◆旅人◆
彼の最初の記憶は、手を差し延べる男の姿だった。
その手を取ると嬉しそうに男は笑った。しかし、手が震えていたことはよく覚えていた。何に怯えていたのか、何に緊張していたのかはわからない。
それでも男の笑顔に嘘偽りはなかった。彼、アキはそう信じていた。
『一緒に行こう、アキ』
どこへ行くのか、何をするのか、これまで何をしていたのかもわからない。それでも、いや、だからこそアキは彼を頼るしかなかった。子供である自分には、一人になる勇気はなかった。他に生きていく術はない。
アキは彼を嫌っている訳ではなかった。むしろその逆で一緒にいたいと思っていた。なぜかはわからないが、その手を跳ね除ける理由はない。
『……誰なの?』
男に尋ねると、彼は一瞬考え込む素振りを見せてから答えた。
『僕はルウ。君の親友だよ』
親友。それを聞いたら普通は驚いたり、不審な顔をするに違いない。しかしアキは安心したのだ。名前すら知らなかった彼に親友と言われて、心から嬉しかった。
それが、彼との出会い。ルウとの旅の始まりだった。
◇ ◇ ◇
「お兄ちゃんたち、旅人かい?」
ヴェス国グリューン町の大衆食堂。女将と会話をするのはルウ。
テーブルについてそんな二人の会話を聞くのはアキだ。長くなってきた金髪を搔き上げ、黒い瞳は二人を映し出していた。
女将は手に持った焼き魚定食を二膳、テーブルに置くとルウににっこり笑いかける。
「珍しい服装だけど、それはズユー国のものかい?」
白いシャツに黒いパンツ。それは至って普通の恰好である。
女将が言う珍しい服は、柔らかい素材のフード付の上着のことだ。色はベージュ色に統一されていて、ズユー国に流通しているものだ。
アキも中に着た服は違っても、上着は同じだ。ズユー国は暑い国で、旅をする時にはこのフード付の上着が必需品である。
「こんな時期に旅なんて、本当に珍しいね」
「旅人、珍しいんですか?」
「いや。子供がいることが珍しいのさ。だいたい学校に入れたりするだろう?」
「そう、です……ね」
今日のおすすめである焼き魚定食を食べようとして手が止まった。まさか話題が自分のことになるとは思わなかったアキだ。
アキは小さくため息をついた。
ルウはソフトモヒカンにした黒髪を掻いて、あからさまに困っている。同じ色の瞳が泳ぎ、テーブルの上のスープに落ちた。
「訳ありかい?」
「えっと……」
まただ、とアキは思った。構わず目の前の魚をほぐし始める。
「僕たちはです、ね……」
「訳ありですよ。我は家庭教師をしている。職業柄、一つの場所に留まることが出来ないという彼の依頼でね」
言葉を濁すルウの背後に現れた人物。その彼を見て女将の頬が赤く染まった。
それだけ美しい顔立ちの男だったからだ。肩の高さにきっちり揃えて切られた亜麻色の髪と透き通るような金色の瞳。白い肌の男は女将に笑いかける。
「この子を一人残す訳にはいかないし、離れることも不安だと言うので、我は旅をしながら勉強を教えている」
言葉に詰まったルウに代わり、美しい男性ヴァンが説明した。女将はすぐに納得する。
「そんなにあちこち動き回らなきゃならない仕事なのかい?」
ルウに質問が飛ぶが、彼は頷くことしか出来なかった。
「女将。そこは察して欲しい。極秘任務だと我も聞いているのでね。それより、我にも同じ定食をくれるかい?」
「あ、ああ。悪かったね。今すぐに用意するよ。座って待っていておくれ」
女将が席を離れると、ヴァンはゆっくりと座る。アキは食事を再開し、ルウは大きく息を吐き出した。
「ルウ」
「言いたいことはわかってるよ。わかってるから、今はそっとしといてくれない? ヴァン」
手をひらひらさせるルウに冷たい視線を送る。それがわかっているルウは窓の外を見ながら水を飲んでいた。
「いや、今日は言わせてもらう」
しかしルウの願いは却下された。ヴァンが顔を近づけるとルウはたじろぐ。
「もっと堂々と嘘をつきたまえ」
水を吹き出しそうになり、それを堪えた結果むせて咳き込む。落ち着いたところでヴァンに反論した。
「堂々と嘘なんてよく言う。ヴァンがおかしいって」
「堂々としないと嘘がバレるだろう」
「そもそも、嘘をつくなんて……っ」
「正直に話したから、こうして放浪しているのだろう。早く自覚したまえ」
「偉そうに」
「我は偉いぞ。知っているだろう」
「はいはい、知ってます」
足を組み、椅子に寄りかかる姿は様になっていて偉そうではあるが気品に溢れている。それがヴァンだ。
一方のルウはこれといった特徴がない。あるといえば身長が低いこと。嘘が苦手な少年のような心を持った青年。
二人は二十歳であるが、人間らしくない美しさを持つヴァン。挙動不審なルウ。どちらにしろ目立っていた。
アキはまだ言い合いをしている二人をよそに食事を続ける。そのアキは八歳の子供である。
二人のケンカはいつものこと。しかも嘘が下手なルウが原因であることが多い。
本当のことは旅をしていることくらいだ。だからこそ、正直者のルウには難しいのだ。それだけいい奴であるというのもわかってはいた。
「……あれ?」
窓の外が騒がしくなって、食事をしていたアキもケンカをしていた二人もそちらを見遣る。
「なんだろう」
「お待たせ。焼き魚定食だよ」
その時、タイミング良く女将がテーブルに定食を置いた。
「女将。あれは何の騒ぎだい?」
ヴァンが聞くと、女将は外を一目見て微笑んだ。
「ちょうど卒業式が終わったところだね」
「卒業式?」
「グリューン魔法学校の卒業式。町の中央に学校があってね。そこの通りを真っ直ぐ北に行くとすぐにあるよ。結構、有名な魔法学校なんだよ」
よく見ると白い制服を着た学生が笑顔で歩いていくのが見えた。町の人々はそれを祝福している微笑ましい光景だ。
「女将さん、魔法学校って入学するにはどうするの?」
「え……そりゃあ、試験が近々あると思うけど」
「校長先生と話、出来ないかな?」
ルウの発言に一番驚いたのはアキだった。
先程までの困り顔は消えて、しっかりした物言いをしていた。いつものルウとは違う。
「出来ないこともないけど、今日は卒業式だったからね。すぐには無理だと思うよ」
「そうですか……」
「一体、どうしたんだい?」
「そろそろ彼にもちゃんとした学校に通わせたいと思って」
それに驚いたヴァンだったが、あえて何も言わずにルウの言動を見守った。
「いや、でも。この子はまだ魔法学校に入学出来る年齢に達してないよ。まずは普通教育学科を――」
「彼は誰よりも強いから。入学出来なくても、話くらいは聞いておきたいんだけど」
間髪入れずに喋るルウ。女将はあまりの変わりように目をぱちくりさせていた。
「一体、どうしたんだい?」
「そろそろちゃんとした教育を受けさせてあげたいと思っていたので。それで、たまたま来たグリューン町に有名な魔法学校があるって聞いて。話を聞いてみたいと思っただけです」
言葉に詰まることも、困ることもなく、真剣な目を女将に向けるルウはもはや別人のようだった。
「……よし、わかったよ」
女将はルウの背中をバンバン叩いた。
「あんた見かけによらず、ちゃんと保護者やってんじゃないか!」
激しく叩かれて咳き込みながらも、ルウは女将に笑いかけた。
「明日だったら、あたいが話を通してあげるよ」
「え?」
「こういう店をやってるからね。校長とも知り合いなのさ」
女将はウィンクをした。それを見てルウは満面の笑みで頭を下げた。
「ありがとうございます」
そんなルウと女将を横目に、アキとヴァンはお互いの目を見ながら首を傾げるのだった。




