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CASE OF MATSUSHITA 〜わらいもん〜  ⑤芸の人と書いて


 空気の湿った、梅雨の昼下がり。

 俺とジェンガさんは、難波の喫茶店にいた。


 「ジェンガさん、ついに来週ですね。『THE PIN』の決勝」


 毎年、夏のはじまりに行われるピン芸人日本一決定戦。

 その決勝。全国ネットの生放送に、彼は勝ち進んだ。


 事前特番では「西のダークホース」だの、「大阪が生んだ狂気のフリップアーティスト」だのと持ち上げられている。

 だが、この街の芸人たちは、誰も驚いていなかった。

 “とうとう来たか”――ただ、それだけだ。


 彼はエスプレッソを片手に、ただ静かに頷いた。

 窓の外では、濡れた街路樹がゆらりと揺れていた。


 「あーあ。これで優勝して、ジェンガさんも全国スターか。寂しなるやん。ホームシックで辞退せぇや」


 俺が軽口を叩くと、彼は口角をわずかに上げ、いつもの低い声で言った。


 「慎太郎。人に認められることと、人に見下ろされることは、紙一重なんや。それは、わかるな?」


 「……まぁ、なんとなく」


 彼は満足げに頷くと、再びカップを口に運んだ。

 その目には、どこか遠くを見ているような静けさがあった。


 「つまりやな。俺がピン芸の頂点に立つことと、それでも地球が青いことには、何の因果関係もないんや」


 「はい……ん? なんか話の着地おかしないですか? 前半と関係ないですやん」


 「そういうことや。哀しいけどな」


 そう言って、彼はまたコーヒーをひと口すすった。

 俺はしばらく黙って彼の顔を見つめ、

 ――何の話やねん、と思いながら、どうしようもなく笑えてきた。


 外では、雨が降りはじめていた。

 ガラスに滲む街の色が、少しずつ灰色に溶けていく。

 カップの底に残った苦味が、妙に心地よかった。


 そして、俺はひとつ話題を切り出した。


 「おれ、衣装変えようかな思うてまして」


 ジェンガさんの眉が、わずかに動いた。

 「ほう、それはええな。スーツなら選んだる。俺はスーツには少々うるさいからな」


 「ちゃいます。原始人の服、着ようかなって思ってます。ギャートルズみたいな」


 ジェンガさんは、静かに俺を見つめた。

 その視線には笑いも驚きもなかった。

 ただ、何かを測るような沈黙があった。


 「……そうしようと思った理由は、なんや」

 低く落ちる声。


 俺は少し笑って、答えた。

 「ジェンガさんが言うたんですやん。

 “お前は言語を手に入れたクロマニヨン人や”って」


 喫茶店の奥で、時計の針がわずかに鳴った。

 外では、雨が静かに降り続いている。


 「原始人の格好して、“言葉”の滑稽さを笑いにする。それが俺の芸や」


 「……それは、一人コントいうやつか?」


 「ちゃいます。“漫談”です。俺はコントのことは、ようわからへん。けど、“漫才師”であり、“漫談師”であることを、誇りに思ってます」


 沈黙が落ちた。


 隣の席で、グラスの氷がかすかに揺れた。


 「……慎太郎」


 「はい」


 ジェンガさんは、ゆっくりと顔を上げた。

 見開かれたその目に、深い闇と光が同居していた。


 そして、不敵な笑みを浮かべ、

 低くドスの効いた声で言い放った。


 「――そういうことや」


 その言葉が、全身を貫いた。

 空気が一瞬止まり、世界がわずかに軋んだ気がした。


 俺は笑った。

 ただ、笑うしかなかった。

 震えるほどの緊張と歓喜が、喉の奥に絡みついていた。


 外の雨脚が、次第に強くなっていく。

 街路樹がしなる。

 ガラス越しに見える信号が、青く滲んでいた。


 ジェンガさんは、テーブルの紙ナプキンを一枚取り、静かに広げた。


 スーツの内ポケットからペンを抜き取り、何かを書き始める。

 インクの音すら聞こえそうなほど、店内は静かだった。


 俺は、その姿を黙って見つめていた。


 やがて、彼はペンを止め、紙を指さした。


 「……こんな名前はどうや」


 俺は思わず吹き出した。

 「なんですかこれ。アホ丸出しですやん」


 テーブルの上で、二人してその紙を見つめ、声を出さずに笑った。

 笑いは音にならず、空気の震えだけが残った。


 やがて雨が弱まり、俺たちは店を出た。

 湿ったアスファルトが光り、雲の切れ間から、薄い夕陽が覗いていた。

 いつもの劇場までの道を、傘もささずに歩いた。


 ***


 ――そして、二週間後。


 『THE PIN』決勝当日。


 ジェンガさんは午前の新幹線で、東京へ向かった。

 昨夜、俺はお気に入りのブルースマン〈アルバート・キング〉のCDを手渡した。

 彼は何も言わず、ただ、いつものように口角をわずかに上げて頷いた。


 そして今。

 こんな日でも、俺は難波の小劇場でいつものように出番を待っていた。


 楽屋のテレビでは、生中継が流れている。

 芸人仲間たちがこぞって画面の前に集まり、息を詰めていた。


 〈続いては――高平ジェンガ!〉


 アナウンスが響くと、部屋の空気が一瞬にして張りつめた。


 映し出されるVTRには、若いころの映像。

 お笑い新人賞の優勝シーン。

 そして、この劇場のステージ。


 革命家のような立ち姿の彼が、眩しく見えた。


 そのとき、

 「――松下さん、スタンバイお願いします」


 スタッフの声が響く。


 仲間たちが一斉に俺を見た。

 その顔は「まじかよ……」という驚きと哀れみの入り混じった顔だった。


 俺は笑って言った。


 「俺が戻ってくるころには、ちょっとだけ時代が変わってるかもな」


 ステージ袖に立つ。

 楽屋の方から、歓声と笑いが交互に聞こえてくる。


 「うお! まじか!」

 「これできたか!」

 「やば……!」


 爆笑と歓声。そして、ざわめき。

 それらが、遠雷のように耳の奥を震わせた。


 前のコンビが袖に戻ってくる。

 「松下。ジェンガさんも東京でかましてるで。お前も、やったれや」

 先輩の声が、胸の奥に熱く響いた。


 出囃子が鳴り始める。

 そのイントロが、自分の呼吸とぴたりと重なった。


 最後にスマートフォンを開く。

 メッセージが一件。

 ――木場くんからだ。


 〈おい。お前の先輩、ヤバすぎだろ!〉


 その一文に、胸の奥がざわついた。

 けれど今は、考えるのをやめた。

 自分の舞台を、思い切り楽しみたかった。


 スマホを機材の上に置き、ステージ袖のカーテンを握る。


 血の流れが早くなる。

 ライトの熱が、もう肌に届いている。


 俺は、獣のようにステージへ飛び出した。

 サンパチマイクの前に立つ。

 照明の光が全身を貫く。


 客席は既に、笑顔でこちらを待っていた。


 俺は、姿勢を正して、腹の底から声を張り上げた。


 「どうもー! 松下クロマニです! ウホーーー!!!」


 拍手が弾け、笑いが立ち上がる。

 光と笑いの渦の中で、俺たちは確かに生きていた。

 




 ――夜明けのモクバ ―外伝―

   CASE OF MATSUSHITA 〜わらいもん〜 完


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