最悪な夜明け
息が切れるほど走った。
暑くも寒くもない、穏やかな気候の土地だ。それなのに熱い空気が背中から襲ってくる。
恐ろしさに走るスピードを上げれば、何かの灰が雪のように降り注ぐ。油断すると目に入って視界を塞いでしまう。
澱んだ空気が苦しかった。
やっと足を止めたのは、中央都市プルプから歩いて一時間半ほどの離れた場所にある馬車停留所。
牧場のようになっていて、小高い丘が目印だ。
街から逃げてきた人々が集まってくる。
――足りない……。
シエルは昨日見た賑わう街の様子を思い出し、あまりの違いに座り込んだ。大多数の人間が、まだ中央都市プルプにいる。
しかし眼前で燃え盛る街を見れば、助からないことは一目瞭然だった。
逃げ切った人々はシエルのように座り込んだり、知った人を見つけて抱き合ったり、涙を流したり、恐怖に無表情になる人もいた。
ここにいるほとんどが元気で、怪我をした者はいない。しかし、時間が経てば怪我人は増える。休んでいられなくなる。
――――
火事が起こったと叩き起こされたのは深夜から早朝の時間。太陽の光はまだ見えず、大半が夢の中だった。
火事なんて、そんなに慌てるほどのことではないと思っていた。
だが夜は明けていないはずなのに、カーテンの向こうが明るくて嫌な予感がした。
慌てて衣服を着て、荷物を掴んだ頃。すでに火の手は目の前に迫っていた。
シエルたちは出来るだけ早く逃げるために二手に分かれた。シエルはジュビアと、マールはエストレジャと逃げた。
ホテルを出て、振り返った先にあった大図書館。姿が見えないほどに強い炎が渦巻いていて、シエルは恐怖を感じた。
人さらいから解放された際に、ロシオが様々なことを話してくれた。その中に大図書館のこともあった。
『大図書館と王が居られるプルプ城は特殊な結界で守られている。だから、いざという時には避難場所になる。覚えておくといい』
結界が破られたということだ。炎の勢いが一番強いのは大図書館だったのだから。
火の手は濁流のように勢いが止まらず、民家を焼いていく。美しい町並みはあっという間に炎に巻かれていった。
子供達が遊んでいたであろう木々が並ぶ公園も、活気ある商店も、シエルがいたホテルも。
走り抜ける全ての街並みが燃えてしまうのだと思い、胸が締めつけられた。
――――
気がつけば、中央都市プルプは魔物のような炎によって堕ちていた。
崩れ落ちる建物。天に昇るかのように伸びる炎の渦。曇天に突き刺さるそれは、ただの炎ではなかった。
――魔法……。
恐ろしく眩しい光は魔法の火である証拠だ。
火事というだけで街がまるごと焼けるなんて、普通なら有り得ない。
術者がいて、炎を操ったということだ。しかも相当な能力を持った人物である。
シエルは初めて、魔法を恐ろしいと感じた。
いつの間にか朝になっていた。本当なら談笑しながら朝食をとっていたはずだった。
「シエル! シエル!!」
呼ばれていたことに気づかなかった。
シエルははっとして振り向いた。不安そうな顔をするジュビアと目が合う。
どんな表情をしたらよいかわからなくなって、俯くしかなかった。
「しっかりしなさい。私は医者だ。手当てに行く。君は――」
「……大丈夫。マールを捜すわ。それから、怪我人の誘導くらいは出来るから」
落ち込んでいる場合ではないと思い出した。いや、落ち込んでいると思われたくなくて、気丈に振舞っているだけかもしれない。
それでも、マールとエストレジャを捜すという目的は前を向く原動力になる。
「変わったな、シエル」
「……そうかもね」
ジュビアが嬉しそうに笑った。
「じゃあ、頼んだよ。シエル」
次の瞬間には目つきが変わって、颯爽と集まり始めた怪我人のところへ走っていった。
まだ怪我人は少ないと思っていたが、徐々に重傷を負った人々が運び込まれてくるようになった。
魔法騎士団や動ける者が扱う馬によって、どんどん運ばれてくる。
動けない者は寝かせ、動ける者は手当てに参加した。中にはもうすでに亡くなっている人の姿もあった。
まるで戦場だった。
辺りに立ち込める焼けた臭い。むせ返るような血の臭い。それは風に吹かれても消えることはなかった。
同時に人々の心の声が聞こえるようだ。
悲しみ、怒り、恐怖、不安が渦巻いていて、とても立ち入れない。足が竦んでしまう。
――魔法が怖い……。
魔王がいた時代に生まれたかったと思っていた。何度も願い、戦争が起こればいいのにと、本気で思っていた。
――なにもわかってなかった。
戦争なんてとんでもない、とシエルは頭を振る。
運ばれてくる人の至る所に火傷があった。シエルは知らず左腕を押さえていた。蘇る痛みに顔を歪める。
――運がよかっただけ。
酷い光景に、そう思わざるを得なかった。無傷で助かったのは奇跡だ。
怪我もなく逃げられたのはジュビアのお陰だった。一人だったらきっと最悪の場合、死んでいたかもしれなかった。
いち早く街の異変に気づき、動き出したエストレジャ。彼がいなければどうなっていたかはわからない。
魔法が使えない、ただの「人」だと思い知らされる。
シエルはマールを捜すが、人が多すぎてわからない。魔法騎士団も忙しそうに走り回っていて、聞くに聞けない。
マールはエストレジャと先にホテルを出たから、すでにこの臨時避難場所に来ているはずだった。
『早く逃げて! 大図書館に火を付けられた!!』
シエルはそう言って駆け回っていた魔法騎士のことを思い出していた。
炎に気づいたのは見張りをしていた見習い魔法騎士だった。任命式を終えたばかりの若い魔法騎士は、最悪の初日を迎えたのだ。
とても消火が間に合わず、避難を優先させ、魔法騎士団は炎の範囲を拡大させないよう防いでいた。
まだ起きたことが信じられず、考える余裕すらなかった。
――本当になにが起こったの?
誰もが思っていたことだった。出火元は大図書館。そこで何があったのかがわからない。
馬車停留所の入り口から一番離れている丘にいたシエル。いつまでも突っ立っているわけにはいかないと思い、歩き始めた。
馬車停留所前。普段は人々が歓談しながら馬車を待つそこに足を止めた。
もう、怪我人で溢れ返っていた。
口を押さえようとして、シエルは震える手を無理やり下におろした。
「昨日ぶりですね、お嬢さん」
そんなシエルに声がかかり、恐る恐る振り返る。見た瞬間、恐怖で後ずさりしそうになって留まった。
「……生きてたの」
「死んで欲しかったみたいな言い方はやめて欲しいな」
それは人さらいとして捕まった目の細い青年。
シエルはぐっと拳を握り締め、殴ってやろうかとアグラードを睨みつけた。
しかし、頭から血を流して座り込んでいる姿を見て力が緩む。
怒りと恐怖と、彼も犠牲者なのだという想いがないまぜになって、上手く表情が作れないシエルだった。
「地下牢から出たのね」
やっと出てきた言葉は、怒りでも心配でもない質問だった。
「消火が間に合わないと判断した魔法騎士団は、牢の鍵を開け放ちました。お陰で助かりましたが、大半は怪我で動けないままここに留まっています。後に捕らえられると思うと、彼らの判断は正しかったのでしょうね」
「魔法騎士団は罪人とはいえ、見殺しに出来なかっただけよ」
「……本当に甘いですね」
ムッとして睨むと、アグラードは楽しそうに笑った。
「回復してくれませんか?」
言われて拳を握り締めた。
「誰が!」
「駄目……ですか」
「……わたしは火魔法使い。回復魔法は使えない」
見つめ合ったまま沈黙が流れた。
何かを見透かすようなアグラードの視線に、足が動かなくなる。やがて苦しくなって目を逸らしたのはシエルだった。
「ずっと気になってることがあります」
「ずっと気にしていればいいじゃない」
やっとアグラードが声を出した。
シエルはほっとした。そのまま歩き去ろうと向きを変えた。
「あなた、魔法はどうしました?」
ビクリと体を震わせた。
予想しなかった問いに、どう答えたらよいのか頭が混乱する。自然と足を止めていた。
「捕まった時に魔法を使わない者を初めて見ましたよ」
「……たまたまよ」
「たまたま、ですか」
アグラードは嘲笑う。
シエルは振り向き、それを冷たい目で見ていた。
「気配を読む感覚が鋭い人間がいる。聞いたことありませんか?」
ふと、マールのことが頭に浮かんだ。
しかし関係ないだろうと、気持ちを強く持ち直す。
「知らないわ」
「おれにもあるんですよ、その感覚。あなたからは、力が感じられません」
「……信用、出来ないわ……」
シエルは青ざめ、声が震えた。
周りの声に邪魔され、それが聞こえたかどうかはわからない。
しかし、アグラードの嘲笑う表情にシエルは冷や汗を流していた。
「おれの依頼主は、あなたが気に入ったようですよ」
「……どういう……っ」
「あなたのようなレアな人間をあの方が放っておくはずがありません。せいぜい、気をつけることです」
頭に靄がかかったようだった。
悩みが浮上しては消え、また浮上してを繰り返す。混乱して、何をするべきかわからなくなっていた。
悪態をついてやろうと意気込んでいた感情を失い、その場を去ることに全神経を注いでいた。
逃げたら負けだと、頭の片隅をよぎる。しかしそれは呆気なく通過して、シエルの足をアグラードから離していく。
踵を返し、向かったのは馬車停留所から出る道。入り口にある看板を越えて外に踏み出した。
「また会いましょう、シエルさん」
はっとして振り返る。しかしすでにアグラードの姿はなくなっていた。
夢でも見ていたのではないか、異常事態に頭がおかしくなったのではないか。
様々なことを想定してみるも、アグラードがいたことは事実だと受け止めるしかなかった。
「名前……」
アグラードの情報網は侮れない。
シエルの名前を知っていた。ということは、他にも知っている可能性がある。
放っておくわけにはいかないが、もう彼を捕まえることは不可能だ。
「大丈夫ですか?」
その時、聞き覚えのある優しい声がしてシエルは足を止めた。
停留所のベンチに座り込む男性の足を見ている童顔の彼。マールだ。
「じっとしていてください」
男性の膝から足首まで深い切り傷がある。出血も地面に染み込むそれから、相当なものだと理解出来る。
切り傷は回復出来ても、魔法で負った傷は回復出来ない。
それがわかっているのか、男性の腕にある火傷からマールは目を逸らした。
「水脈を巡りし水龍の癒し」
足の傷が徐々に塞がっていくそれを見て、マールを見直してしまう。逞しいその姿に頼りたくなる。
すすや砂で汚れた顔も気にせず、ひたすら回復呪文を繰り返していた。
――魔力もないくせに。
額から滲み出る汗は、マールの限界の印。それでも止めようとしない。シエルも止めることは出来なかった。
やらなければ、助かる命が目の前でなくなるかもしれない。やらなければ傷が残るかもしれない。
だから、マールは限界とわかっていて必死に魔法を絞り出す。
「水脈を巡りし水龍の癒し」
また別の女性の顔に、マールは回復呪文をかけていた。
本当に戦場のようだった。
回復出来る者は走り回り、それ以外の者は怪我人を運ぶ。
泣き声や怒号が飛び交う中で、家族や知り合いを捜す人々が目立っていた。
キョロキョロと辺りを見回し、手当てする者に話を聞く。そして肩を落とす。
悔しさに胸が締めつけられた。
精神的なものも、回復で治せたらいいのに、とシエルは思った。
家を失い、家族や愛する人を失い、平和だった時間も、あの町の風景も炎が消してしまった。
そんな悲しみを抱えて、それでも前に進めと言うのは酷だ。
「お姉ちゃん、お布団ない?」
停留所から少し離れた辺り。普段なら馬車の通り道である、草も生えていない道沿い。
そこにいた五歳程度の少女が話しかけてきた。栗色の髪をした可愛い女の子だった。
「お布団、ある?」
「ん……ないけど。どうするの?」
「お母さん、寝ちゃったから」
振り向いたそこにいたのは、母親と思われる女性。道に横たわり、ピクリとも動かない。
――嘘……。
血の気が引いた。
離れた場所でも、女性がただ寝ているだけではないとわかったからだ。衣服に染みているのは血液だ。尋常な量ではない。
慌ててシエルは女性の横に膝をつく。確認してみるが、やはり動かず呼吸もなかった。
「お母さん、このままじゃ寒いでしょ?」
後ろから少女が声をかける。
シエルは必死に涙を堪えて、薄手のコートを脱いだ。ゆっくり女性に掛ける。
「これで、寒くないよ」
「お姉ちゃん、ありがとう!」
少女は嬉しそうに、母親の亡骸の傍らに座った。
本当のことを伝えるべきか、このままにするべきか葛藤した。
真実は、この少女にとってはまだ酷だ。しかし、遅かれ早かれ「母親が死んだ」ということを知ることになる。
それを受け入れるかどうかは、少女の強さ次第だ。
――せめて、今だけでも。
笑っていてほしくて、そっと少女の横顔を見つめた。
「あたし、ヌエス」
「ヌエスちゃん。わたしはシエルっていうの。よろしくね」
どう言うべきか悩んで、ヌエスの手を取った。目を見つめると、何だろうとヌエスは首を傾げた。
「お姉ちゃん?」
「ヌエスちゃん、お父さんは?」
「わからないの」
ヌエスはゆっくりと首を中央都市プルプに向けた。崩れ落ちるそれは、まだ燃え盛っていた。
「ヌエスちゃん。この先、いろいろあると思う。泣きたいことばかりで、ちっとも楽しくないって思うかもしれない。それでも生きるの」
「まだ、悪いことが起きるの?」
つぶらな瞳にシエルは負けそうになった。
泣いている場合ではない。それでも、気持ちを強く持たないと涙腺が緩んでしまう。
深呼吸をして、ヌエスに向き直った。
「そうね……でも、そんな時は歌をうたうの」
「歌?」
「そう、歌。辛い時、わたしもよく歌ってたの」
「でも……」
ヌエスは悲しそうな顔をして俯いた。
「あたし、歌はあんまり知らない」
小さな手が震えていた。
これ以上の悪いことは、小さな少女にとってはあまりにも辛すぎる。
現実を受け止めるだなんて、無理かもしれない。それでも、シエルには助ける方法が他に見当たらなかった。
「わたし、一つしか知らないけど。ヌエスちゃんに教えてあげる」
「え?」
「ちょっと難しいかも。でも、メロディは残ると思うから。聴いて」
シエルは目をとじて深呼吸をした。それを見てヌエスは待った。
――――星は道しるべ
――――星は歌い 空は聴いた
懐かしい故郷を思い出し、幼い頃に母に教えられた歌に、シエルは自然と笑みがこぼれた。
――――儚いものと人は言う
こんな風にヌエスにも笑ってほしい。
――――蒼き月は 勇気の剣
――――紅き月は 絶望の詩
――――真の月は 闇の中にあり
ヌエスだけではない。ここにいる全員に向かって歌っていた。
――――その雫は 闇に落ちていく
いつまでも笑ってほしいから、勇気を持ってもらいたかった。
――――我は知っている
――――闇の中にこそ 光があると
シエルの知っているメロディと詩は、ヌエスも、それをたまたま聴いた人々も知らないものだ。
――――求めるならば 恐れず行け
――――闇があるから 光が生まれる
しかし、穏やかなメロディが辺りに響き、殺伐とした空間に光をもたらすかのようであった。




