CASE OF MATSUSHITA 〜わらいもん〜 ①笑いの国
――ほとんどのことは、楽観的に考えることができる。
たとえば、クリア目前でテレビゲームのデータが消滅したとき、
もう一度最初から楽しめばいいと思える。
たとえば、誰かの心無い声に憤りを覚えたとき、
そう思える自分の感覚が、まだまともでよかったと安心できる。
“ポジティブシンキング”なんて、うさんくさい言葉じゃない。
ようは、捉え方次第だ。
幸福と不幸、希望と絶望。
その差なんて、じつは指一本分ほどしかない。
夜の新宿駅バスターミナル。
出発を告げるアナウンスと、靴音と、コーヒーの自販機の低い唸り。
ここは、誰かにとっての終着点であり、
誰かにとっての出発点でもある。
俺はベンチに腰を下ろし、大阪行きの夜行バスを待ちながら、行き交う人々を眺めていた。
スーツケースを引く青年。泣き腫らした目の女。眠そうな外国人観光客。
ひとりひとりに、それぞれの物語が見える気がした。
少し離れた柱の影に、若い女がしゃがみこんでいた。
スマートフォンを握りしめ、肩を細かく震わせている。
泣いているのか、笑っているのか――丁度、判別がつかない。
膝を抱えて顔を隠しているようにも、
画面の向こうの何かに見入っているようにも見える。
――けれど、何より気になったのは足元の瓶だった。
酒でもなければ、香水や化粧品の類でもない。
独特の丸みを帯びた形状に、茶色い液体。
そう、あれは――メイプルシロップだ。
初めは特に気にしないようにした。
――別にええやないか。そんなこともあるやろ。
メイプルシロップを足元に置いて、泣きたい夜も……
――いや、あるかい。そんな夜。
頭の中の声が、思考をあっさり遮った。
多種多様な人間が行き交う新宿駅においても、
それは見逃せない“違和感”だった。
俺は少しでも近くでその様子を確認しようと、
自動販売機で水を買うふりをして、後ろから覗き込んだ。
スマホの画面には、太極拳だか少林寺拳法だかの映像が流れていた。
――なんだ、やっぱり動画を見ていただけか。
そう思い、通りすがりに横目で見ると、
女はポロポロと涙を流していた。
――どないやねん。
最もベタな関西弁が、頭の中で響き渡った。
一つひとつの情報が、まるで噛み合わない。
真相を知る術はないが、いくつかの“ヒント”は落ちていた。
――太極拳の達人である中国人の彼氏とデート中、小籠包にメイプルシロップをかけようとしたら激怒され、大喧嘩のすえ店を飛び出し、いつかの彼の美しい太極拳を眺めて、涙していた。
そんな想像を勝手に膨らませると、たまらなく笑えてきた。
答えを聞きたいところだが、もう出発の時間が近い。
現実には、すべての出来事に“オチ”があるわけじゃない。
オチのない日常にオチをつけるから、俺たちは“芸人”なんだ。
けれど、ここまでフリを与えておいて、あとは丸投げというのは、さすがに酷い。
どうにか出発までに一発、笑わせてくれないものか――
そう思いながら、俺は少し離れたベンチに戻りながら、頭を掻きむしっていた。
そのとき、背後から声がした。
「松下。お前、なにしてんだよ」
振り返ると、木場くんが立っていた。
黒いGジャンに、どこか煤けたような表情。
彼はバンドマンで、東京で出会った数少ない“戦友”だった。
「いや、ちゃうねん。女が太極拳でメイプルやねん」
「は? 意味わかんねえよ」
木場くんは鼻で笑った。
俺は笑ってごまかすように言った。
「……見送りに来てくれたんやな。ありがとう」
木場くんは肩をすくめた。
「東京から、うるせぇヤツがいなくなるんだ。バスの運転手にお礼くらい言っとかないと」
思わず吹き出した。
その軽口の奥に、どこか寂しさのようなものを感じた。
俺が東京で組んでいた漫才コンビは、先月のライブを最後に解散した。
舞台袖で相方と最後に握手を交わしたとき、拍手の音がやけに遠く聞こえた。
東京に思い残すことはもうなかった――
少なくとも、そう思っていた。
「大阪で売れたら、また戻ってこいよ」
木場くんが少し上を見ながら言う。
「木場くんも、ツアーで来るときは声かけてや」
「ツアーね……ま、行くときは言うよ」
ほんの一瞬、言葉の行き場を失う沈黙。
彼のバンドの調子が良くないのだと、空気が教えてくれた。
それでも、そこを詮索するのは野暮だと思い、俺は黙って手を差し出した。
二人の掌が、乾いた音を立ててぶつかる。
そのとき、背後から小さな声がした。
「あの……」
振り向くと、さっきの女が立っていた。
「絡繰地蔵の松下さんと、mocbaのボーカルさんですよね……?」
「……あ、はい」
なぜか、握手したままの姿勢で二人そろって答えていた。
女の目が一気に輝く。
「やっぱり! 下北のイベント、何回か行ってました! え、やばい! 本物だ!」
いきなり跳ね回るようにテンションが上がり、俺たちは目を合わせて苦笑した。
しばらくして、彼女はバッグを探り、生八ツ橋を一つ、差し出した。
「あの……もしものときに持ってたんで、よかったら」
それも、包装もない“直の”生八ツ橋だった。
俺は一瞬、思考が止まった。
――生八ツ橋が必要になる“もしものとき”って、一体いつやねん。
木場くんは呆れたように鼻で笑った。
けれど、ようやく見せた彼女の笑顔が、少しだけ嬉しくて、俺は笑って言った。
「ありがとう。これがあると無いじゃ、全然ちゃうもんな」
結局、何から何まで意味はわからなかった。
けれど、彼女の存在が、俺が東京で生きてきた証のように思えて――
バスのエンジン音が響いたとき、初めてほんの少し、胸が温かくなった。
俺は二人に手を振り、バスに乗り込んだ。
夜行便特有の、少し乾いたエアコンの風が頬を撫でる。
車内は暗く、窓際のランプだけがぼんやりと光っていた。
席に腰を下ろし、膝の上に荷物を置く。
それだけで、長い旅が始まる儀式のように思えた。
アナウンスが流れる。
「まもなく出発いたします」
声の主はやけに丁寧で、それがかえって遠く聞こえた。
窓の外では、木場くんがまだ手を挙げていた。
となりで、あの女が生八ツ橋を掲げている。
その取り合わせが妙におかしくて、思わず笑ってしまった。
バスがゆっくりと動き出す。
東京の街の光が、まるで海の底から見上げる灯のように滲んでいく。
俺はその光を目で追いながら、静かに息を吐いた。
これから向かう場所が“笑いの国”なのか、
それとも単なる“近畿地方の主要都市”なのか。
答えは、きっとこの先の俺次第だ。
そう思うと、不思議と胸の奥がすっと軽くなった。
窓の外を流れる高速の灯が、一定のリズムを刻んでいる。
バスの振動が、ゆりかごのように心地よかった。
*
目を開けると、朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。
「終点、難波です」という運転手の声で、ゆっくりと意識が浮上する。
足を踏み出すと、アスファルトの湿った匂いが鼻を刺した。
見上げると、高架の向こうに見慣れた街並みが広がっている。
十八歳まで過ごした街。
それでも、どこか知らない場所のように見えた。
俺はひとつ息を吸って、笑った。
――ここからまた、始まるんだ。
駅前の牛丼チェーンで朝食を済ませる。
店内には通勤前のサラリーマンが新聞を広げ、淡々と卵を溶いていた。
カウンター越しに流れるラジオの声が、妙に懐かしい。
“関西弁のテンポ”が、まるでリズムを持った音楽みたいに響いていた。
食後、しばらく街を歩いた。
閉まりきらないシャッターの隙間から、たこ焼きの鉄板が見える。
パチンコ屋のスピーカーからは“リニューアルオープン”の録音が延々と流れていた。
どれも、俺の原点にあった風景だ。
けれど、街の空気に混じる“笑い”の匂いが、以前よりずっと重く感じられた。
東京での十年間が、俺の感覚を少し変えてしまったのかもしれない。
事務所へ向かう。
古びた雑居ビルの三階。
扉を開けると、懐かしい顔がこちらを向いた。
「松下、久しぶりやなー!」
声の主は、社員の高橋さん。
大学ラグビー部出身で、四十手前の恰幅のいい男だ。
笑うと首の後ろの肉が波打つ。
「ピンでやんねやろ?」
「ええ。相方が、親父さんの介護せなあかんくなって。これからは一人でやりますわ」
「ああ、聞いとる……まあ、しゃあないよな」
そう言いながらも、彼の目はどこか楽しげだった。
「で、漫談か? 一人コントか? ネタは考えてんのか?」
「うーん……俺は漫才師ですよ? 一人漫才に決まってますやん」
「アホ! それを漫談ゆうねん!」
高橋さんは豪快に笑った。
その声が部屋の隅のポスターを揺らした。
俺もつられて笑った。
「とりあえず、来月から劇場出番は定期的に入れるわ。ネタ、考えときや」
「ありがとうございます!」
普通なら、駆け出しのピン芸人に定期の劇場出番なんて回ってこない。
東京のライブシーンで少し名を知られた“前歴”が、まだわずかに効いているのだろう。
だからこそ、裏切れない。
ここから先は、すべてが自分の責任だ。
――笑いを生むのも、滑るのも、俺ひとり。
漫才は“二人の呼吸”でできていた。
だがピンになった今、その呼吸を合わせる相手は、もはや観客と自分だけだ。
この孤独をどう笑いに変えるか。
それが、最初の課題だった。
ふと思い出して、口を開いた。
「――あ、芸名だけは、もう何個か考えてるんですよ」
高橋さんが顔を上げる。
「お、ええやん。けど、絡繰地蔵のときも揉めたって聞いとるけど、大丈夫か?」
「あれは、東京の社員さんとセンスが合わへんかっただけですやん」
俺は鞄から手書きのメモを取り出して、デスクの上に広げた。
「見てくださいよ、これ。どれもキャッチーです」
「……キャッチー、ね」
「まず一個目、『松下ピンクサロン』」
「ピンク……他は?」
「えーと……『松下キメ太郎』」
「……他は?」
「……ま、『松下教祖様』」
「……」
「え……と、松下キチガ――」
「――もうええ!」
高橋さんの声が、ビルの壁に反響した。
「なんでお前は、全部放送コードのギリギリを攻めてくるねん!」
彼の目は呆れながらも、どこか笑っていた。
「いや、おもろいですやん。覚えやすいし……」
高橋さんは大きくため息をついて、椅子の背にもたれた。
「ええか、松下。危ない名前で笑わせても意味ないねん。
それはお前の話芸とちゃうやろ。堂々と“松下慎太郎”として、お前のべしゃりだけで客を爆笑させてみい。それがホンマの芸人や」
その言葉に、俺は苦笑した。
理屈では分かっている。
けれど、俺にとって“笑い”はいつだって理屈の外側にあった。
下ネタでも、即興でも、スベリ芸でも――
そこに一瞬でも笑いが生まれたなら、それも“芸”だった。
「だいいち、笑えるか。そんな名前じゃ客引くどころか警察来るわ」
「……はい、すんません。考え直します。とりあえず本名でお願いします」
高橋さんは満足そうに頷いた。
「それでええ。それが、お前の原点や」
笑いの世界に戻ってきたはずなのに、
どこか「現実」という名の舞台に立たされたような気がした。
*
事務所を出て、心斎橋筋の雑踏を少し歩いた。
昼下がりの光がビルの谷間で反射して、やけにまぶしい。
行き交う人の会話の端々に、懐かしいイントネーションが混じっている。
――ああ、帰ってきたんだな。
その実感が、ゆっくりと胸に降りてきた。
大阪での住まいはまだ決まっていなかった。
とりあえず、しばらくは実家に戻ることにした。
難波から地下鉄で数駅。
劇場にも事務所にも近いし、再出発の拠点としては申し分ない。
住宅街にある、ごく普通の二階建ての家。
門扉の塗装はところどころ剥げ、ポストの赤は日焼けして薄くなっていた。
ドアを開けると、平日だからか両親の姿はなかった。
代わりに、二階から声がした。
「あ、お兄ちゃん」
絵の具のパレットを片手に、スリッパをぱたぱたと鳴らしながら階段を降りてくる。
「おう、葵。久しぶりやな」
「うん」
それだけ言って、彼女は洗面所へ向かい、筆を洗い始めた。
絵の具のにおいが、家の中にふわりと広がる。
「絵、描いとんのか?」
「うん。大学のコンクール近いねん。でも、なんか色がちゃうねんなー」
「そうか。ていうか、兄が久しぶりに帰ってきてんねんから、もうちょい感動的な再会とかないんか?」
そう言うと、葵は筆を振りながら笑った。
「だって、しょっちゅう電話してるやん。久しぶりな感じせぇへんもん」
その言葉に、俺もつられて笑った。
確かに、東京にいた頃も何かと葵には連絡を取っていた。
芸人として結果が出ないときも、ライブが滑った夜も、気づけば一番最初に愚痴を聞かせていたのはこの妹だった。
「お兄ちゃん、今度の舞台っていつ?」
「来月の四日やな。ピンになって初めてのやつ」
「そっか。がんばりや」
短い言葉だった。
けれど、その“軽さ”が、誰よりも俺を励ましていた。
せっかくだから、久しぶりに腕試しも兼ねて、
昨夜・新宿駅で出会った“生八ツ橋の女”の話をしてみた。
葵は最初こそ真剣な顔で聞いていたが、
女が生八ツ橋を掲げて夜行バスを見送るくだりで、
膝を叩きながら爆笑した。
「それでな、俺もつい“ありがとう!”って返してもうてん」
「なにそれ、最高やん!」
葵は笑いすぎて目尻に涙を溜めた。
――ああ、やっぱり俺はこの瞬間のために生きてる。
心の奥で、そう思った。
ところが、彼女は笑いながら突然、真顔になった。
「でさ、その人……なんでメイプルシロップ持ってたん?」
その一言で、頭の中が真っ白になった。
俺は思わず口ごもった。
「あ……いや、それは、わからんねん」
「え、なんでよ?」
「いや、まあ……細かいとこはええやん」
「よくないやん。そこ気になって、スッキリ笑えへんわ」
言われてみれば、確かにそうだった。
状況そのものは面白い。
だけど、肝心の“メイプルシロップ”という要素――
話の最初に登場した強烈なフックが、
結局どこにも繋がらず宙ぶらりんのまま終わってしまっていた。
笑いってのは、理屈じゃない。
けれど、理屈を越えるには、まず理屈を作らなあかん。
感情で笑わせても、構造が抜けてたら、それは“ただの勢い”で終わる。
俺は、たかがメイプルシロップひとつに負けたんや。
さすが、我が妹ながら、鋭い。
その夜、ノートを開き、端に小さく書き添えた。
――これが、笑いの国に帰ってきて、一番最初のスベりだった。
CASE OF MATSUSHITA 〜わらいもん〜
①笑いの国 続




