CASE OF MATSUSHITA 〜わらいもん〜 ④笑いの化身
〈優勝は――高平ジェンガ!〉
テレビの向こうで、照明が爆ぜた。
紙吹雪が降り注ぎ、会場が歓声に包まれる。
その中心で、彼は仁王立ちのまま、一歩も動かなかった。
マイクを握りしめ、前で手を組み、微動だにせずに立っている。
「おめでとうございます!」
司会者が駆け寄ると、彼はいつもの低い声で淡々と言った。
「――誠に、遺憾です」
訳のわからない一言に、会場が一瞬、静まり返った。
そして次の瞬間、爆笑が起きた。
彼はその笑いの渦の中でも、表情ひとつ変えない。
年末恒例の、関西お笑い新人グランプリ。
優勝は、高平ジェンガ。
俺が初めてのテレビ収録で失敗してから、ちょうど二年が経っていた。
画面の中のジェンガさんは、まるで“笑いの化身”のようだった。
狂気と知性のあいだを、完璧なバランスで歩いている。
その姿に、胸の奥がざわつく。
歓喜と同時に、ほんの少しだけ寂しさが滲んだ。
大好きな先輩が遠くに行ってしまうという現実。
それ以上に、彼という“俺たちだけの秘密”が世間にバレてしまったことが、なぜか悔しかった。
***
さらに一年が過ぎる頃には、ジェンガさんはすっかり“大阪の売れっ子”になりつつあった。
関西ローカルのネタ番組では常連で、毎週のように見ていた。
あの、仁王立ちで笑いを取る独特のスタイルは、
今や「高平ジェンガ」という名前そのものの代名詞になっていた。
ときどき東京のバラエティにも呼ばれている。
けれど、そこで爪痕を残せてるかと言えば、決してそうではない。
あの人は決して“負け顔”を見せない。
司会者にイジられても、他の芸人に被せられても、常に涼しい顔でいる。
雛壇で足を組み、眼鏡を指で押し上げながら、まるで“笑いを俯瞰している”ようにそこにいる。
その姿が格好いい反面、東京のスタジオではどこか浮いていた。
彼の芸は、明らかに“バラエティのルール”の外にある。
だから全国区のスターにはならない。
だが、芸人たちの間では――“本物”と呼ばれていた。
劇場では今も、若手の出番表に名を連ねるときもある。
それでも、もう完全に別の次元の人間になっていた。
収入も、立場も、生き方も。
ジェンガさんは、お笑い“だけ”で食っている。
一方の俺はといえば、
あの日のテレビ出演以来、地道にネタを磨き続けていた。
たまに深夜のネタ番組に呼ばれるようにはなったけれど、
それでも生活の軸はバイトと劇場の往復。
冷蔵庫には、いつも半分飲みかけの水と、
開けたままのコンビニのツナマヨおにぎりが転がっていた。
それでも、どこかで思っていた。
――俺は、まだこの世界に残っている。
それだけで、ギリギリの誇りだった。
**
その日、俺は劇場の出番を終えると、心斎橋へと急いだ。
久しぶりにジェンガさんと二人で飲む約束をしていたのだ。
古びたバー。
薄暗い照明にウイスキーの瓶が鈍く光る。
そこもまた、ジェンガさんの行きつけだった。
何度か一緒に来たことがある。
ドアを開けると、彼はすでにカウンターでバーボンを傾けていた。
――芸人ちゃうやん。探偵やん。思わず心の中でツッコミを入れつつ、
「遅くなってすいません。出番押してて」と頭を下げる。
ジェンガさんはグラスを回しながら俺を一瞥し、
「ええんや。お前の時間は、一番お前を待ってくれへん。そういうもんや」と言った。
絶妙に意味のわからない日本語だったが、彼の口調と佇まいが妙に説得力を持たせていた。
「……そういうもんですよね」
俺は苦笑しながら、隣に腰を下ろす。同じバーボンを注文した。
そして、このとき俺は、ジェンガさんの眼鏡に違和感を感じていたが、ここではあえて口に出さなかった。
「今日は客を笑かしてきたのか」
低く落ち着いた声。
「まあ……大爆笑ってほどやないですけど、いつも通りって感じですわ」
グラスを合わせながら答える。
「ジェンガさんみたいに、緻密に構築するネタは、俺には無理です。日によってウケ方が全然違うんですよ」
「構築やない。おれがやってんのは設計や」
「あ、そうでしたね。まあ、どっちにしろですよ」
口ではそう言いながらも、胸の奥には小さな棘が残っていた。
やりたい方向のネタはできている。だが、思ったような反応が返ってこない。
逆に、意図していない部分がウケる日もある。
この不安定さが“芸”なのかもしれない――そう思いながらも、ジェンガさんにはそのブレがまったくない。
「お前が最近やってる、“言葉”をテーマにしたフリップ芸。あれ、俺は発明やと思うで」
バーボンの氷がカランと音を立てた。
「発明、ですか?」
「そや。芸人のネタっちゅうのは、みんな“言葉”を使った芸や。だから、“言葉そのもの”をイジるっちゅうのは、本来反則なんや」
「え、反則ですか? さっき発明って言いましたやん」
「聞けや。たとえば格闘ゲームで負けそうになって、相手をリアルで殴ってコントローラー奪ったとしたら、それはどうや?」
「反則ですね。そんな奴、絶対友達になりたない」
「じゃあ、バスケの試合中、『あそこからカゴに入れたら三点になる根拠を説明しろ』いうて審判とディベートを始めたら?」
「反則いうか……もう競技ちゃいますやん」
「せやな。でも、それで客が爆笑してたら?」
俺はグラスを止めた。
「……いや、ウケてても反則は反則ですやん。失格ですよ」
「そや。でもな、芸人の世界だけは違う。ネタをネタにしても、芸そのものを茶化しても、ウケたらそれが“正義”や。そらそうや。そもそも勝利条件が“笑わせること”なんやから」
ジェンガさんは煙の向こうで笑った。
「お前のやってるのは、いわば“メタフィクションの芸”や。お前自身が言葉の外から、言葉そのものをイジってる。そこに、ちゃんと“笑い”が生まれとる。せやから発明やねん」
その言葉が、静かに胸に沁みた。
俺自身はまったく意識していなかったが、こうして論理的に言語化されると、確かにそうなのかもしれないと思えてくる。
ジェンガさんは続けた。
「せやからな。お前は“言葉”をテーマにする以上、それについて深く知っておく必要があるんや」
バーボンを飲み干し、グラスの底を軽く見つめながら言葉を継いだ。
「たとえば、言葉を発明したのは誰やと思う?」
突然の質問に、思わず固まった。
大喜利なのか、真面目な問いなのか、一瞬判断がつかない。
「え……コロンブスとかですか?」
「アホ。そんなわけないやろ。俺にツッコミさせんなや」
そう言って、カウンターの奥に立つマスターへグラスを軽く掲げ、「おかわり」と目で合図した。
「クロマニヨン人や。まあ、原始人やな」
俺がスマホを取り出そうとすると、すかさずジェンガさんが言った。
「調べるな。諸説アリや」
そして、ゆっくりとした口調で続けた。
「慎太郎。お前は今、“言語”という文明を手に入れたクロマニヨン人なんや。わかるか?」
「いや、わかるかい。てか、なんでずっと眼鏡逆さまやねん」
耐えきれずツッコんだ。
店に入ってきたときから、ジェンガさんがずっと眼鏡を上下逆にかけていることに、ようやく触れた。
「そういうことや」
低く太い声で、彼は言った。
どういうことかは、最後までわからなかった。
けれど、カウンターの奥でマスターが笑い、俺もつられて笑った。
小さなバーの中が、穏やかな笑い声に包まれた。
***
それから、数カ月が過ぎた。
俺のネタは、気づけば少しずつ形を変えていた。
まず、フリップを使うのをやめた。
別に、紙を使った芸を軽んじているわけではない。
むしろ、言葉を文字にして見せるという行為には、原始的な力と革新の両方が宿っていると思う。
実際、ジェンガさんのフリップ芸は、もはや“芸術”の領域に踏み込んでいた。
けれど、俺にとってそれは“自分のやり方”ではなかった。
紙を一枚挟むだけで、言葉と自分との間に膜が張られてしまう気がした。
俺は昔から、思ったことはまず口に出す。
ウケるか、怒られるかは、そのあとでいい。
そして、自分の言葉が誰かの胸に刺さったとき――そこにこそ、生きている実感があった。
だから、フリップを捨てた。
白い紙の代わりに、呼吸と声を使って、自分の内側をそのまま晒した。
ステージでは、できるかぎりの力で表現した。
声を張り、身振りを交え、ときには漢字を身体で描くように動いた。
俺にとって「話芸」とは、完成した作品を披露するものではなく、
その場の空気と観客の呼吸のなかで、瞬間ごとに変わっていくものだった。
台本よりも生々しく、予定よりも美しい“揺らぎ”こそが、芸の本質に思えた。
客席の反応は変わっていった。
笑いが弾ける瞬間が、確かにあった。
芸人仲間からは、「いいネタやな」と言われることが減った。
代わりに、「アホやなお前」と笑われることが増えた。
けれど、その“アホ”という響きの中に、どこか祝福のような温度を感じていた。
***
――そして、それから二年の月日が流れた。
心斎橋の路地裏にある、小さなギャラリー。
入口の看板には、妹の手書き文字でこう記されている。
<松下 葵 個展>
古材のような床は、歩くたびにギシギシと鳴った。
壁一面には、油絵が並んでいる。
人物を描いた作品が多い。
笑っているのに寂しそうで、泣いているのにどこか嬉しそう。
絵具の節々から、そんな微妙な感情の温度が滲み出ていた。
昔からそうだった。
葵は、人の“表情の裏”を描くのが抜群にうまい。
兄だからそう感じるのかもしれないが、それでも、やはり圧倒される瞬間がある。
血のつながりを越えて、“一人の表現者”として、もう手の届かない場所にいる気がした。
隣では、ジェンガさんが腕を組んで、真っすぐな目でつぶやいた。
「これは……もはやアートやな……」
――当たり前やろ。アートを見に来とんねん。“もはや”ってなんやねん。
喉まで出かかったツッコミを、ぐっと飲み込んだ。
ギャラリーの静けさを壊したくなかったのだ。
代わりに小さな声で言う。
「ブルースとも通じるものがありますね」
ジェンガさんは、少しだけ口元を緩めて答えた。
「俺も、思ってたところや」
そう言い残し、もう一度、葵の絵を見つめる。
――俺は、彼のこういうところが大好きだ。
普段から、無駄に気品のある振る舞いを決して崩さないくせに、たぶんアートギャラリーに来るのは初めてなのだろう。
どこか所在なさげで、落ち着かない様子がたまらなく愛おしくて、気づけば笑ってしまっていた。
奥から葵が現れ、丁寧に頭を下げた。
「兄がお世話になっております。松下葵です」
ジェンガさんは眼鏡を指で持ち上げながら、どこか芝居がかった口調で言った。
「慎太郎からよく聞いているよ。君の作品は一言で言えば――“四畳半の池から手を伸ばしたシェイクスピア”だよ」
意味はまるでわからなかったが、言い方だけは不思議と格好よかった。
そして後から気づいたが、ジェンガさんはなぜか葵の前では終始標準語だった。
葵はそんな彼の様子に吹き出し、
自分の個展だというのに、腹を抱え声を殺して笑っていた。
「あ、あかん………ツボや………」
大抵の芸人は、この状況を“笑われている”と捉えるが、ジェンガさんの場合は、何故か“笑わせている”と感じさせるから不思議だ。
――彼は、やはり“笑いの化身”なんやと思った。
外に出ると、冬の風が頬を撫でた。
俺たちは三人でギャラリーの前に立ち、タイマーをセットして写真を撮った。
その写真を、すぐにメールで送った。
宛先は――木場元児。
数分後、短い返信が届いた。
〈お、高平ジェンガじゃん。おれ、こいつ結構好きだよ〉
思わず笑みがこぼれる。
〈最高の先輩やで。いつか会わせたいわ〉
そう打って送信した。
スマホをポケットに戻す。
白い息が夜の空気に溶けていった。
ジェンガさんと並んで、劇場へ向かう。
今夜は新ネタライブ。
この人がどんな仕掛けを見せてくれるのか――
その予感だけで、胸の奥が少し熱くなった。
CASE OF MATSUSHITA 〜わらいもん〜
④笑いの化身 続




