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聖夜に“お一人様”でフライドチキンをキメようとしたら、何故か王太子に退路を断たれ、私のメンタルとコルセットが限界を迎えた件について

作者: 河合ゆうじ

 まず最初に断っておくけれど、私は決してロマンチックな状況に期待などしていないし、ましてや王子様との運命的な出会いなんてものは前世で置いてきた少女漫画の中に封印済みだ。私が今、この煌びやかで酸素の薄い王宮の舞踏会場で求めているのは、愛でも名誉でもなく、ただ一つ、「換気」と「帰宅」だけである。


 12月24日。


 この世界では「聖夜祭」と呼ばれ、恋人たちが愛を囁き合い、街中が浮かれた装飾で埋め尽くされる日だが、転生者である私――伯爵令嬢ヴィヴィアン・アークライトにとって、今日は一年に一度の「チキンを貪り食って泥のように眠る日」という極めて崇高な儀式の日なのだ。だというのに、どうして私は今、シャンデリアが落下したら一巻の終わりだなとか不穏なことを考えつつ、この世で最も呼吸を妨げる拷問器具コルセットに締め上げられながら、壁の花として直立不動でいるのか、誰か論理的に説明してほしい。


 あ、無理ですね、説明なんていらない、私が招待状を断れなかったからだ、私のバカ。


「……ヴィヴィアン嬢、顔色が優れないようだが」


 隣で声をかけてきたのは、私の父親であるアークライト伯爵だが、彼が心配しているのは私の体調ではなく、私が今にも白目を剥いて倒れ、伯爵家の品位をカーペットの上にぶちまけることだろうということは、彼のひきつった笑顔を見れば一目瞭然だった。


「お父様、ご心配には及びません。ただ、私の内臓が元の位置から5センチほど上に移動している感覚と、今すぐここから窓を突き破って逃げ出したいという衝動がせめぎ合っているだけです」

「……頼むから黙っていてくれ」


 父は遠い目をしてシャンパングラスを傾けた。分かるよ、娘がこんな情緒不安定なクリーチャーに育ってしまった悲しみは計り知れないだろうけれど、私だって好きでこうなったわけじゃない、全ては前世の残業と、今のこのコルセットのせいだ。


 会場を見渡せば、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちが、まるで獲物を狙う肉食獣のような鋭い眼光を隠しつつ、扇子の裏で会話を交わしているのが見える。彼女たちの目的は一つ、この国の第一王子であり、顔面国宝と名高いジェラルド・フォン・ハイライン殿下の視線を射止めることだ。


 ジェラルド殿下。


 金髪碧眼、長身痩躯、文武両道、そして性格は冷徹無比――という、乙女ゲームなら攻略難易度MAXの「氷の貴公子」設定を背負った男だが、私に言わせれば彼は単なる「歩く高圧的氷柱」であり、近くにいるだけで室温が下がるので暖房費の節約にはなるかもしれないが、メンタルヘルスには甚だ有害な存在である。


 そんな彼が今、会場の中央で、まるで汚物を見るような目で群がる令嬢たちをあしらっているのが見えた。


 可哀想に。いや、令嬢たちが可哀想なのではなく、あの氷柱の相手をしなければならないこの空間の空気が可哀想だ。私は心の中で合掌し、壁際のカニ歩きで徐々に出口へとフェードアウトする作戦を開始した。


 私の計画は完璧だった。


 まず、父が知り合いの侯爵と話し始めた隙に、私は「化粧直し」という全人類共通の無敵の免罪符を掲げてその場を離脱する。そして、そのまま化粧室へ向かうふりをして、使用人用の裏通路へと滑り込み、あらかじめ待機させておいた馬車(御者にはチップを弾んで口止め済み)に飛び乗る。屋敷に帰れば、厨房からくすねておいた揚げたての鶏肉と、隠し持っているワインが私を待っているのだ。


 完璧だ。これこそが私の聖夜。誰にも邪魔はさせない。


 私は気配を消すことに関してはプロ級の自信がある。なにせ、前世では社畜として「上司の視界に入らないスキル」を極限まで高めていたし、今世では「舞踏会で誰にも話しかけられないスキル」を磨き上げてきたからだ。


 ススッ、と私は壁と同化しながら移動する。

 私のドレスは地味なモスグリーンだ。観葉植物と間違われる可能性が高いが、むしろ好都合である。私は植物。私は光合成をするただの有機物。誰も私を見ないで。


 あと5メートルでテラスへの扉だ。あそこを出れば、庭園を抜けて裏門へ行ける。

 私の脳裏には、ジューシーな肉汁が溢れるチキンの映像が浮かんでいた。ああ、待っていてくれ、私の愛しいカロリーの塊よ。今夜こそ、君と一つになるんだ。


 その時だった。


「――そこで何をしている」


 背後から、絶対零度の声が私の鼓膜を震わせた。

 心臓が止まるかと思った。いや、実際、一瞬止まって、再起動するときに「ふぐっ」という変な音を喉から発してしまった気がする。


 恐る恐る振り返ると、そこには、この世の終わりのような不機嫌さを顔面に貼り付けた、歩く氷柱――ジェラルド殿下が立っていた。


 終わった。

 私の聖夜が、音を立てて崩れ去った。


「……あ、あの、こんばんは、殿下。えっと、私は、その、観葉植物のふりをしていたわけではなく、ただ、壁のクロスの柄が大変興味深いなと、美術的な観点から観察を……」


 口から出任せにも程がある。我ながら酷い言い訳だ。壁のクロスなんて、ただの無地だ。


 ジェラルド殿下は、私を見下ろしたまま、片方の眉を器用に跳ね上げた。その目は、「こいつは何を言っているんだ、頭が湧いているのか」と如実に語っている。正解です、殿下。私の頭の中は今、チキンと恐怖で沸騰しています。


「アークライト伯爵令嬢だな」

「は、はい。記憶力の良さに戦慄しております」

「君は先ほどから、奇妙な動きで壁沿いを移動していたが、新手のダンスか何かか?」

「……ええ、まあ、そのようなものです。『社交界の荒波から逃避する小動物の舞』と名付けております」


 もうどうにでもなれ、と思った。どうせ不敬罪で処刑されるなら、最後に一矢報いてやりたい。いや、報いてどうする。


 殿下は短く鼻を鳴らした。笑ったのか、呆れたのか、あるいは鼻炎なのかは分からない。ただ、彼の周囲の温度がさらに2度ほど下がった気がする。


「……ついてこい」

「はい? あの、私はこれから、非常に重要な任務――すなわち、呼吸を整えるという生命維持活動のために外の空気を……」

「いいから来い。これは命令だ」


 問答無用だった。

 彼は私の二の腕を、まるで連行される宇宙人を捕獲するFBI捜査官のような手際で掴むと、テラスとは逆方向――会場の奥にある、さらに人気のないバルコニーへと私を引きずっていった。


 ちょっと待って。

 展開がおかしい。

 ここは本来、ヒロインである男爵令嬢が殿下と鉢合わせして、「キャッ、ごめんなさい!」「ふん、おもしろい女だ」となるイベントが発生する場所ではないのか? なぜモブ以下の私が、こんな強制連行イベントに巻き込まれているのか。


 バルコニーに出ると、冬の夜風が頬を刺した。寒い。ドレスの布面積が少なすぎる。設計者を呪いたい。

 殿下は私の腕を離すと、手すりに寄りかかり、大きくため息をついた。その横顔は、彫刻のように美しいが、疲労の色が濃い。


「……うるさい」

「えっ、私、まだ何も喋っていませんが」

「中がだ。香水の匂いと、媚びた笑い声と、値踏みするような視線。あの中にいると、酸素よりも欲望の方が濃度が高い気がして、吐き気がする」


 殿下、それは言い得て妙です。私もさっき全く同じことを考えていました。

 しかし、それを私に言ってどうするつもりなのか。


「あの、心中お察ししますが、それを私ごときに吐露されましても、私にできることは『ですよねー』と相槌を打つことくらいで……」

「君なら、黙って聞いているだろうと思ったんだ」

「はあ」

「君は、俺に興味がないからな」


 ギクリとした。

 バレていたのか。いや、あんな必死に壁と同化しようとしていた女が、自分に色目を使っているとは誰も思わないだろうけれど。


「興味がないわけではありません! ただ、殿下はあまりにも高貴すぎて、私のような平民上がりの思考回路を持つ人間には、直視すると目が潰れると言いますか……」

「嘘をつけ。さっき君は俺を見た瞬間、『うわ、出た』という顔をしたぞ」


 観察眼が鋭すぎる。この国の王族は、国民の表情筋を分析する訓練でも受けているのか。


「……訂正します。『うわ、出た』ではなく、『ああ、麗しき殿下がお出ましになった、これでまた私の帰宅時間が遅れる』という歓喜と絶望の入り混じった表情です」

「正直でよろしい」


 殿下はふっと口元を緩めた。

 え、笑った? あの氷柱が? 天変地異の前触れか?


「ヴィヴィアン。俺は今夜、誰とも踊るつもりはないし、誰かを口説くつもりもない。ただ、この馬鹿騒ぎが終わるまで、ここで時間を潰したいだけだ」

「それは奇遇ですね。私も今夜は、誰とも踊らず、ただ家で鶏の死骸を貪る予定でした」

「……鶏?」

「あ、いえ、なんでもありません。独り言です」


 危ない。欲望が漏れ出た。


「だが、一人でここにいると、すぐにハエどもが寄ってくる。だから、魔除けが必要なんだ」

「魔除け……?」


 嫌な予感がする。背筋を冷たいものが走る。

 殿下は、その青い瞳で私を真っ直ぐに見据えた。そこには、獲物を逃がさない狩人の光が宿っていた。


「君だ」

「はい?」

「君が俺のパートナーとして、今夜一晩、ここで俺の盾になれ」


 私は思考が停止した。

 盾? パートナー? この私が?

 いや、それよりも。


「お断りします!!!!」


 私は叫んだ。不敬? 知るか! 私のチキンがかかっているんだぞ!


「なっ……断るだと?」

「当たり前です! 殿下、今日は聖夜ですよ!? 残業手当も出ないのに、なんで私が殿下のハエ叩きをしなければならないんですか! 私は帰りたいんです! 帰って、楽な部屋着に着替えて、行儀悪く足を組んで、手づかみで肉を食べたいんです!!」


 一気にまくし立てた。酸欠で視界がチカチカする。

 殿下は呆気にとられたように私を見ていたが、やがて、肩を震わせて笑い出した。


「くっ、はははは! 肉……肉だと? 色恋よりも食い気か。本当に君は、予想を裏切らないな」

「笑い事じゃありません! これは私の尊厳と胃袋の問題です!」

「いいだろう。ならば取引だ」


 殿下は笑いを収めると、急に真剣な顔つきになった。その変化の落差に、私の心臓がまた「ふぐっ」となる。


「今夜、俺の盾として役目を果たせば……王家御用達の最高級ローストチキンを、ホールで3羽、君の屋敷に届けさせよう。もちろん、最高級のワインもつけてな」


 私は息を呑んだ。

 王家御用達。

 伝説のシェフが焼き上げるという、あの幻のチキン。皮はパリパリ、中はジューシー、一口食べれば天国が見えるというあれか。しかも3羽。3羽だぞ。


 私の脳内で、天使と悪魔が会議を始めた。

 天使:「ヴィヴィアン、プライドを持つのよ! 利用されるなんて真っ平でしょう?」

 悪魔:「でも3羽だぜ? 明日も明後日もチキンパーティーだぜ? ワインもあるし」

 天使:「……そうね、3羽は魅力的ね」


 会議は3秒で終了した。全会一致で可決。


「……ソースは? ソースは何味がつきますか?」

「ハニーマスタードと、特製グレービーソースだ」

「交渉成立です」


 私はガッチリと殿下の手を握った。

 こうして、私の静寂なる聖夜は終わりを告げ、王太子という名の爆弾を抱えたまま、戦場バルコニーでの籠城戦が幕を開けたのである。

 ああ、チキン。君のために私は魂を売ったよ。どうか美味しく焼けていてくれ。


 * * *


 その固い握手は、決して愛の誓いでもなければ信頼の証でもなく、ただ「最高級ローストチキン三羽(ソース二種付き)」という極めて脂っこい報酬に対する売買契約の成立を意味していたのだが、どうやら私の脳は「交渉成立」の興奮でドーパミンを過剰分泌し、現状認識能力を著しく低下させていたらしい。


 殿下の手が離れ、夜風が私の素肌を再び容赦なく叩いたその瞬間、私は重大な計算ミスに気づいてしまったのだ。


 ここ、バルコニーである。

 逃げ場、ない。

 そして私の背後にあるガラス扉の向こうでは、先ほどまで殿下を探して血眼になっていたご令嬢たちが、獲物の気配を察知したピラニアのように一斉にこちらを向き、その視線だけで私をミンチにしようと画策しているのがガラス越しに透けて見えるというか、物理的にガラスが振動している気がする。


「……あの、殿下。契約のクーリングオフについてお伺いしたいのですが」

「却下だ。商品は既に発送準備に入っている」

「仕事が早すぎる! 王家の流通網はどうなっているんですか!」


 私が叫ぶのとほぼ同時に、バルコニーの扉が勢いよく開け放たれた。

 流れ込んできたのは冷気ではなく、むせ返るような薔薇と百合とジャスミンを混ぜて煮詰めたような濃厚な香水の匂いと、そして明らかに「あの地味な女は何者だ」という殺意の波動であり、私は反射的に殿下の背後に隠れようとしたのだが、この男、あろうことか私の腰を強引に引き寄せ、私を前面――つまり、敵の砲火が飛び交う最前線へと押し出したのである。


 盾ってそういう意味かよ!

 物理的な盾かよ!

 精神的な支えとかじゃなくて、文字通り肉壁として機能しろってことかよ!


「あら、ジェラルド殿下……このような寒い場所にいらしたなんて。皆様、心配しておりましたのよ?」


 先陣を切って現れたのは、真っ赤なドレスを着た公爵令嬢、ベアトリス様だった。

 彼女の巻き髪は完璧な螺旋を描き、その眼光は私の全身をX線のようにスキャンし、即座に「脅威レベル:ゼロ(むしろマイナス)」と判定したようだが、それでも殿下の腰に回された私の腕(殿下に強制的に回させられた)を見る目は、汚物を見る目そのものであり、私は泣きながらチキンの皮のパリパリ具合を想像して精神を保つしかなかった。


「……ベアトリス嬢か。見ての通り、少し涼んでいたのだ」

「涼む、にしては随分とお近くにいらっしゃいますのね、その……アークライト伯爵令嬢と」


 私の名前、知ってたんだ。

 壁の花としての私の知名度が意外にあることに驚くべきか、それとも彼女の情報収集能力を恐れるべきか迷うところだが、今はそんなことより、彼女の視線が私の手首を焼き切ろうとしているのをどうにかしなければならない。


 殿下は無言だ。

 ちらりと横目で私を見下ろすその目は、「さあ、働け。チキン三羽分働け」と語っている。

 この男、本当に性格が悪い。顔が良いこと以外、何一つ褒めるべき点がない。


 私は腹を括った。

 どうせ失うものは評判と社会的地位くらいだ。命と胃袋さえ無事なら、人間なんとかなる。


「……ええ、ベアトリス様。実は殿下が、どうしても私に、このバルコニーの……えっと、そう、手すりの素晴らしさについて語りたいと仰いまして」

「手すり?」


 ベアトリス様が綺麗な眉をひそめた。

 無理がある。我ながら苦し紛れにも程がある。しかし、口から出た言葉はもう戻らない。私は暴走機関車のように喋り続けるしかなかった。


「はい、手すりです。この曲線美! この石材の冷たさ! そして何より、この苔の生え具合! 殿下は、この『歴史を感じさせる風化』こそが国の礎であると、熱く、それはもう熱く語っておられまして、私はその高尚なお考えに感銘を受けすぎて、こうして支えていただかないと立っていられないほどなのです!」


 シーン、とした。

 冬の夜風よりも冷たい沈黙が場を支配した。

 ベアトリス様は口を半開きにし、後ろに控えていた数人の令嬢たちも「何言ってんだこいつ」という顔をしている。


 当然だ。

 誰だってそう思う。

 だが、ここで引くわけにはいかない。私は殿下の腕にしがみつきながら、さらに虚ろな目で宙を見上げた。


「ああ、見てください、殿下。あそこのひび割れ……あそこにも、王国の歴史の重みが……」

「……ふっ」


 殿下が吹き出した。

 肩が震えている。笑ってんじゃねえよ共犯者。お前が始めた物語だろうが。

 しかし、殿下はその笑いを瞬時に「愛おしげな微笑み」という極めてタチの悪い表情へと変換し、私の髪を指で梳くふりをしながら(実際には耳元で「苔の話は広げすぎだ、バカか」と囁きながら)、ベアトリス様に向き直った。


「そういうことだ。ヴィヴィアンは、私のマニアックな建築美学を理解してくれる、唯一無二の理解者でね。他愛ない社交辞令よりも、彼女と石材の侵食について議論している方が、私にとっては有意義なんだ」


 乗ってきた。

 しかも、全力で私を「変人」に仕立て上げつつ、自分も「変人」であることをアピールして、ベアトリス様をドン引きさせる作戦だ。

 これ、私の評判は地の底に落ちるけど、殿下の評判も道連れじゃないですか? いいんですか? 次期国王が「手すりマニア」で。


 ベアトリス様は、完璧な笑顔を引きつらせた。


「そ、そうですの……殿下がそのような……独特なご趣味をお持ちだとは、存じ上げませんでしたわ。で、ですが、皆様お待ちですのよ? ダンスのお相手もまだ……」

「ああ、ダンスか」


 殿下は、まるで今思い出したかのように言い、そして私を強く抱き寄せた。

 コルセットが悲鳴を上げ、私の内臓が再び位置を変える。苦しい。物理的に苦しい。ロマンスの欠片もない。これはプロレス技だ。


「すまないが、今夜の私の足は、彼女のドレスの裾を踏まないようにすることだけで精一杯なんだ。見てくれ、このモスグリーンのドレスを。まるで苔だ。最高だろう?」

「……は?」


 ベアトリス様の理性が限界を迎えた音がした。

 私も限界だ。誰が苔だ。植物だとは言ったが、苔とは言っていない。百歩譲ってマリモと言え。


「彼女はこのドレスを選ぶために、三日三晩、森を彷徨ったそうだ。その情熱に、私は心を打たれた」


 嘘をつけ。

 屋敷のクローゼットの奥から「一番汚れが目立たない色」を選んだだけだ。


「ですから、ベアトリス嬢。残念だが、今夜の私は、この愛しい苔……いや、ヴィヴィアンと共に、壁のシミの数を数えるのに忙しい。どうか、我々の崇高な時間を邪魔しないでいただきたい」


 殿下はそう言い放つと、あろうことか私の手の甲に口づけを落とした。

 悲鳴が上がった。

 私の心の中での悲鳴と、令嬢たちの黄色い悲鳴がシンクロした。


 唇が触れた感触は驚くほど熱かったけれど、それ以上に私の頭の中は「これでチキン確定、チキン確定、チキン確定」という呪文で埋め尽くされていたため、ときめきを感じる余裕など1ミリもなかった。むしろ、「今のキスで私の手の甲に細菌が付着していないか」とか「これでお父様に何と説明すればいいのか」という現実的な問題が押し寄せてきて、私の表情は能面のように無になっていたことだろう。


 ベアトリス様は、わなわなと震えていた。

 プライドの高い彼女のことだ。「私よりも手すりと苔を選んだ」という事実は、屈辱以外の何物でもないだろう。


「……分かりましたわ。お邪魔をして申し訳ございませんでした」


 彼女は完璧なカーテシーを見せ、踵を返した。

 去り際、私に向けられた視線は、「後で覚えていなさいよ、このコケ女」という明確な宣戦布告を含んでいたけれど、私は見なかったことにした。

 扉が閉まる。

 令嬢たちの姿が見えなくなる。


 ふう、と私は息を吐き出し、その場にへたり込もうとした。

 が、殿下の腕がそれを許さなかった。


「まだだ」

「へ?」

「敵はベアトリス嬢だけではない。むしろ、あれは先遣隊に過ぎない」


 殿下の視線は、再び開こうとしている扉に向けられていた。

 嘘でしょう?

 まだ来るの?

 これは何? タワーディフェンスゲーム? 次々と押し寄せる敵を撃退するやつ? 私のHPはもう赤ゲージなんですけど!


「それに、今の芝居で分かっただろう? 私が『変人』を演じれば演じるほど、彼女たちは『一時的な気の迷い』だと思って、逆に燃え上がるんだ。『私が殿下を正気の世界に引き戻してさしあげなくては!』とな」

「……め、面倒くさい!! 貴族の思考回路、面倒くさすぎます!!」

「全くだ。だからこそ、次はもっと決定的な一手が必要になる」


 決定的な一手。

 嫌な響きだ。

 殿下の顔に、嗜虐的な笑みが浮かんでいる。


「ヴィヴィアン。覚悟を決めろ」

「何の覚悟ですか! 私はもう十分、社会的抹殺を受ける覚悟はできてますよ!」

「いや、もっと物理的な覚悟だ」


 殿下は私の耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。


「次は、君が私に『狂ったように求愛する』んだ」

「はあ!? 無理です! 私の演技力は『小学生の学芸会での木の役』止まりですよ!?」

「大丈夫だ。君ならできる。チキンのためなら、君はゴリラに求愛することだってできるはずだ」

「人間としての尊厳を過小評価しないでください!」

「ソースを一種類追加しよう。トリュフ風味のホワイトソースだ」

「……やります」


 私は即答した。

 トリュフ。

 その響きは、私の中の最後の理性を粉砕した。

 私はやる。やってやるぞ。求愛でもなんでも、この際、殿下の靴を舐めろと言われても、それがチョコレート味なら舐める勢いだ。


 扉が再び開く。

 今度は、先ほどよりも人数の多い、集団での襲来だ。

 私は深呼吸をした。肺がコルセットに圧迫されて酸素が入ってこないが、気合で吸い込む。


 見ていろ、ジェラルド殿下。

 貴方は私を「盾」として雇ったつもりかもしれないが、私はただの盾じゃない。

 食欲という名の悪魔に魂を売った、暴走する「矛」だということを思い知らせてやる。


 私はカッと目を見開き、入ってきた令嬢たちに向かって、今日一番の大声で叫んだ。


「ああ、ジェラルド様!! 私の愛しい氷柱!! 貴方のその冷酷な眼差しで、私を冷凍保存してくださいませ!!!」


 殿下の身体が、ビクッと硬直したのが分かった。

 ざまあみろ。

 これが、チキン三羽(プラスソース三種)の力だ。


* * *


 私の絶叫が冬の夜空に吸い込まれ、ついでにバルコニー内の空気も全て吸い込まれたかのような真空状態が訪れたあの瞬間、私は確かに「冷凍保存」と口走ったわけだが、それは決して私がマグロとして築地的な市場に出荷されたいという願望を吐露したわけではなく、単に殿下の「冷酷」というキャラ設定と「永遠の愛」というロマンス要素をミキサーにかけて粉砕し、さらにトリュフ風味のホワイトソースをかけた結果生まれた、文字通りの意味での「言葉のサラダ」だったのだが、どうやら私のプレゼンテーションはあまりにも前衛的すぎたらしい。


 扉の向こうから現れた新たな令嬢集団――先頭に立つのは宰相の娘であり、この国の頭脳と称される才女、エルビラ様だ――は、まるで未知の深海生物に遭遇した海洋学者のような顔で、私と、私がしがみついている殿下を凝視していた。


 沈黙が痛い。

 風が痛い。

 そして何より、私の腰に回された殿下の手が、私の背肉を「おい、冷凍保存とはどういうことだ、説明責任を果たせ」と言わんばかりの強さでグリップしているのが痛い。


「……冷凍、保存……ですか?」


 エルビラ様が、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、極めて冷静に、しかし隠しきれない困惑と共に問いかけてきた。彼女の後ろにいる令嬢たちは、既にメモ帳を取り出している。待って、何をメモする気なの? 王太子の性癖? それとも最新の美容法?


 私はここで「いいえ、ただの冗談です」と撤回することもできたが、私の脳裏には「契約不履行=チキン没収」という数式が赤文字で点滅しており、さらに言えば「トリュフソース」という魅惑の響きが私の理性を完全なアクセル全開状態に固定してしまっていたため、ブレーキを踏むという選択肢はとうの昔に窓から投げ捨てられていた。


「ええ、そうです! 冷凍です! 殿下のこの、絶対零度の視線! これこそが私が必要としているものなのです! 私のこの溢れんばかりの愛の熱量を、殿下の冷気で相殺し、熱力学第二法則に抗ってエントロピーの増大を阻止しなければ、私は愛の炎で燃え尽きて灰になってしまうからです!!」


 言った。言ってしまった。

 熱力学とか言っちゃった。

 この世界にその概念があるのか知らないけれど、雰囲気で押し切るしかない。私は酸素不足で点滅する視界の中で、殿下を見上げた。さあ、合わせてくださいよ、共犯者。


 殿下は一瞬、本当に私を冷凍して粉々にしてやろうかという目をしたが、すぐに「ああ、こいつはもう手遅れだ」と悟ったのか、あるいは私のデタラメ理論に妙な説得力を感じたのか、深くため息をつきつつ、私の肩を抱き寄せた。


「……そういうことだ、エルビラ嬢。彼女の愛は、あまりにも高温で、危険なのだ。私が常に冷却しておかなければ、このバルコニーごと溶解してしまうだろう」


 ナイスフォロー。

 いや、ナイスなのか? 私、ただの危険物扱いになっていませんか? 「愛」という名の核燃料を搭載した歩く原子炉みたいになっていませんか?


 エルビラ様は、真剣な表情で頷いた。


「なるほど……殿下の冷徹さが、ヴィヴィアン様の情熱を制御する冷却材クーラントとしての役割を果たしていると。非常に論理的ですわ」

「論理的……?」


 後ろの令嬢たちが「冷却材……」と呟きながら必死にメモを取っている。やめて、書かないで。そのノートが後世に残ったら歴史の歪曲が起きる。


「しかし、ヴィヴィアン様」


 エルビラ様が一歩踏み出してきた。その眼鏡の奥の瞳が、鋭く光る。


「理論は理解しましたが、物理的な懸念がございます。殿下の視線だけで生体活動を停止させるほどの冷却効果を得るには、殿下の魔力が極めて高密度で収束される必要があります。もし制御を誤れば、ヴィヴィアン様の細胞膜が破壊され、解凍時にドリップが出てしまう恐れが……」

「ドリップ!!」


 私が叫んだ。

 私の口から出た言葉の中で、これほど食欲と直結する単語があっただろうか。

 解凍時のドリップ。それは肉の旨味が逃げてしまう悲劇の現象。私が今夜食べる予定のチキンにおいては絶対に許されない失態だ。


「そ、そうですわね! ドリップは困ります! 私の旨味が……いえ、私の美しさが損なわれてしまいますものね!」

「ええ。ですから、私が提案したいのは、急速冷凍ではなく、殿下の冷ややかな言葉による『緩慢冷凍』です。徐々に温度を下げることで、細胞へのダメージを最小限に抑えるのです」


 何の話をしているんだ私たちは。

 ここは舞踏会のバルコニーだぞ。食品加工工場の会議室じゃないんだぞ。

 しかし、エルビラ様は大真面目だった。彼女にとって、王太子の恋愛事情よりも、物理的な現象の解明の方が重要らしい。ある意味、私よりも変人だ。


 殿下は肩を震わせていた。笑っているのか、あまりの馬鹿馬鹿しさに泣いているのかは判別できないが、彼は咳払いを一つして、威厳を取り戻そうと試みた。


「……エルビラ嬢の懸念はもっともだが、心配には及ばない。私は彼女を冷凍する際、最高の技術を用いるつもりだ。何しろ、彼女は私の……」


 殿下が言葉を詰まらせた。

 何と言うつもりだ。

 「愛する人」? 「婚約者」?

 いいえ、彼が私を見下ろして放った言葉は、私の予想の斜め上を光速で突き抜けていった。


「……私の、冬の保存食だからな」


 保存食。

 終わった。

 私は人間ですらなくなった。

 令嬢たちが息を呑む音が聞こえた。「保存食……」「つまり、殿下は彼女を……食べるおつもりで……?」「なんて背徳的な……」という、明らかに方向性の違う誤解が生まれ始めているのが聞こえる。


 エルビラ様は、ハッと目を見開き、そして深く頭を下げた。


「……参りました。殿下の独占欲が、そこまでの領域に達しているとは。彼女を誰にも渡さないために、自らの糧として保存する……究極の愛の形ですわ」


 違う。

 絶対に違う。

 エルビラ様の解釈がホラー映画のサイコパスのそれになっている。

 しかし、彼女は納得してしまった。納得してしまった以上、彼女たちにこれ以上ここに留まる理由はない。


「お邪魔いたしました。お二人の……その、温度管理の行き届いた愛の営みを、これ以上妨げるわけには参りません」


 エルビラ様は完璧な回れ右をして、部下たちを引き連れて撤収していった。

 去り際、一人の令嬢が私に向かって「お鮮度を保ってくださいませ」と声をかけてきたが、私は笑顔で手を振るしかなかった。私は刺身じゃない。


 扉が閉まる。

 再び訪れた静寂。

 今度こそ、私は膝から崩れ落ちた。


「……殿下、保存食って何ですか。私は乾パンか何かですか」

「とっさに出たんだ。文句があるなら、先に冷凍保存などと言い出した自分の口を縫い合わせるんだな」


 殿下も手すりに寄りかかり、ぐったりとしていた。さすがの氷柱も、連続するカオスな対応に融点ギリギリまで追い詰められたらしい。


「でも、これで撃退できましたね。もう誰も来ないでしょう。流石に『王太子の保存食』に手を出そうなんて命知らずはいないはずです」

「ああ、そうだな。だが、代償として、私の社会的評価が『カニバリズムの気がある変質者』に傾いた気がするのだが」

「大丈夫です。私の評価は『自分をマグロだと思い込んでいる精神異常者』で確定しましたから。痛み分けです」

「……痛み分けの比重がおかしいぞ」


 殿下はため息をついたが、その顔には微かに達成感が浮かんでいた。

 これで終わりだ。

 私の任務は完了した。

 あとは、屋敷に帰って、約束のチキンを受け取るだけだ。

 私はよろよろと立ち上がろうとした。しかし、足に力が入らない。空腹と、極度の緊張と、酸素不足。私の身体は限界を迎えていた。


「……ヴィヴィアン?」

「あ、すみません、ちょっと立ちくらみが……目の前に星が飛んでいます。いや、あれは星じゃなくて、フライドチキンの形をした妖精……?」

「おい、しっかりしろ! ここで倒れられたら、私が君を『鮮度が落ちたから廃棄した』と思われるだろうが!」


 殿下が慌てて私を支えようとする。

 その時だった。


 ゴーン、ゴーン、と。

 王宮の時計塔が、時刻を告げる鐘を鳴らした。

 午後八時。

 それは、舞踏会のメインイベント――国王陛下による乾杯の挨拶と、それに続く王太子のファーストダンスの開始を告げる合図だった。


 私の脳内に、嫌な予感というレベルを超えた、確信的な絶望が走った。

 殿下も凍りついている。

 私たちは、顔を見合わせた。


「……殿下。今夜は誰とも踊らないと、仰いましたよね?」

「言った。言ったが……この鐘は、強制イベントの開始合図だ」

「で、ですよね。王太子である殿下が、ファーストダンスをサボるなんて、許されませんよね」

「……普通なら、パートナーが決まっていない場合は、最前列にいる身分の高い令嬢を適当に選ぶのだが」


 殿下の視線が、私のモスグリーンのドレスに注がれた。

 そして、私の手首には、先ほどの「契約成立」の際に彼がつけさせた、王家の紋章が入ったブレスレット(一時的なパートナーの証として渡されたものだが、私はこれをチキンの引換券だと思っている)が輝いている。


「……今、会場に戻れば、衆人環視の中で『保存食』の君をエスコートすることになる」

「嫌です! 公開処刑じゃないですか! 『あれが王太子の非常食よ』って指差されながら踊るなんて、何の罰ゲームですか!」

「だが、戻らなければ、国王――父上が自らここに乗り込んでくるぞ。あの人は、こういうイベントをサボると、軍隊を動員してでも探し出すタイプだ」


 詰んだ。

 完全に詰んだ。

 逃げれば軍隊。戻れば公開処刑。

 私のチキンへの道が、万里の長城のように遠ざかっていく。


 その時、バルコニーの扉が、三度みたび開かれた。

 現れたのは、令嬢ではない。

 燕尾服を着た、初老の男性。王家の執事長、セバスチャンだった。彼は私たちが作り上げたカオスな空気などどこ吹く風で、恭しく一礼した。


「ジェラルド様。国王陛下がお待ちです。……おや、そちらはアークライト伯爵令嬢ではありませんか。顔色が優れないようですが、もしや空腹で?」


 なぜバレた。

 この執事、エスパーか。


「セバスチャン、いいところに来た。彼女を裏口から逃がせ。私は一人で戦場に戻る」

「おや、それはなりませぬ。陛下が『ジェラルドがバルコニーで苔のような女性と愛を育んでいると聞いた。ぜひそのユニークな彼女を紹介せよ』と、大変乗り気でして」


 情報が漏れるのが早すぎる!!

 誰だ、さっきのベアトリス様か!? それともエルビラ様か!?

 「苔のような女性」というワードチョイスに悪意しか感じない!


「……ヴィヴィアン」

「はい……」

「追加報酬だ。デザートをつける。王家特製、季節のフルーツタルト。ホールで一台」


 タルト。

 カスタードクリームと、宝石のように輝くフルーツ。

 私の胃袋が、悲鳴と共に「契約更新」のハンコを捺した。


「……踊りましょう、殿下。私の足がもつれて殿下のつま先を粉砕したとしても、それは全て空腹とコルセットのせいということで、免責事項に加えていただけますか?」

「許可する。私の足の指の二、三本で君の名誉が守れるなら安いものだ」


 私たちは、死地へと向かう戦友のように頷き合った。

 さあ、行こう。

 保存食と捕食者の、狂乱のダンスパーティーへ。


* * *


 会場への扉が開かれた瞬間、私は数千の眼球が一斉にこちらへ向きを変える「ギュルッ」という湿った音を聞いた気がした。


 気のせいではない。

 この会場にいる数百人の貴族たちの視線が、まるで真夏の日差しを一点に集める虫眼鏡のように、私とジェラルド殿下に焼き付いている。熱い。物理的に熱い。先ほどまで「冷凍保存」だの「冷却材」だのと騒いでいたのが嘘のように、私の背中には冷や汗という名の滝が流れ落ちている。


 殿下は私の手を引き、優雅に、しかし逃亡を許さない万力のような強さでエスコートしながら、カーペットの上を進んでいく。

 その姿は、民衆に手を振る王太子というよりは、これから屠殺場へと連行される子牛(私)の手綱を握る牧場主だ。ドナドナの旋律が脳内に流れる。


 囁き声が波のように押し寄せてくる。


「あれが噂の……」

「アークライト伯爵令嬢……」

「殿下の非常食だとか……」

「いや、苔の精霊だと聞いたぞ……」

「なんでも、殿下の冷気がないと溶けてしまうらしい……」


 情報が錯綜しすぎている。

 非常食と苔と精霊が混ざって、もはや私は「食べられる妖怪」みたいな扱いになっていないか。


 最前列の群衆が割れ、その奥に鎮座する玉座の前まで来たとき、そこに座っていた国王陛下が、ワイングラス片手に「待っていたぞ!」とばかりに立ち上がった。

 立派な髭を蓄えた陛下は、ジェラルド殿下を少し老けさせて横に広げ、陽気さを3倍濃縮したような人物だ。彼もまた、目が笑っていない王族特有の圧を放っている。


「ジェラルドよ! そしてアークライト伯爵令嬢! 話は聞いているぞ!」


 陛下の大声がホールに響き渡った。


「そなたが、我が息子の心を射止めた『苔むした保存食』か!」


 語彙のキメラ生成をやめてください。

 私はカーテシーのために膝を折ろうとしたが、コルセットが肋骨に「これ以上曲げたら折るぞ」と警告してきたため、中腰でプルプルと震える奇妙なスクワットのような体勢で静止することしかできなかった。


「は、はい……陛下。わ、私は……その……」

「よい! 何も言うな! ジェラルドがそこまで執着するとは、余程味が良いのだろう!」


 だから食料認定をやめてください。

 しかし、陛下は豪快に笑い飛ばし、楽団に向かって手を振った。


「さあ、音楽だ! 若人たちの愛のワルツを見せてもらおうではないか! 曲目は『冬の嵐』だ!」


 選曲が不穏すぎる。

 楽団の指揮者がタクトを振り下ろした瞬間、優雅なワルツとは程遠い、まるで軍隊の進撃のような激しいイントロが始まった。


「……殿下、これワルツですか? これに合わせて踊ったら私の内臓がシェイクされてバターになりませんか?」

「安心しろ。バターになったらパンに塗って食べてやる」

「絶対に嫌です!!」


 殿下が私の腰を引き寄せ、ステップを踏み出す。

 速い。

 私の運動神経は「ラジオ体操第二」で息切れするレベルなのに、殿下は容赦なく私を振り回す。右へ左へ、回転、また回転。

 遠心力で私の脳みそが片側に寄り、視界の端でドレスの裾が緑色の円盤のように広がっているのが見える。


「笑え、ヴィヴィアン。顔が引きつっているぞ」

「笑ってますよ! これは『極限状態における人間の尊厳を保つための痙攣』という名の笑顔です!」

「足がもつれている。もっと体幹を使え」

「私の体幹は今、空腹でストライキ中です! エネルギー供給がないと動きません!」


 ズザッ、と私が足を滑らせそうになるたびに、殿下の腕が強引に私を持ち上げる。

 傍目には「情熱的なリフト」に見えているかもしれないが、実際には「回収される燃えるゴミ」の動きだ。


「……ところで殿下、確認ですが、タルトは苺ですか? それともミックスフルーツですか?」

「この期に及んでその質問か。……ミックスだ。季節のフルーツ全部乗せだ」

「カスタードは? 生クリームとのダブルクリームですか?」

「ああそうだ、バニラビーンズもたっぷり入っている」


 私は、殿下の肩越しに天井のシャンデリアを見上げながら、恍惚の表情を浮かべた。

 バニラビーンズ。その黒い粒の一つ一つが、私にとっては星よりも輝いて見える。


「素晴らしい……! それならば、私はあと3分はこの地獄の回転寿司に耐えてみせます!」

「回転寿司と言うな。美しいワルツだと言え」


 音楽が最高潮サビに達する。

 殿下が私を大きくスピンさせ、そのままドラマチックに上体を反らせるポーズ(ディップ)へと移行した。

 私の背骨が限界ギリギリまで反り、天井が視界いっぱいに広がる。

 会場から「おおっ」という感嘆の声が漏れた。


 その一瞬の静寂。

 音楽がブレイクに入り、次の小節へ移るための「タメ」の時間。


 私の腹の虫が、空気を読まずに叫んだ。


 ――グゥウウウウウウウウウウウ……ッ!


 それは、地底の魔獣が目覚めたかのような、低く、長く、そしてビブラートの効いた重低音だった。

 静まり返ったホールに、その音は朗々と響き渡った。

 最前列の貴婦人が「ひっ」と扇子で口を覆うのが見えた。


 終わった。

 今度こそ終わった。

 保存食とか苔とかいうレベルではない。「野獣」だ。私はただの腹ペコモンスターとして歴史に名を刻むのだ。


 私の顔から血の気が引いていくのがわかる。

 殿下の顔を見上げることもできない。

 しかし、私を支えている殿下の腕は、微動だにしなかった。


 殿下は、真顔で、会場全体に聞こえるような通る声で言い放った。


「……聞いたか」


 会場がざわめく。


「今のは、彼女の魂の共鳴音だ」


 は?


「彼女の愛が、私の魂と深く共鳴し、肉体の殻を震わせて音となったのだ。これは、伝説にある『魂の咆哮ソウル・クライ』……選ばれしつがいにしか出せない、奇跡の音色だ」


 嘘をつけぇええええええええ!!

 何がソウル・クライだ! ただのストマック・クライだ!

 腹の音を伝説にするな!


 しかし、貴族社会というのは恐ろしいもので、王太子が「これは奇跡だ」と断言すれば、黒いカラスも白くなる世界である。


「そ、そうだったのか……!」

「あれが、伝説の……!」

「なんて神々しい音色なんだ……まるでチェロのようだわ……」


 洗脳完了。

 私の腹の音は、いま、チェロに昇格した。


 音楽が再開し、フィナーレへと向かう。

 殿下は私を起こし、最後のポーズを決めるために私を抱き寄せた。


「……貸し一つ追加だ」

「……はい。タルトの上に、さらに金箔を乗せてください」

「強欲な女め」


 ジャーン、という音と共に曲が終わる。

 万雷の拍手。

 私は肩で息をしながら(コルセットが食い込んで痛い)、なんとか笑顔を作ってカーテシーをした。

 やった。やり遂げた。

 これで解放される。

 私は勝ったのだ。


 そう思った瞬間、拍手を切り裂くように、陛下が壇上から声を張り上げた。


「素晴らしい! 実に感動した! その『魂の咆哮』、もっと聞きたいぞ!」


 え?


「これから王族専用の晩餐会を行う! アークライト伯爵令嬢、そなたも同席せよ! メインディッシュが出るまで、その腹……いや、魂を鳴らし続けて余興とするのだ!」


 私の膝が、今度こそ完全に折れた。

 晩餐会。

 それは、小皿に乗った豆粒のような料理を、数時間かけてチマチマと食べる、この世で最も空腹を満たせない儀式。

 しかも、目の前に料理があるのに、マナーの鎖に縛られてガツガツ食べられないという、生殺しの地獄。


 私は助けを求めて殿下を見た。

 殿下は、遠い目をしていた。


「……ヴィヴィアン」

「はい……」

「諦めろ。親父は一度言い出したら止まらない」

「チキン……」

「持ち帰りにしてやる。冷めるがな」


 私の聖夜は、まだ終わらない。

 むしろ、本当の地獄(テーブルマナー対戦)は、ここからが本番だったのだ。


 * * *


 王族専用のダイニングルームというのは、私の貧困な想像力では「豪華な部屋」程度にしか変換されていなかったのだが、現実はもっと残酷で、そこは「音響効果が完璧に計算された処刑場」だった。


 天井は無駄に高く、床は大理石で、カトラリーが皿に当たる「カチャ」という微かな音さえもが、まるで銃声のように反響する。そんな空間に、全長10メートルはあるであろう長テーブルが鎮座し、その上座(遥か彼方)に国王陛下、その向かいに王妃陛下、そしてテーブルの中央付近にポツンと私とジェラルド殿下が並んで座らされている構図は、もはや食事というよりは公開尋問、あるいは宗教裁判のそれに近かった。


 私の目の前に置かれたのは、直径30センチはある純白の皿。

 そしてその中央に、申し訳程度に鎮座している、親指の爪ほどのサイズしかない「前菜」。


「……殿下。視力が低下したのかもしれません。皿の上に何も見えません」

「心の目で見ろ。それは『幻の白身魚の極薄カルパッチョ、朝露のジュレを添えて』だ」

「極薄にも限度があります! 皿の模様が透けて見えていますよ! これは魚の刺身ではなく、魚の霊圧プレッシャーを盛り付けたものでは!?」


 私はヒソヒソ声で抗議したが、殿下は涼しい顔でナプキンを膝に広げただけだった。

 この男、王宮の食事に慣れきっている。あるいは、私の絶望をスパイスにして食事を楽しむ気だ。


 その時、遥か彼方から、よく通る声が飛んできた。


「どうした、アークライト伯爵令嬢! 食が進まないようだが、口に合わぬか?」


 陛下だ。

 彼は既に自分の分の「魚の霊圧」を一口で吸い込み、期待に満ちた目で私の腹部を凝視している。

 そう、彼は待っているのだ。

 私の「魂の咆哮ソウル・クライ」の第二楽章を。


「い、いえ! 滅相もございません! あまりの美しさに、フォークを入れるのがためらわれるほどでして……!」


 私は震える手でフォークを握り、皿の上の透明な何かを掬い取った。

 口に入れる。

 ……味? しない。

 一瞬で溶けた。カロリー摂取量、推定2キロカロリー。私の胃袋を刺激することすらかなわず、ただ「今、何か入ってきたか?」という消化器官の疑念を招いただけだった。


 そして、その疑念が、私の腹の虫を怒らせた。


 ――キュルルルル……プゥ……。


 今度は、先ほどのような重低音ではなく、どこか物悲しい、高音の笛のような音が鳴った。

 静寂なダイニングに、その間抜けな音が木霊する。


 私は死にたくなった。

 今すぐこのフォークで自分の喉を突いて、名誉の死を遂げたい。


 しかし、陛下は違った。


「おお……! 聞いたか、ソフィアよ! 今度はまるで、夜明けの森で小鳥が囀るような、繊細な音色ではないか!」


 陛下が隣の王妃陛下に同意を求めた。

 王妃陛下。ソフィア様。

 彼女は、銀色の髪を結い上げ、表情筋が死滅したのではないかと疑うほど無表情な、氷の彫像のような女性だ。噂では「かすみを食べて生きている」とか「前世は水晶玉」とか言われている。

 彼女の冷ややかな視線が、私を貫いた。


「……ええ。確かに。彼女のオーラの色と共鳴していますわ。……濁った油のような色ですけれど」


 王妃様!?

 見えるんですか!? そして私のオーラ、揚げ油の色なんですか!?


「素晴らしい! ジェラルドが惚れ込むのも無理はない。この娘の腹……いや、魂には、宇宙コスモスが詰まっているのだ!」


 違います、詰まっているのはガスと胃酸と未練です。

 陛下が手を叩くと、給仕たちが次の皿を運んできた。

 スープだ。

 しかし、運ばれてきたのは、カップの底が見えるほど透明な、黄金色の液体。具材はゼロ。


「『黄金のコンソメ、3日間煮込んだ雉の魂と共に』でございます」


 また魂かよ!

 実体をくれ! 肉体ボディをくれ!


 私は殿下の袖を引いた。


「殿下、限界です。私の胃袋が暴動を起こしそうです。今なら目の前のテーブルクロスを食べても『アルデンテですね』と感想を言える自信があります」

「落ち着け。クロスは消化に悪い」

「そういう問題ではありません! なぜ王宮の食事はこうも概念的なのですか! 貴族は皆、光合成で生きているのですか!?」

「我々は『優雅さ』を食べているのだ。……まあ、君には『生存本能』の方が重要だろうが」


 殿下は、手元のワイングラスを揺らしながら、悪魔的な提案をしてきた。


「……ヴィヴィアン。この状況を打開する方法が一つだけある」

「なんですか。厨房への地下トンネルを掘れとでも?」

「いや。君が『魂の咆哮』を使って、メニューを変更させるのだ」

「はい?」

「父上は、君の腹の音を『神託』のようなものだと勘違いしている。ならば、君の腹が『不満』を訴えれば、もっとマシなものが出てくるかもしれん」


 なんて馬鹿げた作戦だ。

 腹話術ならぬ、腹鳴術か。

 しかし、背に腹は代えられない。文字通り、腹が全てなのだ。


 私はスープを一口飲んだ。

 美味しい。確かに美味しいが、液体だ。喉を素通りして終わりだ。


 さあ、鳴れ。

 私の胃袋よ。

 怒りを表現しろ。この「お上品」という名の兵糧攻めに対する、野生の怒りを!


 私は深く息を吸い、腹筋に力を込め、脳内で極厚ステーキの映像を再生した。

 ジュウジュウと焼ける音。滴る脂。

 来い、来い、来い……!


 ――グオォォォォォォンッ!!


 それはもはや腹の音ではなかった。

 地割れだ。あるいは、空腹のドラゴンが洞窟の奥で目覚めた咆哮だ。

 テーブルの上の銀食器がビリビリと震えた。

 給仕長がビクッとして、スープのおかわりをこぼしかけた。


 陛下が目を見開いた。


「な、なんだ今の音は!? まるで雷鳴ではないか!」


 すかさず、ジェラルド殿下が通訳に入った。


「父上! ヴィヴィアンの魂が……怒っております!」

「なに!? 怒っているだと!?」

「はい! 彼女の魂は叫んでいるのです。『これではない』と! 『もっと力強きもの、大地を駆ける生命のエネルギーを寄越せ』と!」

「つまり……コンソメでは不満だと!?」


 殿下、ナイス通訳! かなり脚色されているけれど、方向性は合っている!

 私はここぞとばかりに、悲劇のヒロインのような顔を作って胸(正確には胃)を押さえた。


「ああ、陛下……申し訳ありません! 私の魂が、あまりの空虚さに暴れ出して……! このままでは、魂が肉体を食い破り、このテーブルの上のキャンドルスタンドを齧り始めてしまうかもしれません!」


 脅しだ。

 これは「今すぐ肉を出さないと、私は暴食の魔獣に変身してこの部屋を破壊するぞ」という脅迫だ。


 陛下はゴクリと唾を飲み込んだ。

 そして、王妃陛下を見た。


「ソフィアよ、どう思う?」

「……危険ですわ。彼女のオーラが赤黒く変色しています。飢餓スタベーションの相が出ています。今すぐ鎮めなければ、王宮の備蓄食料庫が襲撃される未来が見えます」


 王妃様の予知能力(適当)が火を噴いた。

 ありがとう、オーラが見える設定の人!


「ええい、それはならん! 料理長を呼べ! いや、間に合わん! 今すぐ出せる、最も『生命力』のあるものを持ってこい!」


 陛下の号令に、給仕たちが慌てふためいて走り出した。

 やった。勝った。

 私の腹芸が、王宮の儀礼に勝利した瞬間だ。


 数分後。

 給仕長が、銀色のクロッシュ(蓋)がついたワゴンを押して戻ってきた。

 香ばしい匂い。

 間違いない。これは肉だ。

 私の鼻腔が、脂とスパイスの香りを捉えた。


「陛下、急ぎご用意いたしました。『仔羊のロースト、香草パン粉焼き』でございます」


 仔羊!

 チキンではないが、肉だ! 四足歩行のタンパク質だ!

 私の目が輝き、殿下が「よかったな、野獣」と小声で囁いた。


 給仕長が私の前に皿を置き、恭しくクロッシュを開ける。


 パカッ。


 そこには、美しく焼き上がった骨付きの仔羊肉が……


 ……一切れ。

 そう、上品にカットされた、マッチ箱サイズの一切れが、広大な皿の海にポツンと浮かんでいた。


 時が止まった。

 私の思考回路が焼き切れる音がした。


「……え?」


 思わず声が出た。


「コース料理でございますので」


 給仕長は涼しい顔で言った。


「続きまして、メインディッシュのあとの口直し、『柑橘のグラニテ』をご用意しております」


 違う。

 そうじゃない。

 私が求めていたのは、「肉の塊」だ。

 ナイフとフォークで上品に切り分けるようなおしゃれ肉ではなく、手で掴んで骨までしゃぶるような、原始的な肉塊なのだ。


 プツン。

 私の中で、何かが切れた。

 それは「貴族の令嬢としての理性」を繋ぎ止めていた、最後の糸だった。


 私は立ち上がった。

 ガタッ、と椅子が倒れる音が響く。


「……ヴィヴィアン?」


 殿下が驚いた顔で私を見上げる。

 私は、もはや焦点の合わない目で、殿下を見下ろした。

 そして、静かに、しかしドスの利いた声で言った。


「殿下。契約条項第3条をご確認ください。『盾としての業務遂行中は、パートナーの生命維持を最優先とする』……でしたよね?」

「……そんな条項あったか? いや、作った覚えはないが……」

「今、作りました」


 私はドレスの裾を捲り上げた。

 行儀? 知るか。

 マナー? 犬に食わせろ。


「私は帰ります」

「は?」

「ここには私の求める『聖夜』はありません。私のサンタクロースは、厨房で揚げ油と格闘しているはずなんです。ここにいるのは、皿の上の余白を愛でるアーティストたちだけです」


 私は陛下に向かって、深々と、しかし極めてスピーディーな礼をした。


「陛下! お招き感謝いたします! 私のハラは、もっと野蛮な供物を求めておりますので、これにて失礼いたします! オー・ルヴォワール(さようなら)!」


 私は脱兎のごとく駆け出した。

 ハイヒール? 邪魔だ!

 私は走りながら靴を脱ぎ捨て、裸足で大理石の床を踏みしめた。

 背後で「アークライト伯爵令嬢!?」「待て!」「魂が逃げていくぞ!」という声が聞こえるが、今の私は、獲物を追うチーターよりも速い。


 目指すは出口。

 そしてその先にある、私の屋敷。私の約束されたチキン。

 待ってろ、今行くぞ。

 私が本当の「聖夜の奇跡(爆食)」を見せてやる!


 * * *


 大理石の床を裸足で疾走する感触というのは、存外に悪くない。


 ひんやりとした冷気が足の裏から脳天まで突き抜け、オーバーヒート寸前だった私の思考回路を強制冷却してくれるし、何よりヒールという名の現代の纏足てんそくから解放された指先が「自由だ! 我々は自由だ!」と歓喜の歌を合唱しているのがわかるからだ。


 私は王宮の長い廊下を、さながら獲物を追う野生の猛獣のように駆け抜けた。

 すれ違う衛兵たちが「えっ、何あれ」「緑色の残像?」「妖怪・裸足令嬢?」と槍を取り落とす音が背後で聞こえるが、今の私にとって彼らは背景の書き割りに過ぎない。


 目指すは裏門。

 そこには、私が事前に買収しておいた我が家の馬車が待機しているはずだ。

 待ってろよ、御者のおじさん。今夜の客は私一人じゃないかもしれない。私の「空腹」という名の巨大な怪物が同乗するから、サスペンションが軋むかもしれないが許してくれ。


「――おい、待て! この暴走機関車!」


 背後から、聞き覚えのある声と、革靴が床を叩く音が迫ってくる。

 速い。

 王太子ジェラルド殿下だ。

 嘘でしょう? あの煌びやかな晩餐会を放置して、裸足の女を追いかけてきたの? 暇なの? それとも彼もまた、仔羊の一切れに絶望した同志なの?


「逃がしませんよ! 今の私は、チキンへの帰巣本能のみで動く自動操縦モードです!」

「誰が捕まえると言った! ……くそっ、速いな! 普段の運動不足はどうした!」

「カロリーへの執着を舐めないでください!」


 私はさらに加速した。

 だが、さすがに王家秘伝の英才教育(という名の体育会系シゴキ)を受けてきた殿下には敵わない。

 裏門の手前、巨大な柱の陰で、私の二の腕がガシリと捕獲された。


「……捕まえたぞ、非常食」

「離してください! 私を食べても美味しくありません! 筋張ってますし、性格の悪さが味に出ています!」

「食べるか! ……はぁ、はぁ、君を一人で帰したら、私が父上になんて言われると思うんだ。『お前の管理不足で、国の至宝(魂の咆哮)を逃した』と大目玉だぞ」


 殿下は息を整えながら、呆れたように私を見下ろした。

 その燕尾服は乱れ、完璧にセットされていた金髪も少し崩れている。

 ざまあみろ。イケメンが乱れる様は良い気味だ。……いや、悔しいことに、乱れても絵になっているのが腹立たしい。


「じゃあ、どうするんですか。私を縛り上げてあの虚無の晩餐会に連れ戻しますか? 言っておきますが、今の私は凶暴ですよ。フォークがなくても素手で噛みつきますよ」

「野蛮すぎる。……連れ戻しはしない。あんな空気の薄い場所、私も二度とごめんだ」


 殿下はニヤリと笑った。

 それは、舞踏会で見せていた作り物の微笑みではなく、悪戯を企む少年の顔だった。


「送ってやる。私の馬車でな」

「へ?」

「ただし条件がある」

「また条件ですか。私のハラをこれ以上搾取しないでください」

「簡単なことだ。……その『約束のチキン』とやら、私にも相伴しょうばんさせろ」


 私は目を丸くした。

 この男、正気か?

 王宮の最高級シェフが作る料理を袖にして、市井の、しかも冷めかけた揚げ物を所望するというのか。


「……後悔しますよ? 私の食べるチキンは、王宮のような上品な味付けじゃありません。ニンニクとスパイスが効いていて、翌日まで匂いが残るような、背徳の味です」

「望むところだ。今日の私は、上品さの過剰摂取で胸焼けしている」


 交渉成立。

 私たちは裏門に横付けされていた王家の馬車(私の家の馬車よりもクッションが3倍ふかふかだった)に乗り込み、夜の王都を爆走した。


 馬車の中で、私はようやく呼吸を整えた。

 隣に座る殿下は、足を組み、窓の外を流れる景色を眺めている。

 沈黙。

 でも、気まずくはない。

 なぜなら、私の頭の中はチキンのことで一杯だし、殿下の頭の中もおそらく「未知のジャンクフード」への好奇心で一杯だからだ。


「……それにしても、君の『魂の咆哮』は凄まじかったな」

「蒸し返さないでください。あれは黒歴史として墓まで持っていく予定です」

「いや、歴史書に残すべきだ。『聖夜の雷鳴』として」

「著者の筆を折りますよ」


 そんな軽口を叩いているうちに、馬車はアークライト伯爵邸に到着した。

 深夜の突然の帰宅。

 しかも、王家の紋章が入った馬車。

 屋敷の使用人たちが、松明を持って慌てふためいて飛び出してきた。


「お、お嬢様!? ご無事ですか!? 王宮から緊急の使者が……って、ええっ!?」


 執事のセバスチャン(王宮の執事とは別人だが名前が被っている)が、馬車から降りてきた殿下を見て、アゴを外れんばかりに驚愕している。

 無理もない。

 娘が裸足で、王太子を連れて帰ってきたのだ。

 普通なら「駆け落ち」か「不祥事」の二択だが、私の顔が「色気」よりも「食い気」に満ちているせいで、彼らは混乱の極みに達していた。


「セバスチャン! 説明は後! 今は緊急事態なの!」

「は、はい! どのようなご用件で!?」

「例のブツ! 厨房に隠しておいた、例のブツを私の部屋に持ってきて! 今すぐ! 秒で!」


 私は叫びながら玄関を突破し、階段を駆け上がった。

 殿下も慣れた様子で私の後をついてくる。

 セバスチャンが「ブツ……? ああ、あの脂っこい……しかし殿下にそのようなものを……」と呟いているのが聞こえたが、無視だ。


 私の部屋。

 ドレスを脱ぎ捨てる暇もない。

 私はコルセットの紐を限界まで緩め(プハァッ! 酸素が美味い!)、ローテーブルの前のソファにドカリと座り込んだ。

 殿下も向かいのソファに座り、まるでこれから極秘会議を行うかのような真剣な表情で待機した。


 そして。

 その時は来た。


 コンコン、とノックの音がして、メイドが震える手でワゴンを運んできた。

 銀色のクロッシュ。

 王宮で見た、あの忌々しい「余白だらけの皿」を隠していた蓋と同じものだ。

 だが、中身は違う。

 匂いが違う。

 部屋中に充満する、暴力的なまでのスパイスと脂の香り。


「お、お持ちいたしました……」


 メイドが逃げるように去った後、私はおもむろに立ち上がり、クロッシュの取っ手を掴んだ。


「殿下。覚悟はいいですか」

「ああ。見せてみろ、君の聖夜の正体を」


 私は蓋を開け放った。


 ――バァァァァァン!!


 そこには、山積みになった黄金色の塊があった。

 王家御用達のローストチキン(三羽)ではない。

 あれは殿下との契約分だが、まだ届いていない。

 これは、私が個人的に確保しておいた、街の市場で人気の「激辛スパイシーフライドチキン(大盛り)」だ。


 茶色い。

 圧倒的に茶色い。

 彩り? パセリ? そんな軟弱なものはここにはない。あるのは、衣のサクサク感と、内包された熱量カロリーのみ。


「……これが、君の求めていたものか」

「はい。美しいでしょう?」

「……ああ。王宮の宝物庫にある宝石よりも、ある意味で破壊力を感じる」


 殿下は感心したように頷いた。

 私は手近な一本を、ナプキンも使わずに素手で掴んだ。

 まだ温かい。

 指先に伝わる油の感触。これだ。これこそが生の実感だ。


「いただきます!!!!」


 私は大きく口を開け、チキンにかぶりついた。

 ザクッ、という小気味よい音。

 ジュワッと溢れ出す肉汁。

 ピリリと舌を刺激するスパイス。


 美味い。

 美味すぎる。

 脳内でファンファーレが鳴り響き、天使がラッパを吹き、私の胃袋がスタンディングオベーションを送っている。

 あまりの幸福に、目から涙が出そうになった。


「……んぐっ、んん~っ!」


 言葉にならない呻き声を上げながら、私は一心不乱に肉を貪った。

 骨の周りの一番美味しいところまで、徹底的にしゃぶり尽くす。

 マナー? 知らない言葉ですね。


 ふと視線を感じて顔を上げると、殿下が、まるで珍獣を見るような、しかしどこか尊敬の念を含んだ眼差しで私を見ていた。


「……すごいな。君は、食事をしているというより、生命を取り込んでいるようだ」

「殿下もどうぞ。見てるだけじゃお腹は膨れませんよ」

「……では」


 殿下は躊躇いながらも、その白魚のような指でチキンを掴んだ。

 王太子が。

 素手で。

 揚げ物を。


 彼は恐る恐る口に運び、小さく一口齧った。


 ザクッ。


 殿下の動きが止まった。

 碧眼が見開かれる。


「……なんだ、これは」

「チキンです」

「いや、知っているが……この、口の中で爆発するような旨味は……王宮の『素材の味を活かした』上品な料理とは、対極にある……」

「『暴力的な味』と言います」

「……悪くない」


 殿下は二口目を、今度は大きく齧り付いた。

 そして三口目、四口目。

 あっという間に一本を食べきると、彼は無言で二本目に手を伸ばした。


「……止まらん。なんだこれは、魔法か? 禁断の果実か?」

「脂と塩と化学調味料の魔法です」

「気に入った。……ヴィヴィアン、ワインはないのか。この脂を洗い流すための酒が必要だ」

「ありますよ! 安物ですけど、ガブガブ飲める赤ワインが!」


 私はボトルをそのまま殿下に渡した。

 殿下はラッパ飲みした。

 王太子が。ラッパ飲み。

 この光景、肖像画にして後世に残したい。タイトルは『堕落』。


 私たちは食べた。飲んだ。笑った。

 会話なんて高尚なものはなかった。「美味い」「熱い」「もう一本」それだけだ。

 山積みだったチキンが骨の山に変わり、ワインボトルが空になる頃には、窓の外が白み始めていた。


 殿下はソファの背もたれにだらしなく身体を預け、満足げに腹をさすっていた。

 その燕尾服には油のシミがついているが、彼は気にする様子もない。


「……いい聖夜だった」

「ですね。最高でした」

「王宮では決して味わえない、最高のフルコースだった」


 殿下は私を見た。

 その目は、酔いのせいか、それとも満腹のせいか、とろんと蕩けている。


「……ヴィヴィアン。契約更新だ」

「へ?」

「君を『非常食』と呼ぶのは撤回しよう。君は『共犯者』だ」

「共犯者?」

「ああ。この『背徳の味』を知ってしまった以上、私はもう王宮の薄味だけでは生きていけん。定期的に、君の屋敷でこの茶色い塊を摂取する必要がある」


 私は呆れた。

 これは求愛ではない。

 ただの「デブ活の誘い」だ。


「……高いですよ? 私の手配料は」

「構わん。王家の財政を傾けてでも払おう」

「じゃあ、次はピザですね。チーズたっぷりの」

「ピザ……なんだそれは。期待しているぞ」


 殿下は朝日の中で、悪魔のように、いや、ただの食いしん坊の少年のように笑った。


 こうして、私の聖夜は終わった。

 ロマンチックなキスも、愛の告白もなかった。

 残ったのは、大量の骨と、油まみれの指と、王太子との奇妙な「食の同盟」だけ。


 でも、悪くない。

 私は膨れたお腹をポンと叩き、ゲップを一つ噛み殺した。

 愛なんて、腹の足しにはならないけれど、美味しいチキンは明日を生きる活力になる。

 それが、私の選んだハッピーエンドだ。


 さて、次はどの店からデリバリーしようか。

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