CASE OF HASUMI 〜もう一つの夜明け〜 ④地獄へ
蝉の声がすっかり途絶え、代わりにどこかで秋の虫が鳴いていた。
湿った空気のなかに、かすかに乾いた風が混じる。
上野の不忍池。
午後の光が水面を鈍く照らし、ボートの影がゆっくりと横切っていく。
恭子と並んで歩くのは、久しぶりだった。
ほんの少し肌寒く、古着屋で買ったばかりの、水色のトラックジャケットを羽織った。
袖口の薄汚れを指先でなぞりながら、
「こういう色、なんか落ち着くな」と、独り言みたいに呟いた。
「ボート、乗ろうよ」
恭子の声が、やわらかく背中に届いた。
僕は反射的に「うん」と答えた。
けれど、その返事には意味がなかった。
頭のなかは別の場所にいた。
年末に幕張メッセで開催される大型フェス。
あれから、プロモーターの遠藤から何度も電話が来ている。
けれど僕は、「もう少し考えさせてください」とだけ答え、返事を伸ばし続けていた。
三ヶ月間、新しいスタイルで何本もライブをこなしてきた。
手応えはあった。
離れていったファンもいれば、新しい層もついた。
確かに、表面的には前に進んでいる。
でも――どこかで、何かが欠けていた。
木場の言葉が、ふとした瞬間に頭をよぎる。
――お前の“再生”が本物かどうか、勝手に証明してみろ。
その一言が、ずっと足に絡みついていた。
僕の中にはまだ、確固たる“証明”がなかった。
あの男の嘲笑う顔が、今も目の裏で笑っている。
不意に軽く頭をはたかれた。
「ねぇ、何しにきたの?……帰る?」
「ああ、ごめん。ベビーカステラ、食べるんだよね」
「そんなこと言ってない。もういいよ」
風が少し強くなって、木の葉が一枚、池に落ちた。
波紋がいくつも広がり、やがて何もなかったように消えた。
その静けさが、やけに胸に沁みた。
池のほとりのベンチに腰を下ろすと、風が少し冷たくなっていた。
僕はポケットに手を突っ込みながら、ぽつりと呟いた。
「……俺、やっぱフェスに出るべきかな」
恭子は僕の方に顔を向け、まっすぐ覗き込むように言った。
「なんで私に聞くの? それ、あなたが決めることでしょ」
「そうだけど……」
視線を落としたまま、靴の先で小石を転がす。
「客観的に見て、今の俺たちってどうなんだろうなって思ってさ」
恭子はしばらく黙っていた。
風が木々の枝を揺らし、水面に小さな波が立った。
ようやく口を開いたとき、声は穏やかだった。
「私は鋭二くんの才能を誰よりも信じてる。
たぶん、多くの人の目に触れたら、あっという間に生活も変わると思う」
そこまで言って、一度視線を落とした。
「……でもね」
言葉の続きを探すように、少し間を置いた。
「そのとき、もしかしたら私は、もう隣にはいられないと思うと……少し怖い」
「え?」
「だって、あなただけ、どんどん遠くへ行っちゃうでしょ。
でも、それがあなたの望んでることなら、私は受け入れるよ」
風が止まった。
空の色が、少しずつ夕方の赤に変わっていく。
「でもね……」
恭子は、言葉をかみしめるように続けた。
「本当は、あなた自身がいちばん“世間に評価されること”を怖がってるんじゃないの?」
僕は息を飲んだ。
「納得いく音楽を突き詰めるって言うけど、それって逃げてるだけじゃないの?
自分が納得する前に、求められてるものを出す――それがプロでしょ?」
言い返そうとしたが、言葉が出なかった。
恭子の目に、うっすらと涙が滲んでいた。
「それに……私はずっと鋭二くんのことを隣で見てきたんだから……“客観的”なんて言葉で遠ざけないでよ!」
それだけ言うと、彼女は立ち上がり、歩き出した。
足音が落ち葉を踏むたび、心臓の奥が鈍く鳴った。
僕も立ち上がりかけたが、足が動かなかった。
そのまま再びベンチに腰を下ろした。
しばらくして、恭子が戻ってきた。
手には、二本の缶コーヒー。
「……帰ったんじゃなかったんだ」
「帰るって言ったって、家、同じじゃん」
彼女は缶のひとつを僕に差し出した。
白い息と一緒に、わずかな笑みがこぼれた。
「はい、砂糖入り。疲れてるでしょ」
その温もりが、やけに重く感じられた。
**
夜になって、僕はメンバーを呼び出した。
中山の部屋。
狭いリビングにアンプとスピーカーが並び、壁には前回のライブ写真が貼ってある。
僕は座卓の前に腰を下ろし、深呼吸をひとつ置いて言った。
「――年末のフェス、出ることにした。さっき遠藤さんに連絡した」
一瞬、空気が止まった。
それから、ドラムの金子が立ち上がるように叫んだ。
「マジか! よっしゃ、ついに来たな!」
ベースの健治も拳を握りしめる。
「最高じゃん! これで一気に名前売れるぞ!」
中山がそれを見て、呆れたように笑った。
「おいおい、うるさいって。おれん家だぞ」
そう言いながら、台所の方へ消える。
しばらくして、彼は両手にシャンパンを抱えて戻ってきた。
「安物だけど、今日のところは、まだこれでいいだろ」
「うおー!」「やったー!」
また歓声が上がる。
「だから、うるさいって言ってんだよ!」
笑い声が重なり、部屋の空気が少し温かくなった。
僕も笑った。
声を上げて。
こんなふうに、心の底から笑ったのはいつ以来だろう。
それでも、笑いの合間に、ふと不安が顔を出した。
この笑いが、いつまで続くだろうか。
この夜の光景が、いつか遠い記憶になる日が来るのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥がかすかに冷えた。
それでも僕は笑い続けた。
この瞬間を、永遠にするように。
***
気づけば二ヶ月ほどが流れ、街は冬の匂いを帯びていた。
年末フェスまで、あと二週間。
最後の調整を重ねるように、今日もライブに臨んだ。
曲は何度も手を入れた。
展開を鋭く組み直し、盛り上がる瞬間を確実に計算した。
それが、僕の望む「勝ち方」だった。
ライブは、控えめに言っても大成功だった。
最後に、僕はステージの端で笑って叫んだ。
「じゃあ、カウントダウンフェスで会おう!」
その日は久しぶりにmocbaと同じイベントに出ていて、彼らはこの日のトリで、僕らの後に控えていた。
裏手でドラムの哲太さんに肩を叩かれる。
「よかったでぇ! フェス、見に行くけぇ、頑張れや!」
岡山訛りのその言葉に、どこか地に足の着いた温度があった。
視線を上げると、木場と目が合った。
彼は表情ひとつ変えずに、何も言わずステージヘ向かっていった。
直後に爆音が鳴り響いた。
mocbaはいつもの狂気を一瞬でフロアに叩きつける。
終盤でやるはずの『SUICIDE BOOGIE』――ツービートの原動力を持つロックンロールを、一曲目にぶつけてきた。
「お前ら、スーサイドしやがれ!」
木場の叫びがフロアを裂く。
瞬間、客は一斉に渦を作り、フロアはもみくちゃのカオスに変わった。
彼らの音は、計算でも教養でもない。
身体に直接作用する狂気だった。
その夜の帰り道、入り口の外で呼び止められた。
「おい、年末フェス野郎」
振り返ると、木場が冷たい目でこちらを見ている。
「だせぇライブしたら、一生笑ってやるからな」
言い方は挑発的だが、その言葉の端に僅かな期待を感じた。
僕は咄嗟に笑って返した。
「お前も早くフェス出ろよ。大爆笑してやるよ」
木場はすぐに顔をしかめ、毒のある調子で返す。
「うるせぇ、死んでこい」
彼はいつもの皮肉を浮かべて去っていった。
後ろ姿を見送ると、胸にぽっかり穴が空いたよう
な気がした。
――木場元児。
この世界で僕が唯一、強烈な嫉妬と、強烈な怒りを覚えた男。
彼の存在がなければ、僕はここまで音を研ぎ澄ませることも、自分を疑い抜くことも、できなかったかもしれない。
僕の到達点とは、彼に認めさせることなのか。
それとも、圧倒的な敗北を突きつけて、上に立つことなのか。
わからない。
けれど、たしかに言えるのは――
僕が“成功”という幻を実感するためには、
この男という現実が、どうしようもなく必要だったということだ。
それだけは、今も変わらない。
木場と言葉を交わしたのは、これが最後だった気がする。
***
夜の冷気がアスファルトの隙間を這っていた。
フェスまで、あと二日。
部屋に戻ると、灯りはついていなかった。
机の上に、見慣れた白い封筒が置かれていた。
〈今までありがとう〉
〈ずっとあなたの応援をしてきたけど、あなたにはわたしなんか見えてなかった〉
〈わたしはもう、あなたの隣にはいられないけど、鋭二くんは自分の表現を貫いてね〉
封筒の横には、三か月分の家賃の“半分”と、アパートの合鍵。
それだけが、恭子の現実的な優しさの名残のように残されていた。
紙幣の端が、部屋のわずかな風に揺れている。
僕はしばらく立ち尽くした。
何かが崩れていく音が、静かな部屋の奥で響いた気がした。
スマートフォンを掴み、彼女の番号を押す。
「電源が入っていないか、電波の届かない場所に――」
無機質な音声が、空虚に繰り返された。
泣きもしなかった。
ただ、胸の奥で何かが音を立てて剥がれ落ちていった。
ああ、そうか。これが代償か。
何かを得るためには、失うことを恐れてはいけない。
それを選んだのは、ほかでもない自分だった。
僕はギターを背負い、中山の家へ向かった。
夜の十一時を回っていた。
アパートの前に着くと、窓から淡い光が漏れていた。
チャイムを押すと、寝癖のままの中山が顔を出した。
「……悪い、ちょっと話がしたい」
「どうした、こんな時間に」
「フェスのセットリストを、変えようと思って」
中山は目を細め、黙って中に通した。
部屋の奥で、シンセのインジケーターが弱く点滅している。
僕は譜面の束を広げ、順番を指でなぞった。
「一曲目、『冷たい太陽』。
二曲目、『灰色の街』。
ラストは――“REBORN”で終わらせる」
中山はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり口を開いた。
「……お前、何かあった?」
「別に。ただ、今なら“全部”鳴らせる気がするんだ」
その言葉を聞いた瞬間、中山の表情がほんのわずかに緩んだ。
彼は冷蔵庫を開け、シャンパンを一本取り出す。
「これは、フェス終わりに開けようと思ってたけど、まぁいいだろ」
栓を抜きながら、彼は笑った。
「よっしゃ。創作っていう地獄に、一緒に堕ちようぜ」
その声に、僕は笑い返した。
笑いながら、胸の奥で何かが確かに崩れていくのを感じていた。
でも、それは恐怖ではなかった。
むしろ、赦しに近い静けさだった。
*
フェス当日。
ステージ裏の空気は、焦げた鉄と汗の匂いが混ざっていた。
僕らは全員楽器を抱え、円陣を組む。
手のひらに汗が滲む。
「いくぞ」
中山が短く言った。
「ここから始まるんだよ。俺たちの時代が」
その瞬間、世界が光に飲まれた。
歓声が押し寄せ、音が、僕の中で爆ぜた。
すべてが、白く――
ぷつり、と音が途切れた。
*
――どれほど時間が経っただろう。
瞼の裏に、まだ照明の残光が焼きついている。
観客の歓声も、ギターの残響も、遠くへ遠くへ流れていく。
白い光。静寂。
あの夜の音たちが、ひとつずつ、音の粒になって空気に溶けていく。
僕はベッドの上にいた。
天井の白が、ゆるやかに揺れている。
世界の境目が、まだぼやけている。
――なぜ、今さらあの日々を思い出していたのだろうか。
遠い昔の話。木場の声。恭子の笑顔。中山の笑い声。
そして、あのフェスの夜の唸り。
全部、この薄暗い病室で、もう一度、最初から辿っていた。
――なるほど。本当にここが俺の終わりなのか。
そんな考えが浮かんだとき、ドアをノックする音がした。
看護師かと思った。けれど、聞き慣れた声が続いた。
「なんだ、起きてたのか」
中山だった。
彼は手にコンビニの袋を提げて、少し息を切らしていた。
「……中山」
声を出した瞬間、喉が乾いてひび割れた。
「俺、死ぬ?」
中山は一瞬だけ目を見開き、それから呆れたように笑った。
「馬鹿か。ただの迷走神経なんちゃらってヤツだよ。アドレナリン出過ぎたんだろ」
僕も、わずかに笑った。
安心したのかどうか、自分でもわからない。
少し間をおいて、僕は続けた。
「……なあ、中山。mocbaって覚えてる?」
「モクバ? ああ、もちろん」
「この前、平田……いや、payterrのライブでさ……多分だけど、木場を見たんだよ」
「へえ、本人だったのか?」
「いや、わからない。けど、気配はあった」
中山は頬をかいた。
「木場って、今なにしてんの?」
「知らないけど、バンドはやってないみたいだよ。哲太くんがそんなこと言ってた」
僕は静かに息を吐いた。
mocbaが解散したことは、ずっと前に聞いていた。
それも――おそらく、原因を作ったのは自分だ。
そして、自分で出した話題を、自分で終わらせるように言った。
「なあ、中山」
「ん?」
「まだ辿り着いてねぇよな。俺たちの“地獄”」
中山は一瞬だけ黙って、それから柔らかく笑った。
「お前といれば、どこでも地獄だし、どこでも天国だよ」
ふたりの笑い声が、夜の病室に淡く響いた。
その笑いの余韻が、どこかでゆっくり音楽に変わっていく気がした。
やがて、他のメンバーが病室に入ってきた。
誰も何も言わないまま、ただ笑っていた。
まだ、やれる。
到達点はここじゃない。
――ここが、ようやく始まりなんだ。
夜明けのモクバー外伝ー
CASE OF HASUMI 〜もう一つの夜明け〜 完




