その参
フェリシアが必死の思いで長屋にたどりつくと、佐吉の部屋の前はたくさんの人の怒号に囲まれていました。
それは長屋の住人もいましたし、見知らぬ顔の人もいました。
「出てこい!お前が犬小屋奉行の密偵だってことは皆知ってんだよ!!」
「俺たちをお上に売って散々おいしい思いをしやがって!」
「おら、お前も犬ころと同じ目にあわせてやるよ!出てこいや!!」
などなど、それはひどいもので、フェリシアは耳をふさいでその場にうずくまりたくなりました。
しかし、輪の中に入りマリアンナ姫と佐吉の無事を確かめなければなりません。
フェリシアは固く決意をすると、静かな闘志によりその場で遠吠えをしました。
佐吉の部屋を囲んでいた人々は、突然背後で上がった遠吠えにギョッとして振り返りました。
そんな人々の隙を見逃さないとでもいうように戸板が激しく開かれ、マリアンナ姫を背負った佐吉が飛び出してきました。
「フェリシア!私と佐吉を背負って走りなさい!!」
その凛とした声は、間違いなくフェリシアの主のマリアンナ姫の声でした。
「かしこまりました!」
フェリシアは言うがいなや悪意の輪の中に飛び込み、マリアンナ姫を背負った佐吉を更にその背に背負うと、驚異的な脚力で人の輪を飛び越えて走り出しました。
「待て!おい、奴らを逃がすな!!」
「およしよ、あの娘たちは関係ないだろう!」
「あの娘たちもこぎたねぇ密偵の仲間だろ!」
そんな声もあっという間に遠ざかっていきました。
「どちらへ行きましょう?」
フェリシアは二人を背負ったまま、息も切らさずに走り続けます。
佐吉はフェリシアに仰天して言葉を失っていましたが、マリアンナ姫に小突かれて我に返りました。
「あ、…あぁ。関所前の橋の下に隠れてくれ」
「わっかりましたぁ!」
疾風のごとく走り去るフェリシアたちを目撃した人々は、「妖怪かまいたちがあらわれた」と噂したといいます。
橋の下にたどりつくと、フェリシアは二人を背中からおろしました。
フェリシアはマリアンナ姫の様子が気になりましたが、確認をする前に必死の形相の佐吉に肩をつかまれました。
「連中が言っていた通り、俺はお上の密偵だった。俺は江戸を出るわけにはいかないが、お前さんたちは江戸を出ていったほうが安全だろう。
おフエのその力があれば、女の二人旅でも危険はなかろう。江戸をでて長崎の出島に向かえ。蘭人に混じってしまえばあとはどうにかいけるだろう」
佐吉は一息に言い切ったあと、フェリシアとマリアンナ姫を眺めてくしゃりとわらいました。
「お前さんたちと過ごした日々は本当に楽しかったぜ。お前さんたちといるときは、俺は他人を売って生きるうすぎたねぇ密偵なんかじゃなくて、ただの町人の佐吉でいられたよ」
そう言う佐吉の笑顔は、フェリシアには何故か泣いているように見えました。
「佐吉」
マリアンナ姫が、祖国でも江戸でも見たことのないような真剣な顔をして佐吉に話しかけました。
「為政者は孤独なものよ。上の苦労なんて下々のものには伝わらないわ。でも…」
一言くぎると、マリアンナ姫は花のような笑顔を見せました。
「あなたたちのように、部下が己の意思を正しく理解してくれるというそのことが、綱吉公にとっては大きな心の支えとなっていたはずよ」
佐吉は虚をつかれたように一瞬ほうけた顔をしました。
そして、ゴシゴシと乱暴に目元をこすりました。
「達者でな」
清々しい笑顔でそう言い残すと、佐吉は振り返ることもなく二人を置いて走っていってしまいました。
「マリアンナ姫様…」
佐吉の姿が見えなくなったことで心細くなったフェリシアは、かぼそい声でマリアンナ姫の名前を呼びました。
それは先ほどのしゃんとしたマリアンナ姫が、実は幻だったのではないかと不安にかられてのことでした。
「そんな声を出さないの。さっきまでの力強いアンタはどこに行ったのよ」
それは江戸に来る前のマリアンナ姫のようでいて、どこか違うマリアンナ姫でした。
どこが違うのかはっきりとはわからず、フェリシアはマリアンナ姫をじっと見ながら首を傾げました。
「だんだん意識がはっきりしてきたら、得体の知れない男の家にいるんだもの。本当にびっくりしたわよ」
マリアンナ姫は腰に手を当てて、口を尖らせながらちゃきちゃきと話します。
それは髪と目の色彩はちがうものの、長屋にいたおかみさんたちとなんら変わらない姿でした。
フェリシアはなんだか嬉しくなってつい微笑んでしまいました。
「私の反応がないものだから、佐吉ったら私に延々とお上の意向を民が理解してくれないとか愚痴を言っていたのよ!ず~っとよ!おかげで綱吉公の出した法令を全部覚えてしまったわよ、信じられる?ぜ・ん・ぶ・よ!!」
佐吉が江戸のことやその日あったことなどをマリアンナ姫に話しかける姿は毎日見ていましたが、そんなことを話していたとはフェリシアは全く知りませんでした。
マリアンナ姫はフェリシアにもわかるように、佐吉の無念を教えてくれました。
生類哀れみの令とは、本来は戦国時代から続く弱者を見捨てる風習を廃止させることが目的であったこと、老人は山に捨てられ捨て子は見殺しにされていたのを救済するための令であったこと。
動物や犬もその弱者の一部にすぎなかったこと。
また、犬屋敷は危険な野犬を管理する目的であったこと。
しかしその令にわざと反するものがいたため、次第に法令が厳しく処罰が重くなっていったこと。
そして周りの大名が綱吉公の発令を曲解したために、どんどんお上の望まぬところで令が歪んでいき、輿に乗ったお犬様が出来上がったということ。
フェリシアは全部を理解したわけではありませんでしたが、自分の望まぬかたちで歪まれた法令によりみんなに憎まれるお殿様がかわいそうだと思いました。
そしてお殿様に対する町民の恨みの声を聞きながら、風刺画を描いていた佐吉のことを考えると胸が苦しくなるのでした。
もしかして、とフェリシアはマリアンナ姫を見ました。
マリアンナ姫のお父さんも、民に理解されない苦しみに悩んでいたりするのでしょうか。
フェリシアの視線に、マリアンナ姫は苦笑しました。
「娘の私も、王としてのお父様の苦しみを知ろうと思ったこともなかったわ。本当に狭い世界で生きていたものね…」
そうしみじみと話すマリアンナ姫を見て、フェリシアはなんだかマリアンナ姫がとても大人に見えました。
そして、今のマリアンナ姫がつくる国を見てみたいとフェリシアは強く思いました。
そのとき、橋の上を数人のひとがドタドタと走り抜ける音がしました。
怒鳴り声の内容をきくと、犬を追い掛け回しているようです。
「殺してやる」だとかひどい言葉がたくさん聞こえました。
「醜いものね」
そう呟いたマリアンナ姫の顔は憂いに満ちていました。
祖国での自分の行いを思い出しているのでしょうか。
「さっ、ナガサキだったかしら?そこに行くとしましょうか」
マリアンナ姫はさっと立ち上がりました。
「関所を抜けるまでは私をおぶってちょうだいね。その後はおいおい考えましょう」
「はい!」
フェリシアはマリアンナ姫を背負い橋のたもとまで上がっていったそのときです。
川岸の柳の木に雷が落ちました。
「きゃあぁああぁああああ!!」
マリアンナ姫とフェリシアは落雷の衝撃により、気を失ったまま川へと落ちてしまったのでした。
とある世界のとある国の歴史書にこう記されています。
「ある日神隠しにあったとされるお姫様は、ある日とつぜんお城に帰ってきました。
獣人に誘拐されたとの噂もありましたが、お姫様はそれを否定され『精霊の導きにより、精霊の国に招かれていました』と発表されました。
お姫様は以前に比べとても思慮深い方になりました。国の政を積極的に勉強し、また民の意見もよく聞くようになられたのです。
数年後、父である王が崩御された後、姫は女王となりこの国をおさめました。
その政治的手腕はとても素晴らしいものでした。
また、マリアンナ女王の有名な法令として、それまで奴隷として扱われていた獣人たちの待遇改善が挙げられます。
一般に『獣人革命』と呼ばれるそれは、獣人に一般市民としての身分を与えるというものでした。
もちろん貴族のみならず市民からも強い反発がありましたが、マリアンナ女王は強硬な策をとらず、じっくりと時間をかけて『獣人革命』を成立させていったといわれています。
また、マリアンナ女王は生涯を独身で過ごしたため、処女王とも呼ばれています。
これはマリアンナ女王が『男性恐怖症であったため』とも『精霊の国に想い人がいるため』ともいわれていますが、真相はわからないままです。
そして女王の傍らには、いつも女王に忠実につき従う犬型獣人の姿があったといわれています。
」
これで、このお話はおしまい、おしまい
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
おしまい、おしまい。