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その弐

「では、あの女を不問に処すということでよろしゅうございますか?」

「…はい!」

「…では、そのように手配いたしましょう」


 そこで二人は安堵のため息をつきました。

フェリシアは姫を救えることへの安堵、柿崎は厄介ごとがすんなりと片付きそうな安堵です。

もしフェリシアが牢の女の処刑を望めば、たとえ後々異人の女を殺したと問題になっても柿崎は「犬神様の命により」という名目で処刑を執行するつもりでした。



 その後、簡単な手続きのみでマリアンナ姫は釈放され、フェリシアも犬屋敷を出ることにしました。

柿崎はこの厄介な二人のことは、何の記録も残さないことにしました。


 釈放されたマリアンナ姫は身も心もボロボロでした。

お取調べの際に、反抗的な態度をとり役人に暴言を吐いたり、お犬様を侮辱するようなことを言ったので棒で何度も打ち据えられたのでした。

今まで蝶よ花よと育てられてきた彼女にとって、それは世界がひっくり返ったほどの衝撃でした。

もうフェリシアが許可もなく身体に触ってきても、己の惨めな姿に比べてフェリシアが小奇麗な格好をしていても、気にする気力もありませんでした。


 もはや呆然とするだけのマリアンナ姫と、見知らぬ土地でどうしたらいいのかわからず呆然とするフェリシアは、犬屋敷の前で寄り添いただただ突っ立っていました。

そのうち珍妙な二人組みを遠目で見ようとする野次馬が、二人を囲みだしました。


 肝心のマリアンナ姫は反応がなく、周りを囲むのは好奇心でギラギラした視線を向けてくる見知らぬ格好をした老若男女ばかりで、フェリシアはパニックのあまり遠吠えをしようとしたその時でした。


「お嬢ちゃんたち、このままじゃちぃっと目立ちすぎる。なに、俺は妖しいものじゃない。あんた達の味方だ。ついておいで」


 フェリシアが声のほうを見ると、そこにねずみ色の着流し姿の若い男がいました。


 ここでマリアンナ姫にしっかりとした意思があったなら、「こんな妖しい男、誰がついていくもんですか!」と男の誘いを一蹴したでしょうが、フェリシアは藁にもすがる思いで姫を支えながら男についていったのでした。



 男と二人は人ごみを抜け、橋をわたり人気のない小道を歩き、やがて町人や職人の住む貧乏長屋へとたどり着きました。

「ここが俺んちだ。野郎の一人暮らしだ。手狭で悪いが勘弁してくれい」

男は障子がところどころ破れた戸板を開き、中に二人を招き入れました。

フェリシアはこの貧乏長屋を見て、王都のスラム街のようだと思いましたが、今はこの男だけが救いだったので言われるがままに中に入りました。


 中は絵筆や絵を描きかけの半紙がいたるところに散らばっていました。

「今座るところをつくるから、ちょいと待ってな」

男はそう言いながら、いそいそと道具を片付けていきます。


「絵描きさんなんですか?」

フェリシアは足元に落ちている犬の顔をした侍の絵を見て、興味を引かれ聞きました。

「俺は風刺画を描いておまんまを食ってるんだ。あんまり売れてねえがね」

男は恥ずかしそうに答えました。


「さ、できた。座っとくれ。今水を持ってくら」

男にうながされるまま、フェリシアとマリアンナ姫は擦り切れた畳の上に座りました。

元の世界であれば床に座るというのは不潔で下品な行為として、指を指されてけなされてもおかしくない行為でしたが、マリアンナ姫は茫然自失の状態でされるがまま、フェリシアは命令されて土の上に座らされることもしょっちゅうでしたので、慣れたものでした。


 やがて男は欠けた湯のみに井戸の水を入れて戻ってきました。

湯飲みは黄ばんでいて汚かったですが、泥水を飲まされることもあるフェリシアには気にもなりませんでした。


「さて、お前さんたちを連れてきた理由なんだがね、俺は風刺画描きなんてものをしているせいか、人より好奇心が強くてね。珍妙なおまえさんがたが気になってしかたないのさ。見たところ行く当てもないようだし、しばらく俺のところにいてお前さんがたの身の上話を聞かせてほしんだ。どうだい、悪い話じゃないと思うんだが…」

男は早口で一気に話したため、フェリシアは目を白黒させることしかできませんでした。

そんなフェリシアの態度に、男はフェリシアが迷っているのだと思いマリアンナのほうを見て言いました。

「そこのお嬢ちゃんも、しばらく体を休めたほうがいいと思うぞ」

フェリシアはハッとしてマリアンナ姫を見ました。

確かに全てこの男の言うとおりのような気がします。


 そして二人はこの男のもとで厄介になることになったのです。







「おフエちゃん、今日はいい大根が手に入ったんだ。これでマリちゃんに栄養をつけておあげ」

「うわぁ、りっぱな大根!タエさん、ありがとうございます」


 長屋の井戸で水を汲んでいたフェリシアは、掲げられた大根を見て歓声を上げました。

その頭には手ぬぐいを巻いて耳を隠し、長屋のおかみさん連中からもらった着物を着てたすきをした姿は、どこから見ても立派な長屋の住人です。


「また力仕事が必要なときがあったら言ってくださいね!わたし頑張ります!」

「おフエちゃんのおかげで本当に助かっているよ。またなんかあったらよろしくね!」

フェリシアはおタエに力強く返事をすると、うきうきした足取りで自分の住処に戻っていきます。


 その溌剌とした姿は、この長屋で暮らすうちに戻ってきたフェリシア本来の姿でした。


「佐吉さん、ただいまーっ!今おタエさんからこんな立派な大根をもらいました!」

「おう、おフエ、ご苦労さん」

佐吉は風刺画を描いていた手を止めて、フェリシアに返事をします。


「マリアンナ様、今日は大根粥にしましょうね。」

「…うん…」

部屋の隅に座り、鞠を胸に持ったマリアンナ姫はゆっくりとうなずきました。

 この鞠は「この江戸で、アンタと同じ名前のものだよ」と、身も心もボロボロだったマリアンナ姫に、佐吉が手慰みになればと買ってきたものです。

それ以来、マリアンナ姫はこの鞠をいっときも手放すことなく持っていました。

ちなみに、フェリシアは笛のおもちゃをもらいました。


 マリアンナ姫はフェリシアと同様に質素な着物を身にまとっていましたが、外に一切出ないため白かった肌はさらに青白く、黄金の髪は梳くこともせずゆるく後ろでまとめただけ、紗のかかった青い瞳のその姿は、やはりこの世界に馴染んだものではなく、また歳不相応のぼうとした顔は白痴という言葉がピッタリでした。



 フェリシアとマリアンナ姫が江戸に来てから一年が経っていました。

男の名は佐吉といい自称売れない絵描きではありましたが、女二人を養うだけの財力はあったようで、贅沢はもちろんできませんでしたが生活に困ることなくフェリシアとマリアンナ姫は居候を続けていました。

 佐吉はマリアンナ姫とフェリシアの身の上話を聞いてもバカにすることもなく、「ちょいといじればいい芝居が書けそうだな」と考えるそぶりをしただけで、フェリシアは不思議な人だなと思いました。

フェリシアは知りませんでしたが、絵描きなどよっぽど売れっ子でなければ生活は苦しく、女二人を養うなど到底無理なことであり、いろいろと謎の多い男でした。


 男はまた、この長屋の過ごし方から徳川綱吉公発令の一連の法のことまでいろいろとフェリシアに教えてくれました。


 赤子や老人を大切にする令から始まり、獣の肉や魚を食べてはいけない令や、犬のために屋敷が作られそのためのお役人までいることなどさまざまでした。

元の世界で奴隷として虐げられていたフェエリシアにとって、犬や動物を虐げただけで人が、それも偉い役職の人が処罰されるということは信じられない思いでした。

自分に子どもができないから、犬や動物を大事にしようなんて、偉い人の考えることはわからないなとフェリシアは思いました。

もしフェリシアの国の王様にマリアンナ様が生まれなかったら…、…獣人のせいだといってもっと虐待されるような気がして、フェリシアは頭を振って意味のない想像をやめました。


 マリアンナ姫は最初のほうは人形のように意思疎通ができない状態で、促せばゆるゆると動きはするのですがご飯を食べるにもポロポロとこぼしたりする状態だったため、フェリシアが試行錯誤しながら身の回りのお世話をしていました。

一年をかけて、ようやく身の回りのことが一人でできるようになり、幼児並みに自分の意思表示をするようになってきたところでした。


 一方フェリシアは佐吉の勧めで犬耳を頭に手ぬぐいを巻いて隠し、尻尾は布を巻いた上からぶかぶかの割烹着を着て隠し、佐吉の部屋の掃除やご飯の準備、また獣人の怪力を生かして長屋での力仕事を手伝ったりしながら「おフエちゃん」という愛称でしだいに長屋の住人から親しまれていきました。

先日などは、ぎっくり腰で動けなくなった大工の棟梁を、建物が完成するまでの数日間に作業場まで毎日おぶって送り迎えをしていました。今日の大根もそのお礼でした。


 フェリシアは、もしかしたらこの江戸で死ぬまで暮らすことになるかもしれないけど、皆でのんびりと暮らしていけるならそれでもいいかもしれないと思うようになっていました。



 そんなある日のことでした。

フェリシアは佐吉に用事を頼まれて墨と紅を買ってきた帰りのことでした。

長屋の前の小道に差し掛かったとき、すぐそばの神社から佐吉と知らぬ声の持ち主が声をひそめてなにやら話しているのが聞こえました。

常人では障子の戸板に耳をつけてようやく聞こえるかぐらいの声でしたが、犬型獣人のフェリシアははっきりと聞き取ることができました。


「お(かみ)が病に伏せられ、次の将軍の話が出ているそうだ。」

「なんと!家宣様は生類哀れみの令にはあまり良くは思われていないと聞く。これはわれらの先行きもあやしいな。」

「あぁ、さまざまな令がほうぼうから出されたせいで民の不満は膨れ上がる一方だ。」

「全てがお上の令ではないというのに、理不尽なもんだ。」

「民にそれを言っても詮無きことよ。では、拙者はこれで」

「あぁ」


 神社をあとにした佐吉を、フェリシアは長屋の佐吉の部屋で迎えました。

「佐吉さん、これでいいのかな?」

佐吉の表情は、今朝方フェリシアをお使いに見送ったときに比べて疲れて見えましたが、フェリシアは気付かない振りをしました。

なにか大きな時代の流れがきそうな予感はしましたが、このまま、3人で暮らしていきたいとフェリシアは強く思いました。




 そしてそのときは訪れました。


 宝永6年、5代将軍徳川綱吉公 崩御。


 6代将軍に就いた徳川家宣公は、綱吉公崩御からわずか10日後に犬屋敷および犬小屋奉行の解体を命じたのでした。

大飢饉のさなかに人よりも優遇されていた犬に、民衆の怒りは集まりました。

少し前までは犬が輿に乗り平民が平伏している風景がそこらに広がっていましたが、今ではどうでしょう、犬を見れば人々は石を投げつけたり棒を持って追いまわしたりしました。


 お使いに出ていたフェリシアは、変わってしまった町並みに愕然としながら家路を急ぎました。

法令のひとつで人はあんなにも変わってしまうものなのでしょうか。

フェリシアには、犬を追い回す人々の顔が悪鬼の形相に見えて仕方ありませんでした。

祖国の獣人を虐待する人々も似たような表情をしていましたが、江戸の人々の動物に優しく接してきた顔を知っているだけに、その豹変はフェリシアの恐怖を呼び起こしました。


もし、もし江戸に来たときに、あのまま犬神様として崇められていたら、今頃フェリシアはどうなっていたのでしょうか。

フェリシアは己を両手で抱きしめながらも、体の震えを止めることができませんでした。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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