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CASE OF MATSUSHITA 〜わらいもん〜  ③ブルース


 季節は十月。

 午後の難波は、どこか人の熱がやわらかい。

 薄手のジャケットを羽織った親子が、落ち葉を踏みながらゆっくりと歩いていく。

 風が運ぶアコースティックギターの音が、街のざわめきに紛れていた。


 俺は、劇場の出番と出番の合間にファミリーレストランにいた。

 向かいには、ジェンガさん。

 ファミレスのドリンクバーで、なぜかエスプレッソを注文し、足を組んで飲んでいる。


 “売れない芸人”という肩書きとは裏腹に、その無駄に品のある振る舞いが妙にサマになっていた。


 大阪に戻って、もう二年。

 俺も三十歳になった。

 笑いに必死だった東京の頃と違い、今の俺は、少し“間”のある笑いを覚えつつあった。


 「ジェンガさん、昨日の大喜利番組、見ましたよ」

 「……あぁ」

 彼は短く頷く。


 「『こんな都知事は嫌だ』ってお題で、“核兵器を所有している”は攻めすぎでしょ。いくら深夜でも」

 笑いながら言うと、ジェンガさんは表情ひとつ変えず、低い声で返した。

 「でも、嫌やろ。戦争せぇへん国の都知事が、個人的に核持ってたら」

 「……まあ、そりゃ嫌やけど」

 俺は思わずコーヒーを吹き出した。


 彼は相変わらず劇場中心の活動だが、

 ここ一年で、関西ローカルのテレビにちらほら顔を出すようになっていた。


 一方の俺は、相変わらず劇場とバイトの往復。

 変わったのは、一人暮らしを始めたことくらいだ。


 「慎太郎。お前、東京ではどこの劇場出てたんや?」

 ふいに、ジェンガさんが尋ねた。


 付き合いは長くなったが、東京時代の話は、これまでほとんどしてこなかった。


 「事務所の劇場が新宿と渋谷にありました。

 あとは地下の小劇場とか、ライブハウスとか……」


 「ライブハウス?」

 「ええ。下北沢の」

 「東京の芸人は、みんなそうなんか?」

 「いや……他は知らんけど、うちはそっちの方がウケがよくて。

 バンドと一緒のイベントとか、よく出てました」


 ジェンガさんは、コーヒーカップを持ち上げ、興味深そうに目を細めた。


 「お前、ブルースは好きか?」

 「ブルース?」

 質問の意図が掴めず、思わず聞き返した。


 「いや……ロックとかパンクは聴きますけど、ブルースはちょっと……ようわかりません」


 ジェンガさんはタバコに火をつけ、薄く笑った。


 「そいつらの先祖や。ブルースは“語り”や。

 お前が舞台でしゃべってることと、根っこは同じや」


 煙の筋がゆらめく。

 その灰色の線を目で追いながら、俺は黙って聞いていた。


 「ええか、慎太郎。話芸いうのは、要はブルースなんや」

 「……ブルース」


 「そうや。悲しいことをおもろく話す。

 おもろいことを、どこか寂しく語る。

 その両方ができるやつだけが、ほんまの芸人、いや、ブルースマンや」

 「ブルースマンですか?」


 「そや」


 少しの沈黙。

 そして俺は、なんとなく尋ねた。


 「ジェンガさんは誰のブルースを聴くんですか?」

 「知らん。誰でもええ。ブルースって書いてあるCDを聴くんや」


 ジェンガさんは、多分ブルースに詳しいわけじゃない。

 けれど、その曖昧さの中に、なぜか説得力があった。

 まるで“知らない”ということ自体が、芸の一部みたいに思えた。


 彼は口の端だけで笑った。

 笑っているのに、どこか寂しそうでもあった。


 俺は何も言わず、ただその横顔を見ていた。

 灰皿の上で煙草の火が細く揺れ、

 その赤い光が、ゆっくりと“リズム”を刻んでいた。


 しばらく沈黙が続いたあと、

 ジェンガさんは不意にポケットからMP3プレーヤーを取り出した。

 「そや、今日聴いてきたのは、これや」

 画面には〈ブルース・スプリングスティーン〉と表示されていた。


 ――たぶん、それは“ブルース”というジャンルではなく、人の名前で、

 しかも、綴りも違う。


 そう思ったが、口には出さなかった。

 「なるほど……聴いてみます」


 ジェンガさんは、得意げに顎を上げた。

 「聴いてみぃ。こいつのシャウトは最高や」


 俺は笑いを堪えながら頷いた。

 その夜、ブルースという言葉の意味が、

 ほんの少しだけ分かった気がした。


 *


 劇場の大部屋に戻ると、事務所の社員・高橋さんが、芸人たちに囲まれて談笑していた。

 その声の響き方が、まるでこの場所全体の体温を上げているようだった。


 俺に気づくと、彼はすぐに振り返った。

 「おー! 松下、帰ってきたか」

 声に弾みがあった。

 「なんや、ジェンガも一緒か。お前ら、最近ようつるんどるなぁ」


 人が嬉しそうにしていると、つられてこちらも楽しくなってくる。

 「ええ、すっかりジェンガさんにお世話になってます」

 俺がそう言うと、ジェンガさんは表情を変えずに淡々と返した。

 「高橋さん、今日はどうされたんですか。俺のレギュラーでも決まったんですか」


 高橋さんは腹を抱えて笑った。

 「アホか。あんな危なっかしい大喜利してて、決まるわけないやろ!」

 大部屋が一斉に笑いに包まれた。

 こういう瞬間の一体感が、俺はたまらなく好きだった。


 笑いが落ち着いたところで、高橋さんが続けた。

 「今日はな、松下の話や。ローカルの深夜枠やけど、ネタ見せ通ったで。二分もらえるわ」


 楽屋がどよめいた。

 それはもちろん嬉しい知らせだったが、正直みんなの前で言われるのは少し気まずかった。

 この部屋には、俺と同じようにくすぶっている三十代の芸人が山ほどいる。

 でも、高橋さんのそういうガサツさを、誰も本気で嫌ったりはしない。

 それがこの世界の優しさでもある。


 俺は、少しデリカシーがないとは思いつつも、喜びを口に出していた。

 「ほんまですか! ありがとうございます!」

 その瞬間、ジェンガさんがそっと肩に手を置き、低い声で言った。


 「最高に泥臭いブルース、かましてこいや」


 「いや、なんやねんそれ。ダサいわ!」


 思わずそう返すと、楽屋が爆笑と拍手に包まれた。


 出番を終えたばかりのコンビが廊下から顔を出して怒鳴る。

 「うるさいねん! ステージまで聴こえとったで!」

 その声に、また笑いが起きた。


 ――芸人の世界は、ほんまにあったかい。

 世間から見れば、三十を超えてフラフラしている、どうしようもない人間の集まりかもしれん。

 けれど、俺にとっては、これ以上なく真っ直ぐで、美しい場所やった。


 結局、この日のステージはボロボロだった。

 地に足がつかず、セリフも何度も噛んだ。

 ウケも中途半端。


 それでも後のトークコーナーで、他の芸人たちに散々イジられたおかげで、なんとか笑いに変えてもらえた。

 救われたというより、“芸人に助けてもらった”夜だった。


 大喜利コーナーでは、昨日テレビで賛否を巻き起こしたばかりのジェンガさんが、完全に無双状態。

 本来はボケの俺も含めて、そこにいる芸人たちは皆ただツッコミに回るしかなく、舞台の上で翻弄され続けた。

 彼が突拍子もない回答を出すたびに、会場は大きく揺れた。


 ああ、この人はやっぱり本物だ――そう思いながらも、どこか悔しかった。


 ライブが終わると、気がつけばスマホを握っていた。

 発信履歴からその名前を探した。

 俺は迷わずタップした。


 『おう、久しぶり。どうした?』

 「あ、木場くん? 遅くにゴメンな」


 彼は、いつもの気怠そうな声で答えた。


 『大丈夫だけど。何かあったのか?』

 「出んねん! やっと!」

 『は? なにが出るんだよ』

 「テレビや! ローカルやけど、来月放送されんねん!」


 少し沈黙があったあと、受話器の向こうから笑い混じりの声が返ってきた。

 『……そうか。ついにきたか、松下の時代』

 「いや、そんなん大げさやけどさ……どうしてもお前に言いたかってん」


 彼がバンドを解散して会社員になったことは知っていた。

 もしかしたら、俺の報告は胸をざらつかせるかもしれない。

 それでも、誰よりも最初に伝えたかった。


 下北沢で泥だらけになりながら、夢を追ってたあの日々を一緒に過ごしたのは、他でもない木場くんだったから。

 あの時代こそが、今も自分の原動力になっている。


 受話器の向こうで、彼は低く笑った。

 『そんなの驚くことでもねぇよ。むしろ遅すぎるくらいだ。……ほんと、世の中バカばっかだよな』


 その皮肉混じりの言葉の裏に、確かに温度があった。

 あの頃と、何も変わっていない声だった。


 「おう、ありがとな」

 『東京じゃ映らねぇから、録画送れよ』


 プツン、と通話が途切れた。

 スマホの画面に残った通話履歴を見つめながら、

 俺は小さく息をついた。

 笑いの夜風が、どこか心地よく感じられた。


 「おい松下! 早よ行くぞー!」

 先輩芸人の声が廊下の奥から響いた。

 「今日はお前のお祝いやから、ジェンガの奢りやでー!」

 笑い声が弾ける。


 ジェンガさんは、手の甲に顎を乗せたまま、ゆっくり首を横に振った。

 その無反応さが、逆に絵になる。

 誰よりも静かなのに、誰よりも場を支配している。

 そういうところが、この人の恐ろしい魅力だった。


 秋の風がビルの隙間を抜ける。

 少し冷たい空気に、笑い声がふっと溶けていった。


 **


 一週間後。

 俺はテレビ局の廊下にいた。

 初めての収録。

 スタジオの壁の向こうから、前の組の笑い声が漏れてくる。

 その音が、鼓動を早める。


 ネタ合わせを何度も頭で繰り返すが、指先が落ち着かない。

 ペットボトルの水を口に含み、すぐ吐き出す。

 トイレに三回行っても、まだ落ち着かない。


 「――松下慎太郎さん、お願いします」

 若い女性ADの声に呼ばれ、俺はスタジオのドアを押した。


 照明の光が、視界を真っ白に染めた。

 カメラの赤いランプが点く。

 十数人のスタッフ、プロデューサー、ディレクター、そして観覧客の目が一斉にこちらを向いている。

 息を吸う音さえ、マイクが拾ってしまいそうだった。


 二分のショートネタ。

 選んだのは『生八ツ橋の女』ではなく、ここ数ヶ月で磨いた新作。


 ――“言葉”をテーマにした漫談。

 日常の言い間違い、誤訳、日本語の曖昧さ。

 日常の中にある小さなズレを笑いに変えるネタ。

 そして最後に、ジェンガさんの“ブルース”と“ブルース・スプリングスティーン”の話をオチに使った。


 ウケは、そこそこだった。

 笑いがまったくないわけじゃない。

 けれど、“そこそこ”という言葉ほど、芸人にとって残酷なものはない。


 収録が終わると、プロデューサーに呼び止められた。

 「ネタは悪くなかったよ。着眼点も面白い」

 彼は腕を組んで、少しだけ首を傾げた。

 「でも、キャラ弱いね。普通にTシャツにジーンズでそのネタやっても、説得力がない」

 「……説得力、ですか」


 「そう。まず“言葉のズレ”を扱うなら、フリップ使ったほうがいいね。視聴者が全員、漢字を思い浮かべられるわけじゃないんだから。劇場に“笑いにきてる客”と、画面の前で“なんとなく見てる視聴者”は違うよ。そこまで考えないと、テレビは難しいよ」


 その瞬間、自分がまったく“テレビ的”な思考をしていなかったことに気づいた。


 俺は養成所も出ていなければ、師匠もいない。

 相方と勝手に東京に出て、ライブハウスで叫んでいただけの芸人だった。


 劇場では伝わっていた“間”が、ここでは通じない。

 笑いの温度が、どこか別の世界のもののようだった。


 スタジオを出ると、廊下の蛍光灯がやけに白く見えた。

 俺は深呼吸して、頭を下げた。

 「……ありがとうございました。もう一回、練り直します」


 背を向けながら、ふと思った。

 ――たぶん木場くんなら、あのプロデューサーに目潰しくらいかましている。

 いや、少し前の俺でも、暴言のひとつくらいは吐いたかもしれない。


 けれど、現実を目の当たりにすると、人間はこうも静かになるものなのか。

 笑うことしかしてこなかった俺が、初めて“黙る”という術を覚えた。


 後日、オンエアされた番組を見ると、俺のネタは丸ごとカットされていた――

 


CASE OF MATSUSHITA 〜わらいもん〜

③ブルース 続

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