CASE OF HASUMI 〜もう一つの夜明け〜 ③無意味な音
あの冬の夜から、一年半が過ぎていた。
季節は夏。
街は陽炎に包まれ、アスファルトの照り返しが窓の向こうで揺れている。
テレビでは、夏フェスの生中継が流れていた。
去年、僕が立っているはずだったステージだ。
スモークの向こうで、ギターの残響が風に滲む。
照明の光が観客を照らし、波のように手が揺れている。
その光景は、まるで夢の中の映像のようだった。
テーブルの上には、食べかけのカップ麺。
アンプのランプはまだ赤く光り、ギターはソファに斜めに倒れている。
部屋の空気は、昨夜のまま止まっていた。
去年、僕は最高傑作を引っさげてオーディションに挑んだ。
それでも落選した。
結果は「一次審査落ち」という無機質なメール一通。
そして今年――あの曲を超えるものが作れず、エントリーすらしなかった。
恭子はキッチンで麦茶を注いでいた。
「ねえ、もうテレビ消したら?」
「……うん」
返事をしただけで、リモコンには手を伸ばさなかった。
「来年は、出られるよ」
恭子は、いつものように穏やかな声で言った。
彼女が本気でそう思っていることは分かっていた。
それでも、胸の奥で何かが軋んだ。
テレビの中では、MCが叫んでいた。
「さあ、次は今年最大の注目バンドです!」
観客の歓声が一気に膨らむ。
そのバンドの名前を聞いた瞬間、胸の奥がざらりとした。
彼らは、かつて同じライブハウスに立っていた仲間だった。
この世界は、あまりにも移り変わりが早い。
つい一年前まで僕らを“最注目バンド”と呼んでいた雑誌は、今ではそのページを新しい名前で埋めている。
僕の時間だけが、置き去りになったようだった。
音楽は、僕のすべてだった。
仕事も、人付き合いも、睡眠も削って、音だけを追ってきた。
それでも、結果は出なかった。
努力が報われる保証なんて、最初からなかった。
けれど――
あの冬の夜、中山と二人で見つけた“音の光”が、
まだどこかで僕を導いてくれる気がしていた。
「ねえ、今日ライブでしょ?」
恭子の声が背中から届いた。
「……ああ」
「もうリハ始まるんじゃないの?」
僕は少し間を置いて答えた。
「ただのブッキングライブだよ。そんなもんに本気出したって、何の意味もないんだ」
その言葉に、恭子はゆっくりと顔を上げた。
「なに言ってんの?」
声が少し震えていた。
「小さいライブハウスでも、あなたの音を待ってる人がいるんだよ」
「……」
「目の前の人の心を動かせない人が、世界なんて変えられるわけないじゃない!」
彼女の声が部屋の空気を震わせた。
その言葉の正しさが、何よりも痛かった。
僕は立ち上がり、ギターケースを手に取った。
視界の端で、恭子が小さく肩を落とした。
その横顔の輪郭が、夏の光に溶けていく。
外に出ると、熱気が肺を焦がした。
フェスのステージの残響が、まだ耳の奥に残っていた。
その音が、僕を生かしているのか、壊しているのか――
それすらも、もう分からなかった。
*
ライブハウスのドアを開けると、mocbaのリハーサルが始まっていた。
分厚いギターの音が、湿った空気を切り裂く。
相変わらず、骨太で無骨なロックンロールだ。
音響スタッフが声を上げた。
「アンプ、もう少し下げてもらえます?」
木場はしかめ面を浮かべて、アンプのつまみに手を伸ばす。
ただ、おそらく触っているだけで、実際には下げていない。
たとえ下げたとしても、本番ではまた上げるだろう。
その不器用な誠実さに、僕は思わず笑ってしまった。
リハ、顔合わせ。
いつもの流れを終え、楽屋のソファに腰を下ろしたとき、
mocbaのギタリスト――陽介くんが声をかけてきた。
「蓮見くん、そのテレキャス、ヴィンテージだよね? いつ買ったの?」
彼は木場とは対照的に、柔らかい笑みを浮かべていた。
「ああ、六八年製。先月、鬼ローンで買ったんだ」
「えー、いいな! 後でちょっと弾かせてもらってもいい?」
「全然いいよ。いいギタリストに触られると、ギターも嬉しいから」
その瞬間、横から低い声が落ちた。
「高ぇギター使えば、いい音楽ができるわけじゃねぇだろ」
ボロボロのジャズマスターをチューニングしながら、木場がぼそりと呟いた。
その顔には、いつものように僅かな苛立ちと、奇妙な優しさが混じっていた。
「そうだな。けど、お前はメンテくらいした方がいいぞ」
僕がそう返すと、木場は鼻で笑い、再び弦を弾いた。
音が、乾いた空気を裂いて響いた。
*
ステージが始まる。
僕らの前に登場したmocbaは、相変わらず圧倒的だった。
破壊衝動と呼ぶしかない音が、五十人の観客を一気に呑み込んでいく。
照明の赤が木場の顔を焼き、ドラムが鉄のように唸った。
僕は袖からその光景を見ていた。
――美しかった。
破滅すれすれの、完璧なロックだった。
「お、次はいよいよ注目株の出番だな」
楽屋へ戻る途中、ライブを終えた木場が、皮肉っぽく笑いながら言った。
僕は軽く会釈してやり過ごした。
僕らの出番になると、客が少し増えていた。
ブッキングライブでは、自分たちのファン以外の観客が立ち去ることも珍しくない。
けれどこの夜は違った。
誰も動かない。
僕らはこの日、思い切った実験をした。
ギターはコードを鳴らさず、断片的なメロディを散りばめるだけにした。
シンセサイザーは旋律を捨て、残響や効果音のような音を放つ。
コード感とノイズ感をベースに集約させ、静寂の中から爆発を生み出す――
そんな構築的で、即興のようなライブを目指した。
演奏が始まると、最前列の客が一瞬、戸惑ったような顔をした。
けれど、すぐにその表情が変わっていくのが分かった。
“爆音”を求めて来たmocbaのファンらしき連中すら、頭を振り、叫び、拳を突き上げていた。
――これだ。
爆音でも、衝動でもない。
音そのものが、呼吸するように人間の体を動かしている。
僕はギターを抱えながら、確かにその“感覚”を感じていた。
ここ数年、ずっと探していた“光”が、
ようやく掌の中に戻ってきた気がした。
ライブが終わると、最初に声をかけてきたのはmocbaのベーシスト、平田だった。
「蓮見さん、今日の音……マジでヤバかったっす! マイク・パットンかと思いましたよ」
息を弾ませながら笑うその顔を見て、僕も思わず笑った。
彼は人懐っこくて、音楽の話をするときだけ、少年みたいな目をする。
ジャンルの垣根なんて関係なく、どんな音にも耳を傾ける人間だ。
音楽の話に関しては、間違いなく僕が一番話せる相手だった。
「ありがとう。結構思い切った実験だったんだ」
「いや、あれは実験っていうより……もう“発明”っすよ」
彼の笑顔が、純粋すぎて眩しかった。
ふと視線を奥にやると、木場がソファの背にもたれ、ニヤニヤとこちらを見ていた。
どうせ何か一言、毒を吐くつもりだろう。
そう思って目を逸らし、その場を離れた。
フロアには、もうほとんど客が残っていなかった。
照明は落とされ、床にはケーブルと紙コップが散らばっている。
汗とスモークが混じった空気の中に、少しだけ機材の焦げた匂いが残っていた。
そのとき、スーツ姿の男がステージ脇に立っていた。
周囲の喧騒から切り離されたような静けさをまとっている。
白いシャツに黒いパスケース――ライブハウスでは少し場違いに見えた。
僕と目が合うと、男はすぐに歩み寄ってきた。
「蓮見くんだよね?」
落ち着いた声だった。
「君たちの音、すごくいいね」
そう言って差し出された名刺には、
〈Junction Records/アーティスト・プロモーション部 遠藤太一〉
と印字されていた。
「もしよかったら、年末のフェスの新人枠に出てみない?」
「……フェスの?」
「まだ一枠だけ空いてるんだ」
彼の声は、照明が完全に落ちたフロアに、やけに穏やかに響いた。
静寂の中でその言葉だけが、まるで残響のように耳の奥に残った。
まるで、長い夏の終わりに突然訪れた夕立の音みたいに――。
**
打ち上げに向かう道すがら、僕は先ほど声をかけてきた男――フェスのプロモーターの話を中山に伝えた。
中山は目を丸くし、すぐに声を弾ませた。
「マジか! それ、チャンスじゃん!」
彼の興奮を横目に、僕は曖昧に頷いた。
あんなにも出たかったフェス。
それなのに、今は喜びよりも、戸惑いの方が大きかった。
今日のライブで掴みかけた新しい表現――
それがまだ“途中”だと、誰よりも僕自身が分かっていた。
未成熟なまま世に出れば、一瞬の話題にはなる。
でも、きっとすぐに消費されて終わる。
僕が求めているのは、爆発ではなく、永続だ。
「そうだな……少し考えようか」
とだけ言うと、中山は不思議そうな顔をして黙った。
**
打ち上げ会場は、いつもの居酒屋だった。
ビールと焼き鳥の匂いが入り混じり、天井近くに熱気がこもっている。
今日の出演者やスタッフが長テーブルを囲み、笑い声を上げていた。
その一角で、木場がすでに瓶ビールをラッパ飲みしていた。
乾杯も始まっていないのに、ひとりで出来上がっている。
僕は気づけばその隣に腰を下ろしていた。
理由は分からない。
ただ――今日の僕らのライブを、彼がどう思ったのか。
その答えを無意識に求めていたのかもしれない。
木場は僕を一瞥し、ぽつりと言った。
「たこわさ、食える?」
「え?」
「たこわさ」
皿の上には、わさび色の汁に沈んだ白いタコ。
なんの脈絡もない一言だった。
けれど、なぜだか胸の奥がざらついた。
僕は勝手に想像していた。
――天才はたこわさを食べるだろうか。
“たこわさを食べられないヤツは、音楽に向いてない”
“刺激を恐れる奴に、ロックなんてできない”
そんなことを言われる気がしていた。
もちろん、そんなこと一言も言われていない。
それでも、なぜか試されている気がした。
逡巡の末、僕は少し語気を強めて言った。
「食えるよ!」
木場は驚いたように瞬きをして、
「お、おう……じゃあ、食おうぜ」
と、笑いながら箸を伸ばした。
僕はその瞬間、自分の反応があまりに過剰だったことに気づき、少し恥ずかしくなった。
**
ビールが何本も空いた頃、会話は自然と音楽の話に流れた。
木場が煙草をくわえたまま、何気なく言った。
「お前、今日“Oasis”やってたよな。《Bag It Up》だっけ?」
「うん。あの曲、ずっと好きなんだ」
「へぇ。……でも、あれラストアルバムの中でも一番皮肉な曲じゃねぇか?」
「皮肉?」
「そうだろ。《Bag It Up》って、もう終わったヤツらの歌だよ。自分たちが作ってきたロックの葬式みてぇなもんだ」
僕は首を横に振った。
「違うよ。あれは“再生”の歌だ。
Oasisがもう一度ロックを信じようとしてる。
皮肉なんかじゃない。誇りだよ」
木場は笑った。
「理屈っぽいこと言ってるけど、お前、あの曲の“音”聞いてねぇだろ。
あれは終わりを楽しんでる音なんだよ。
死ぬ前に笑ってるみてぇな音だ」
「終わりを楽しむことが悪いのか?」
僕の声が少しだけ上ずった。
「良い悪いの話はしてねぇだろ。お前の音楽はそうやって、全部に意味つけんのな」
テーブルが静かになった。
木場がビール瓶を置き、こちらを見据える。
「お前、怖ぇんだろ? 本当に“無意味な音”を鳴らすのが」
「“意味”があるから“表現”だろ。“無意味な音”なんて言葉、この世にねぇよ」
「いや、あるね。“表現”だって言うなら無理矢理“意味”なんて付ける必要ねぇんだよ。お前は頭で鳴らしてる。俺は、体で鳴らしてんだよ」
次の瞬間、肩がぶつかり、椅子が倒れた。
言葉よりも先に、体が動いていた。
木場の腕が僕の胸を押し、僕の拳が空を切る。
周囲が慌てて止めに入った。
中山が僕を後ろから引き離し、陽介くんが木場を押さえつけた。
「元児やめろよ! 他にも客いるんだぞ!」
息が荒かった。
木場は僕を睨みつけたまま、低く笑った。
「……ま、いいや。
お前の“再生”が本物かどうか、勝手に証明してみろ」
そう言い残して、彼は瓶を掴み、奥のテーブルへと歩いていった。
僕はその背中を見つめた。
あの夜以来、彼とまともに言葉を交わすことはなかった。
ただ、その言葉だけは、今も耳の奥に残っている。
――“お前の再生が本物かどうか、勝手に証明してみろ”。
CASE OF HASUMI 〜もう一つの夜明け〜
③無意味な音 続




