勝手に話をし出した。
『……ありがと』
『先輩ってヴェス国出身じゃないんですよね』
『え? ええ、そう。北のノルデ国よ』
ノルデは雪に覆われた国。
高い山脈と大森林、点々とある湖。一年のほとんどが雪に覆われた厳しい環境の世界だ。
だからこそノルデ国の人口は少ない。厳しい環境の中で生活出来ないわけではないが、実りの少ない地で生きるのは簡単なことではない。
ノルデ国の南側にあるラウホ港町、その北東にあるメーレ町だけが唯一人が住む町だった。
『たった一人で町を出るなんて、やっぱり先輩はすごいです』
『ちっともすごくないわ』
『え、でも……』
『逃げたかっただけよ』
勉強がしたくて。広い世界が見たくて。
なんて、ありきたりな理由をつけただけだ。
本当は逃げ出したかったのだ。逃げ出して戻らないつもりだった。
『ねえ、マール。わたしね……』
『信じていいですか?』
『え?』
窓際に移動して星空を眺めるマール。シエルはその背中を見つめていた。
グリューン魔法学校にいた時のか弱いマールとはまるで違う。
『シエル先輩のこと、友達として信じていいですか?』
シエルはその言葉に俯いてしまった。
期待していたわけではない。ただ、言葉にして欲しくなかった。
『シエル先輩?』
『ううん。わたしも信じる。マールのこと……』
◇ ◇ ◇
物思いに耽っていたシエルは、肌寒さに我に返った。
ヴァイス港町から出航した船は順調に進んだ。途中、天候に邪魔されてしまったが、三日後にはノルデ国ラウホ港町に着いた。
エーアデの船旅は少々厄介である。
大陸と大陸は浅瀬で繋がっていたからだ。過去の姿、クローバー型の幸せの象徴。
海に沈んではいたが、まだ繋がっている大地に結束の強さを感じてしまう。だが、浅瀬に大型船は入れない。
浅瀬のない場所に港町があるので、船の運航が可能だった。避けて港町を作っていると言った方がよいのかもしれない。
ヴェス国からノルデ国に行くにはヴァイス港町から。
ズユー国に行くには南のロート町から船に乗らなければならない。
オステ国に行くには一度、ノルデ国かズユー国を経由。もしくはヴェス国のロート町から西へ向かう長期の船旅となる。
一般的なのはノルデ国経由だった。北東にあるメーレ町からオステ国に渡るのだ。
しかし流氷が船の運航を妨げる冬には無理だ。今は暖かくなってきた時期でちょうどいい。
「おい」
後ろから呼ばれて、シエルは振り返った。
「早くしてよ、エストレジャ」
「……お前なぁ」
寒さが少し落ち着き始めたノルデ国。
町のある南側に雪は降っておらず、除雪されたものが点々とあるだけであった。
しかし二人は除雪されていない北へ向かっていた。
ノルデ国ラウホ港町から北へ行くと、山脈が国を二分していた。
そこを越えることは深い雪が邪魔をして不可能だった。しかも気温が上昇し始めた今、雪崩の危険がある。
「シエル。本気か?」
「山、登る?」
「お前、人使い荒いよな」
シエルがぺろりと舌を出す。それを見てエストレジャは怒りながら岩を魔法で壊した。
「まったく!」
ラウホ港町到着後、一日宿泊。そして早朝、通りに誰もいない時を見計らって二人は町を出た。
昼前に林を抜け、山脈を目の前にしてシエルは道を逸れた。
雪を掻き分けながら進むこと一時間。そこは洞窟の入り口であった。
大人二人がやっと並んで歩けるほどの狭さで、不安にならない方がおかしかった。
洞窟の入り口は岩で閉じられていた。そして今、エストレジャがそれを壊したところだ。
「中、行くよ」
「……大丈夫なのか? この洞窟」
注意深く中を見るエストレジャ。途中で崩れたら大変だと思っていると、
「入ったら、また閉じといて」
シエルは言ってずんずん進んでいく。
「おい、閉めたら中が暗く……ああ、もう! 勝手に進むな!!」
エストレジャは慌てて入り口を閉じるよう、魔法を唱えた。
「やっぱり暗いじゃねえか!」
「エストレジャ、こっち」
シエルはエストレジャの手を掴んで歩き出した。
「……シエル。見えるのか?」
「あんまり見えてないけど。なんとなく覚えてるから」
何も見えないしっとりした空気の中、足元にあるらしい石を踏みしめて歩く。
時折聞こえる水が滴る音が静寂を割く。そこに二人の足音が紛れ込む。
繋いだ手と、息を吐き出す静かなものだけが、お互いの存在を確かめるようであった。
シエルには何となくどこを歩いているのかわかっていた。
しかしエストレジャはどこへ向かっているのかがわからない。確かに歩いているはずなのに、進んだ感覚がないのだ。
「今のうちに話してくれ」
「……わたしのこと?」
「シュピナート村の出身だってこと以外、聞いてないぞ」
空いていた手を胸に持っていき、ぎゅっと押さえた。
シエルは闇の向こうを見つめながら、故郷を思い出す。
「わたしがここにいるのはね。逃げてきたから」
「逃げてきた?」
「シュピナート村の掟は、とても厳しいから。ずっとそこにいるのが苦痛で。だから、外の世界を知りたかった」
シュピナート村。
姫巫女の出生地であり、当時は能力の高い者ばかりが集められたと聞いていた。
だから子孫も能力が高い者ばかり産まれてきた。関係性はわからないが。
初代姫巫女が現れてからは、全て血筋で次期姫巫女が決められていた。
その一人を育て、守るのが閉鎖的な村シュピナートの役目。
だからこそ、外にいる者たちがどんなに探しても見つかるわけがなかった。
特殊な結界が村を守っていたのだから。
――帰ったら、また押し込められる。
何のためにそこまで、誰にも知られずにひっそりと生きていかなくてはならないのか。シエルにはわからなかった。
あの生活がまた始まるのかと思うと、とても我慢出来ない。
「次期姫巫女は、わたしのこと」
「は? ちょっと待て!」
「平和な世の中だもの。形だけよ、形だけ」
言われても納得出来ないエストレジャだったが、とにかく話を先に進めようと思って疑問を飲み込んだ。
「で? シュピナート村に何しに行くんだ?」
それは『勇者の日記』と関連していた。
これまでのことを思うと、伝説の大戦のものが消されているような気がしてならなかった。
そこでシエルはシュピナート村にある『姫巫女の日記』が危険だと思った。
嫌いな場所でも生まれ故郷だ。
炎に巻かれる中央都市プルプみたいなことは二度と見たくなかった。
「なるほどな。まさか『姫巫女の日記』があるとは思わなかった」
「わたしも『勇者の日記』があるなんて知らなかったわ」
どのくらい歩いたのか。距離どころか時間の感覚も麻痺してきた頃だった。
闇の中だと思っていた洞窟が僅かだが青白く光っていた。進めば進むほどに光は強くなっていき、緩くカーブした先は淡い光に溢れていた。
「シエル」
「……ごめんなさい。すごく嫌な思いさせるかも」
もう少しでカーブの先が見えるというところで、シエルは足を止めた。
繋いでいた手を離し、エストレジャを振り返る。
「わたし……あの村にいたくない」
「…………」
「でも、きっと。わたし……っ」
一度、村に帰ればもう二度と外には行けないかもしれない。それでも帰りたいと思ったのは、中央都市プルプが崩れていく光景を目にしてしまったからだった。
「シエル。お前次第だ」
「え?」
「お前はどうしたい」
「わたし……わたしは……っ」
静寂の中、やっと見えるようになったエストレジャの顔を捉えた。
「魔法を……探したい」
「じゃあ、決まりだ」
今度はエストレジャが先頭に立って、洞窟を進み始めた。
「俺をなめるなよ。シエルを連れ出してやるよ」
「無理よ」
「やってみなきゃ、わからんだろ」
「でも……」
「気にするな。らしくないぞ!」
「うん」
ゆっくりと後を追うように歩き出したシエル。
とにかくやってみるしかないと、エストレジャに勇気づけられて決意する。
その強い瞳を見たエストレジャが、微笑んでから前を向いた。
しかし、再び歩き始めてすぐ、エストレジャは足を止めた。
「泉?」
洞窟の奥。行き止まりのそこには、水たまりと間違えてしまうほどに小さな泉があった。
青白い光はその中から立ち上るように発生している。
「着いたわ」
「着いた?」
水面は鏡のように波すらたっていない。凍っているわけでもなく、無風というわけでもない。
時折、上から落ちてくる水滴が水面に落ちる。しかし、波紋もなくそこに吸い込まれていった。
気味が悪い泉に、さすがのエストレジャも顔をしかめた。
「お、おい。シエル」
シエルはエストレジャの手を握り、躊躇なく泉の真ん中まで歩いていく。
何とか二人が並んで泉に足をつけた。
水の中に入ったという感覚はない。まるで空気だった。
「大丈夫。最初は、びっくりすると思うけど」
「は?」
シエルは悪戯な笑みでエストレジャに答えた。
エストレジャの手を握ったまま、ゆっくり膝を着いた。反対の手を水面に置いた。
「開門!!」
泉全体が眩い光を放ち、目を塞いだ。足元から崩れるような感覚に、身体を強ばらせるエストレジャ。
二人は吸い込まれるように泉の中へ入っていく。
「シエル!」
エストレジャの叫びが木霊するように響いた直後、柔らかい光に包まれる。
久しぶりに感じた地面に、ほっとしながら目を開けた。
「ただいま、シュピナート村」
洞窟の暗いじめじめとした景色から一転。
穏やかな気候、草花が生い茂るのどかな風景に、エストレジャは言葉を失った。




