2章 フランチェスカ研究所
施設の前に立つと、門は固く閉ざされていた。
どうやって中に入ればいいのか、見当もつかない。
カリンはバッグを開き、書類を一枚ずつ確認し、携帯端末のデータにも目を通す。
だが、フランチェスカ研究所の「入り方」などという、あまりに限定的な情報は、どこにも見当たらなかった。
そうこうしているうちに、ひときわ強い風が吹き抜ける。
体の芯まで冷気が染み込み、思わず肩をすくめた。
ふと視界の隅に、異物が映る。振り向くと、ずっと北の方角に、何かが蠢いていた。
カリンの背筋に悪寒が走る。この距離からでもはっきり見える巨体。
普通の野生生物とは、何かが明確に違う。
生理的な嫌悪が全身を駆け巡り、遅れて知識が意識に入ってくる。
北へ緯度5度。
370km先に、死領域が広がっている。
キメラや異形体ー
常軌を逸した存在が打ち捨てられてきた。
この辺りが危険と言われるのは、
死領域の生き残りが、時折ここまで流れ着くからだ。
だがー
カリンは深呼吸をして、落ち着かせた。
「ここまでは、来れないよ」
声が震えていたが、自分で小さく頷いて、一旦安堵する。
この施設門外には、近づけないよう低周波の音波が流されていると聞く。あらゆる動物が嫌厭する曲だ。
人間には聞こえない。
カリンはふと、遠くにある"異物"から目を反らし、意識の外に追いやった。
硬くとじられた門戸を見つめる。
さて、どうしよう。
――と、そのとき。
背後で足音がした。
軽い重心、機敏な足取り。
それに反する、不思議な落ち着き。
こんな場所で、誰だろう。
緊張しながら振り返ると、そこに立っていたのは、琥珀色の髪をした女の子だった。
髪は肩にかかるほどの長さ。こんなに寒いというのに、軍服姿だ。
肩からはカメラをさげている。だいぶ古い機種である。
「はぁ〜。萎える。ほーんとに萎える」
独り言をつぶやきながら、少女は近づいてくる。
カリンをちらりと見て、次の瞬間、にこりと笑った。
「あ、よろしくお願いしまーす」
「えっと……ここの人、ですか?」
戸惑いがちに尋ねると、女の子は軽く頷いた。
「まぁ、そんな感じですかね。今日からここです。多分、あなたも今日から?」
カリンが頷くと、少女は「ドンマイ」と軽く肩を叩いた。
「ここ、フランチェスカ研究所」
「あの、それが何か……?」
不安になって聞き返すと、少女は門の脇に設置された端末に指を当てた。
指紋認証の光が走る。
「エメラルドの人なのに知らないんですか? 悪名高いって有名ですよ」
少女は平然と言い切った。
「えぇ...」
カリンは思わず項垂れる。
次の瞬間、門がわずかに開いた。
少女がするりと身を滑り込ませる――門がすぐに閉まった。
気づけば、少女は門の内側に立っていた。
「ここの入り方。すぐ認証して、すぐ入らないとダメなんです」
「どうして?」
「死領域からM体が侵入してくる可能性があるから」
「М体…?」
カリンが首を傾げると、女の子が補足した。
「通称、虚獣。」
一瞬、時が止まった。
虚獣ー
聞き覚えのある言葉だった。
この一帯に棲む、危険な何か――確か、そんな話を耳にしたような。
カリンは北の方角をちらりと見て、少女に尋ねた。
「それはあの遠くに見えるやつ?」
女の子は、柵の向こうで一瞬考えるように上を向いた。
そして一言。
「いや、違います」
「あれは死領域の生き残り。」
「М体は、もっと不可解で、もっと恐ろしい化け物です」
小さく空っ風が吹いた。
カリンの背筋に、冷たいものが走る。
でも――彼らも生き物なら、ここまで来れないはず。
「早く入ってくださーい」
女の子の声で我に返る。
そうだ。一刻も早く入らねばー
というより、早く入ってしまいたかった。
がー
あの入り方を思い出し、カリンは小さく首を振った。
「……力技すぎません?」
「はい! 力技です」
少女はあっけらかんと答える。
「入るだけでも、ひと手間かかってる。さすが研究長!」
皮肉なのか本気なのか、判別のつかない口調だった。
「でも、指紋なんて登録してない...」
カリンが呟く。
「もうされてます。自動的に、全部整えられてますから」
「でも、私、あなたほど機敏じゃないです」
「門に挟まれることはありません。瞬時に反応して止まりますから」
「ほらほら、速く速くー。M体、入ってきますよー」
煽られ、半ば勢いで指紋認証を済ませる。
門が開いた瞬間、カリンは中へ飛び込んだ。
勢い余って硬い地面に膝をつき、手のひらが氷河の残骸に触れる。
「も、もっと……こう、なんか、ないのかな……」
それから顔をあげる。
「門外には生き物が近づけないって…聞きました。
М体も同じなんじゃないですか?」
少女は首を傾げた。
「低周波は普通の生物には効きますけど、М体には…どうなんでしょう。誰も確かめたくないですよね」
「とにかく、施設のルールがそうなってるんです。安全第一ってことで」
それからぱっと顔を輝かせ、顔の前で親指を立てた。
「でも、今の動きナイスでしたよ! カリンさん!」
カリンは一瞬、固まった。――
なぜ、名前を知っているの?この子に、名乗った覚えはない。
◇◇◇
施設の中は、広々としたセラミックタイルの床だった。
歩くたび、靴音が高い天井に反響する。
人が少ないのか、施設が広すぎるのか、
どこか人気が感じられなかった。
歩きながら、カリンは辺りを見回した。
少女と歩きながら、カリンはふと声をかけてみる。
「あの…さっき萎えるって言ってましたよね…?」
少女は一瞬立ち止まり、思い出したように頷いた。
「あーはいはい。」
「それはここが、寒いから?」
少女はにこっと笑うと、肩にかけたカメラを手に取った。
「違います。ほら」
液晶画面には、遠近法を利用した構図。遠くにいたあの生物と少女の2ショットだ。ピースまでして、やけに楽しそうである。
「ここに氷河があるでしょ。これがじゃまなんです」
「わぁ...惜しかったですねー」
カリンはくすくす笑った。
この写真で見ると、不気味な生き物も滑稽に見えてくる。
少女はふいに端末を開き、顔をしかめた。
「はー?もうコキ使いすぎ!」
「次はカリンさんも撮りましょう!じゃ!」
少女は笑顔でそう言って、風のように去っていった。
「また」
カリンは小さく手を振った。
◇◇◇
琥珀髪の少女と別れて廊下を歩くが、社宅寮が見当たらない。
「あれ...どっちだっけ...」
歩きながら、カリンは辺りを見回した。
スモークガラス越しに、外の景色はぼんやりと滲んでいる。
照明は柔らい。
上質だが、派手さはない。
洗練された静けさが、研究所全体を包んでいる。
そこへ、一点、混ざり毛のように異質な存在があった。
カリンの表情が凍りつく。
廊下突き当たりに、あの生き物がいた。
一言にいえば、それは"花"
だが、動いていた。牙もある。
低く唸るその姿は、野生の肉食動物のようでもある。
しかし、体を震わせる空気の波や、視界の端にちらつく異様な光は、どこか人知を超えていた。
無意識の奥底が、何か決定的に違うと警告している。
先ほど門外で見たものより、かなり小さい。多分、カリンの膝下くらいである。
よく見たら、花弁だけで茎や葉らしきものが見当たらない。
カリンはゆっくり、刺激しないように後退りした。
と、その時ー
化け物が跳躍した。
背筋に悪寒が走る。
恐怖より、不気味さや気持ち悪さが勝った。
その跳躍の原因はすぐに分かる。
廊下突き当たりから、少女が現れた。
ツインテールにおおきなつり目が特徴的。
彼女は、花弁を蹴り上げながら、こちらへ進んでいた。
「え、エリカちゃん...?」
カリンは思わず呟いた。
その声にやっと、ツインテールの少女が顔を上げた。
「カリンさん...」
エリカは、エメラルドの学生だったときの後輩だ。
「何やってるの?」
カリンはきょとんとしながら尋ねた。
「被検体っ!収集です!」
エリカはそう言いながら、再び、花を蹴り上げた。
花は、花弁を口のように開閉させながら、廊下を転がっていく。
「被検体...それが?」
「肉食花です!」
エリカは言うなり、再び力任せに容赦なく蹴り上げた。
「ベータ国が死領域に打ち捨てた、その生き残りです。」
「無駄に生命力強いだけでしょ、こんなの」
また蹴る。
「М体の方が絶対、死領域に関係してますって!」
エリカは文句を言いながら、花に脚蹴りを食らわせた。
カリンは、エリカと花、両方が可哀想に思えてきた。
「先輩もしかして、手伝いに来てくれました?」
エリカが振り向いた。
何の皮肉もない、純粋な笑顔だった。
「え...あ、うん...!」
カリンは慌てて頷いた。
手伝うしかない。
2人で一緒に蹴り上げたり、押したりしながら運んでいく。
花の外見をしているが、かなり重い。
「痛っ...」
脚で蹴れば硬くて、つま先が痛い。
押せば腰がしんどい。
「えへへ...重いね...」
カリンが苦笑すると、エリカに「すみません」と淡々と返されてしまった。
こうして、肉食花は、どこかの部屋に連れて行かれた。
シルバー髪の少女が出てきた無表情で受け取ったあと、カリンとエリカは開放される。
「そもそも、ここは何を研究しているの?М体?」
カリンは尋ねた。配布資料には、詳細が書かれていなかった。
「いえ、死領域の正体です」
エリカが言う。
「М体や肉食花は、死領域に関係してるの?」
カリンが首を傾げる。
「関係しているらしいです。
彼らは、死領域にいても平気ですから」
「普通の生き物はだめです」
「どうしてかなぁ」
カリンが目をぱちくりさせる。
「さぁ。」
エリカは首をすくめてから言った。
「でも、肉食花は人間の一部と同じようなもんですよ。
単に適正があるから生き延びた」
「なるほどぉ。」
カリンが感嘆すると、エリカがすっと声を低くした。
「でもーーー」
エリカが足を止め、カリンは振り向いた。
「М体ー虚獣だけは特別に変だと思うんです。」
空気が一瞬変わる。その声色に、何か得体の知れぬ恐怖を感じた。
「どうして?」
カリンが聞くと、
「活動域が死領域近傍というだけでなく、彼らは死領域発生とともに発見されたからです」
◇◇◇
翌日、カリンは社宅寮の鏡の前で制服に着替えていた。
淡い水色のジャンパースーツに腕を通す。
黒い革靴を履き、その上から白衣を羽織る。
最後に、社員証を首から下げた。
「わぁ...かっこいい」
鏡の前に立つ自分に、カリンはしばしば自惚れた。
本日は、中央館に集合だ。




