CASE OF MATSUSHITA 〜わらいもん〜 ②ジェンガ
薄暗い喫茶店の隅で、俺はノートを広げていた。
カウンターの奥でマスターが新聞をめくる音だけが聞こえる。
ブレンドコーヒーの湯気が、頭の中の整理されない構成案みたいに立ちのぼっていた。
“生八ツ橋の女”。
――題材としては悪くない。
けれど、どうしてもメイプルシロップと太極拳がひとつの線で繋がらない。
ネタとしての“構造”が、どこか不自然に歪んでいる。
俺はノートの上に「構成」と書き、何度も矢印を引いては消した。
“メイプル”→“甘い”→“依存”→“ホスト”……
“太極拳”→“中国”→“カンフー”→“ジャッキーチェン”……
――どっちに転んでも笑いに着地しない。
いや、笑い以前に、これはもう“漫談”の構造をしていない。
漫才なら簡単だった。
俺が勝手なことを喋って、飯塚がキレて止めてくれれば、それで形になった。
ツッコミがいないというのは、まるで誰の声も届かない道を、一人で歩いているみたいだった。
「……お前、真剣な顔してなにしてんねん」
顔を上げると、飯塚が立っていた。
約束の時間を少し過ぎている。
「おお、来たか。ネタの構成考えててん」
「構成? お前、いつからそんな小難しい芸人になったんや」
飯塚は笑いながら向かいの席に座り、ミルクを入れすぎたコーヒーを一気に飲んだ。
「ピンやからな。ツッコんでくれる奴がおらん。
全部、自分で回して、自分で落とさなあかんねん」
「何言うてんねん。お前アホなんやから、細かいことは考えんでええねん」
その辛辣な言い様に、あの頃の漫才の空気が一瞬だけ蘇った。
俺は少しだけ肩の力が抜けた。
カップの底を見つめながら、ふと思い出したように尋ねた。
「で……どうや、親父さんの具合は」
飯塚は、少しだけ視線を落とした。
「うーん……まぁ、今のところボケてはいるけど、命が危ないとかは無いわ」
「ほんならよかった。親父さんの大事なスーパー、潰したらあかんで」
「アホ。俺の代であれを大型ショッピングモールに化けさせたるわ」
二人で笑った。
飯塚の笑い方は、あの頃と何も変わっていなかった。
喫茶店を出ると、昼の光が眩しかった。
この街で、もう一度笑いを作り直す。
俺は小さく息を吸い込んだ。
「ほな、頑張れや。お前の“芸人病”は、治らんやろうけどな」
そう言って立ち上がる彼の背中に、「ありがとな」とだけ声をかけた。
飯塚は振り向かず、片手をひらひらと振って店を出た。
***
それから数日後。
ノートを何枚も埋めたけど、どれも笑いにならなかった。
ツッコミのいない世界で、ひとりの言葉だけが空を切る。
――これが、ピン芸人か。
そう呟いて、俺は筆を置いた。
その夜、俺は初めて“ひとり”の舞台に立つことになっていた。
劇場の袖から客席を覗いた。
五十人いるかいないか。
客席のざわめきが、まるで違う言語のように耳に入ってくる。
東京ではライブハウスのようなノリの観客が多かったが、ここは完全に“劇場の空気”だった。
――笑いを待ってる。
その静けさが、何より恐ろしかった。
出番が呼ばれる。
ライトの光が頬に刺さった。
深呼吸をして、ゆっくりマイクの前に立つ。
「えー、この前ね、バス乗り場の近くで、しゃがみ込んでる女の人がいたんですよ」
客席が少しだけざわついた。
悪くない。
そこから、俺は例の“生八ツ橋の女”の話を始めた。
言葉のリズム、間の取り方、視線の使い方――すべて練習通り。
けれど、笑いは起きない。
静かな空気の中で、俺の声だけが妙に響いた。
「でね、その女が持ってたのが――メイプルシロップ!」
間を置いた。
……沈黙。
後ろの照明が、やけに熱く感じた。
やばい。この空気は知ってる。
客が“どう反応していいかわからん”ときのやつや。
「……で、太極拳の動画を――」
声が少し裏返った。
その瞬間、客席の一番後ろで、一人だけ笑った。
でもそれは、ネタに対してじゃなく、俺の声の裏返りに対してだった。
五分が永遠に感じた。
ネタを終えると、拍手が数秒だけ起こり、すぐに止んだ。
頭を下げ、袖に戻る。
空気がまだ、身体にまとわりついて離れなかった。
舞台袖に戻ると、冷えた空気が喉を通った。
汗が背中を伝って、Tシャツの内側で固まっていく。
観客の笑い声も、拍手も、今は何も残っていなかった。
残っているのは、ライトの残光と、空気の重たさだけだった。
「次、ジェンガさん、お願いします!」
スタッフの声が響く。
――高平ジェンガ。
名前を聞いた瞬間、心臓がひとつ鳴った。
芸歴は俺より三期上。
深夜のネタ番組で何度か見たことがある。
百八十センチはある長身に、細身の黒いスーツをまとい、髪は七三分けのオールバック。
光沢のある黒縁メガネがライトを反射して、一瞬こちらを刺す。
まるで舞台に立つ革命家だった。
彼がステージに上がる。
客席のざわめきが自然と消えていく。
黒いボードを立てかけ、最初のフリップをめくる。
――『有名作品の向こう側』。
タイトルが出た瞬間、空気が張りつめた。
彼は、誰もが知る名画や写真の“外側”を、妄想のストーリーで描いていく。
――“アビーロード”の横断歩道。
ビートルズの四人が渡るその先で、信号を待つ中年男の、どうしようもない哀愁。
――“最後の晩餐”。
パンをちぎりながら交わされる、取るに足らない会話。
そして、“モナ・リザ”。
その美しい微笑の理由を、たった一言でぶち壊す。
笑いが波のように押し寄せ、静かに引いていく。
彼はその波の上で、完璧なバランスを保ちながら立っていた。
知性と狂気が、紙一重の場所で溶け合っている。
そこにあるのは、イーゼルとフリップ、そして異常な精度の思考だけ。
それは、細部まで計算しつくされたオーケストラのようでもあり、
空気に合わせて形を変えていくジャズのようでもあった。
フリップをめくるたび、
観客は笑いながら、次の一枚を待っていた。
誰もが、その集中と美しさから目を離せなかった。
袖の暗がりから見ていた俺は、息を呑んだ。
劇場の空気そのものを支配しているような姿は、どこか神々しかった。
その反面、ふいに見せる僅かな笑みが、悪魔のようにも見えた。
彼は深々と一礼し、袖に戻ってくる。
すれ違いざま、俺は思わず口にした。
「すごいっすね……ほんまに」
彼は立ち止まらず、
「ありがとう」とだけ呟いて、フリップを抱えたまま去っていった。
ライトの残光だけが、まだ視界の奥に残っていた。
――ああ、これが“芸”ってやつなんやな。
笑いでも、言葉でも、勝てる気がしなかった。
けど、不思議と惨めじゃなかった。
あの夜の俺は、敗北よりも、ただ清々しさに包まれていた。
*
打ち上げの席は、劇場の近くにある大衆居酒屋だった。
テーブルを囲む芸人たちの笑い声が、油で濁った照明の中をくぐり抜けていく。
どの会話も、どの冗談も、同じような熱と湿度を帯びていた。
俺は端の席で、ぬるくなったビールを片手に黙っていた。
笑いの渦に入れないわけじゃない。
ただ、今はその輪に混ざる気分になれなかった。
さっきまでステージの上にいた高平ジェンガは、
スーツ姿のまま、反対側の席で足を組み、静かにワインを飲んでいた。
大衆居酒屋で見るその姿は“不自然”のかたまりだった。
煙と笑い声の渦の中にあって、そこだけ空気が違って見えた。
誰かが話しかけると、ジェンガさんはわずかに口角を上げ、短く応じて、また沈黙へ戻る。
その一連の所作は、まるで舞台の一幕のように美しかった。
――どうしても話したい。
けれど、何をどう切り出していいかわからない。
完璧すぎた。
あの舞台を見たあとでは、どんな言葉も陳腐に思えた。
だから、俺は黙ってグラスの泡を見つめていた。
やがて、お開きの声がかかり、
店を出たジェンガさんが、夜の難波の路地をひとり歩きはじめた。
俺は反射的に追いかけた。
「ジェンガさん!」
振り返る。
街灯のオレンジが、彼のメガネのレンズを一瞬だけ照らした。
「松下くん……やったな」
思っていたよりも低く、落ち着いた声だった。
「もう一軒行くけど、来るか?」
*
バーの名前は〈サージェント・ペパー〉。
小さなドアを開けると、ウイスキーの香りとスピーカーから流れるブルースが迎えてくれた。
カウンターには誰もいない。
どうやら本当に“行きつけ”らしい。
若手芸人で、こんな店に通うのはおそらく彼くらいだろう。
ジェンガさんはカウンター席に座ると、
細い葉巻のような煙草に火をつけて、薄く煙を吐きながら言った。
「絡繰地蔵やろ? 東京行ったときに見たことあるわ」
その一言で、心臓が少し跳ねた。
「え、知ってくれてたんですか?」
「……お前ら、まだ芸歴浅いのに、客前でよう暴れてたやん。
……ええコンビやったと思うで」
その口調には、まるで観察者のような冷静さがあった。
だが、不思議と嫌味には感じなかった。
低く、どっしりとした声、ゆっくりした間。
この人の言葉には、温度がある。
「でもな、慎太郎」
名前を呼ばれた瞬間、グラスを持つ手が止まった。
――さっきまで“松下くん”やったのに。
「お笑いっちゅうのは、“笑わせるもん”ちゃうねん」
ジェンガさんはグラスを軽く回しながら続けた。
「人は、自分で笑うねん。
芸人は、その“笑う瞬間”を設計するだけや」
その言葉に、息を呑んだ。
「……設計、ですか」
「せや。お前のネタも悪くなかった。
でも、“笑い”を起こそうとしてたやろ。
せやけど、それは芸人の仕事やない。
芸人は、“観客が笑ってしまう状況”を、何気なく置くだけでええんや」
煙草の火が、彼の横顔を照らした。
その横顔は、どこかで見た哲学者の肖像画のようだった。
「それは……“笑いを起こすこと”とは、ちゃうんですか?」
俺が、思ったことをそのまま口にすると、彼は一度こちらを見てから、もう一度グラスに目をやりながら続けた。
「全然ちゃう。俺らは“言葉の建築家”や。
音や間の隙間に、笑いを立てるんや」
俺は何も言えなかった。
よくよく考えると、意味はわからないが、そのときは妙に納得してしまった。
グラスの氷が、静かに沈む音だけが響いていた。
「……むずかしいっすね」
ようやく絞り出すように言うと、ジェンガさんは小さく笑った。
「せやから、おもろいんやろ」
ジェンガさんは、煙を吐きながら軽く笑った。
その姿が妙にサマになっていた。
彼は、誰がどう見ても格好つけている。
後輩の前だからではなく、この格好つけこそが、
高平ジェンガという男の自然体なのだろう。
俺は、そんな姿を素直に“カッコいい”と思ってしまった。
*
家に帰ると、リビングの灯りがまだついていた。
葵がパソコンの前でカタカタとキーボードを叩いている。
「ただいま。……何してんの?」
「おかえり。レポート。美大も地味に課題多いねん」
「へぇ。筆よりタイピングのほうが速そうやな」
“ターン”とエンターキーを押す音がして、葵が振り向いた。
「で、どやった? ライブ」
「……どうもこうも、散々やったで」
上着を脱ぎながら答えると、葵は少し笑って言った。
「まあ、最初はそんなもんちゃう? お兄ちゃん、おもろいから大丈夫やで」
その言葉が、妙に胸に残った。
芸人を始めた頃はランドセルを背負ってた妹に、励まされる日がくるとは思わんかった。
「……でもな、今日、おれにも先輩ができてん」
「へぇー! よかったやん。
お兄ちゃん、東京ではバンドマンとばっか遊んでたもんな」
「誰がやねん。たまたま仲良かったヤツが、バンドマンやっただけや」
葵は笑って、また画面に向き直った。
俺はその背中を見ながら、部屋に戻った。
机の上にはノートと、キャップの外れたボールペン。
ページを開いて、何となく線を引く。
“笑いとは何か”なんて考えたことはない。
けど――ネタの中でどう転んでも、
あの“生八ツ橋の女”を越えられる気がしなかった。
あの夜のあの光景。
泣きながらメイプルシロップを握りしめていた彼女。
あれがなぜおかしかったのか。
なぜ俺は、あの瞬間だけ無性に愛おしく感じたのか。
書こうとして、手が止まる。
笑いの構造を組み立てようとするたびに、
何かが嘘くさくなる。
――芸人は、“観客が笑ってしまう状況”を置くだけでええんや。
ジェンガさんの言葉が、ゆっくりと浮かんだ。
そうか。
俺が見たあの瞬間こそが、もう“ネタ”やったんや。
誰かが脚色したら台無しになる。
“結局なぜメイプルシロップを持っていたのか、わからない”それも含めておもろかったんや。
俺が見たままを、俺の言葉で届ければいい。
ペンを握り直して、一行だけ書く。
――「新宿駅の柱にもたれかかり、震えている女」
書いた瞬間、少しだけ笑ってしまった。
まだ形にもならないけど、
ようやく自分の声で、何かを話せそうな気がした。
CASE OF MATSUSHITA 〜わらいもん〜
②ジェンガ 続




