CASE OF HASUMI 〜もう一つの夜明け〜 ②悪魔
あの夜のライブから、二年が過ぎていた。
僕らの音は、ようやく形になり始めていた。
打ち込みとギターを組み合わせた新しいスタイルは、ライブハウス界隈で少しずつ注目され、
「今いちばん勢いのあるバンド」と呼ばれることも増えていた。
“残像テスラ”という名前は、都内のブッキング担当の口にも自然と上るようになっていた。
けれど、心のどこかではまだ、何かが欠けている気がしていた。
鳴らしているのは確かに自分の音なのに、
そこにあるはずの“衝動”が、どこか遠くに霞んでいく。
観客が増えるたびに、心の奥が少しずつ静かになっていくようだった。
その夜、僕は下北沢のライブハウスにいた。
目的は別のバンドのステージだったが、
対バンの中に“mocba”の名前を見つけて、思わず立ち止まった。
あのときの騒動から二年。
彼らもまた、メンバーチェンジや音源のリリースを経て、狭いロックシーンの中で一定の評価を得る存在になっていた。
客席には、三十人ほどの観客。
けれど、ステージが光を浴びた瞬間、その空間は一瞬で塗り替えられた。
音の粒が空気を震わせ、人々の表情がまるで“音楽に支配される”瞬間を、僕は確かに見た。
木場元児。
最初に出会ったときの印象は、最悪だった。
無愛想で、他人を遠ざけるような眼。
けれど、話すうちに、彼の中にある“芯”の強さを知った。
音楽に対する姿勢は、まるで職人のようで、
同時にどこか、壊れかけた芸術家のようでもあった。
彼は決して時代に合わせない。
むしろ、時代の方を突き放すように音を鳴らす。
その潔さが、羨ましくもあった。
僕はようやく自分の音を見つけたはずなのに、ステージの上の彼の存在感を前にすると、自分がまだどこか“安全な場所”に立っている気がした。
――表現という言葉が、人の姿をしているとしたら、
たぶん、ああいう男の形をしているのだと思った。
*
ライブが終わると、入り口の外で煙草を吸っている木場の姿が見えた。
路面のアスファルトに腰を下ろし、片膝を立て、白い煙を空へ流していた。
客出しのざわめきが遠ざかる中で、その姿だけが妙に静かだった。
「木場、おつかれ。よかったよ」
僕は背後から声をかけた。
彼はゆっくりと振り返り、口の端を上げた。
「お、今いちばん勢いのある人じゃん」
相変わらずの皮肉だった。
けれど、そこに棘はなかった。
むしろ、もし彼が普通に“ありがとう”なんて言ったら、その方が気持ち悪かったと思う。
「今日のライブ見る限り、たぶんお前らの方が勢いあるんじゃね」
僕がそう返すと、木場は少し照れたように笑い、煙を吐いた。
そして、まるで話題を逸らすみたいに言った。
「なぁ蓮見。お前、使ってない歪み系のエフェクターある? 俺の壊れちまってさ」
「ああ、ディストーションならあるよ。もう使ってないやつ……貸すよ」
「くれはしねぇんだな」
互いに顔を見合わせ、ふっと笑った。
夜風が灰を攫い、街の音が少し遠くに聞こえた。
僕と木場の関係は、会えば会話をして、
機材の貸し借りくらいはできる――その程度の距離だ。
四方八方に敵を作る彼にとって、自分が“敵ではない”と思われていることが、なぜか嬉しかった。
そして、その嬉しさを自覚してしまう自分が、少しだけ情けなかった。
「木場くん、今日もおもろかったでぇ!」
別の友人が近づいてきたところで、僕は軽く手をあげ、その場を後にした。
**
下北沢から二駅先のアパートに帰ると、部屋の灯りがついていた。
扉を開けた瞬間、古びたポットからお湯の沸く音が聞こえた。
「おかえり」
リビングのソファには、恭子が座っていた。
ゆるいシャツの袖をまくり、ノートパソコンの画面に指先で文字を打ち込んでいる。
「今日もライブ見に行ってたの?」
「うん。人のライブを見るのもバンド活動の一環だから」
本当にそう思っていた。
友達のライブで横のつながりを作ったり、スタッフとの雑談で情報を拾ったり。
そうやって少しずつ名前を広げていくことが、この世界では何よりも重要だった。
「……あ、mocba出てたよ」
「またその人たち?」
「うん。たまたまだけど」
恭子は小さく笑った。
「なんかさ、あなたがその人の話するとき、ちょっと楽しそうだよ」
「そう?」
「うん。中学の頃のあなたに戻ってる感じ」
僕は返事をしなかった。
コートを脱いでハンガーにかける。
部屋には、紅茶とチャンダンが混じったような匂いが漂っていた。
「ねえ、鋭二くん」
「ん?」
「最近、ちゃんと食べてる?」
「……それ、前も聞かれた。夜は一緒に食べてるじゃん」
「夜以外。ていうか、夜もあんまり食べないじゃん。音楽も大事だけど、身体が壊れたら終わりだからね」
恭子の声は、いつも穏やかだった。
けれど、その穏やかさの奥に、
小さな苛立ちが混じっているのを、僕は感じ取っていた。
「心配しないでよ。大丈夫だよ」
「うん。……でも、あんまり焦んないでね。まだまだ時間はあるじゃん」
その言葉に、どう返せばいいのか分からなかった。
二十三歳。
一般的に見れば、まだ若いのかもしれない。
けれど、それはあくまで“社会”の中での話だ。
僕が戦っているのは、“表現”という、形のない世界。
新しい表現を生み出すには、時間なんていくらあっても足りない。
悠長に構えていれば、世に認められる前に息が尽きてしまう。
一秒でも早く、自分の音を“世界”に認めさせなければならない。
黙り込む僕を、恭子は心配そうに見つめていた。
彼女は気づいていたのだろう。
僕の心が、どんどん“音楽の方”へ持っていかれることを。
それを、怖がっているのだと、僕にも分かっていた。
けれど、ここで止まるわけにはいかなかった。
何かを犠牲にしなければ、音は届かない。
そんな気がしていた。
ギターを手に取り、寝室に向かう。
夏に開催される大型フェス――そのオーディションに向けて、どうしても最高の一曲を作らなければならなかった。
ヘッドフォンをつけて、コードを探り、メロディを繋ぎ、また壊した。
気づけば一時間、二時間が過ぎていた。
どの進行も、どの音も、しっくりこない。
そもそも既存のコードで、頭の中に鳴っている音楽を再現できる気がしなかった。
自分の中で鳴っている“何か”は、もっと不安定で、形を持たない衝動のようなものだった。
ふと、背中の方で空気が揺れた。
ドアの開く気配と、柔らかな匂いが入り込んでくる。
次の瞬間、耳を覆っていたヘッドフォンがふっと持ち上げられた。
音が消え、静寂だけが残った。
「わたし……そろそろ寝たいんだけど」
その声に、僕は手を止めた。
「……あ、ごめん」
言いながらも、頭のどこかはまだリズムを刻んでいた。
立ち上がると、ポケットからスマホを取り出して番号を押す。
「あ、中山? 今から家行っていい? ちょっとアイディア浮かんだから」
電話の向こうで、シンセサイザー担当の中山が短く息を吐く気配がした。
『……今から? お前さ……まぁ、わかったよ』
すぐにギターをケースに入れ、シールドを丸める。
その背中に、恭子の声が落ちた。
「時間、考えなよ。中山くんも迷惑でしょ」
僕は聞こえていた。
けれど、答えなかった。
指先が弦の感触を離すのが怖かった。
「ねぇ、聞いてるの? 明日もバイトでしょ?」
「あ、ごめん。すぐ帰るから」
そのままケースを背負い、ドアに手をかけた。
振り返れば、彼女が小さく息を吐いたのが見えた。
それが、溜息なのか、諦めなのか、僕には分からなかった。
外に出ると、夜の空気が、まだ乾ききらない音のように肌に刺さった。
*
自転車で二十分ほど走り、中山の家に着いた。
玄関先から漏れる灯りの中で、彼はすでにパソコンを立ち上げていた。
僕は興奮気味に、浮かんだばかりの曲のイメージをまくし立てた。
彼は最初こそ呆れた顔をしていたが、やがて無言になり、鍵盤に指を置いた。
軽くメガネを押し上げ、耳で確かめながら音を探る。
一音ずつ、まるで空気の中から掬い取るように。
「……こんな感じか?」
響いた音は、不安定で、宙に浮かぶようだった。
どこか壊れかけの構造を持ちながら、それでいて美しかった。
「これだよ!」
思わず声が出た。
「この不安気なのに、不穏ではない感じ――まさにこれが欲しかったんだ!」
中山は指先を止めて、眉をひそめる。
「なるほどな。……でも、これⅣm7からのⅠmaj7ってボサノバとかの進行だぞ。お前、よくこんなの思いついたな」
「理屈は知らないけどさ、とにかくここにノイズっぽいギター入れて、韻を踏まないラップを流し込めば完璧なんだよ」
声が弾んだ。
僕の頭の中では、すでに完成形が鳴っていた。
中山は苦笑しながらも、再び鍵盤を叩いた。
彼は本物の音楽家だ。
僕の表現を、ただのロックで終わらせないためには、彼の存在が必要不可欠だった。
時計を見ると、針はすでに三時を回っていた。
それでも、眠気より興奮が勝っていた。
僕はすぐにスマホを取り出し、ドラムの冬木に電話をかけた。
「冬木! 最高の曲ができたんだ。今どこにいる?」
電話越しの声は、冷たく沈んでいた。
『曲? お前さ、今何時だと思ってんの?』
空気が一気に重くなる。
『今どこって……家に決まってんだろ。寝てたよ。馬鹿なのか?』
「あ……ごめ」
僕が言いかけると、彼の声がかぶさった。
『前から言おうと思ってたけどさ……おれ、バンド抜けるわ。もうお前の狂気にはついていけない』
ツーツーという機械音が、部屋の中に長く残った。
僕はしばらく動けずにいた。
それから、ゆっくりギターを手に取り、再びアレンジを考え始めた。
「え……冬木、やめるって言ってなかった?」
中山が驚いたように振り返った。
「うん。たった今、メンバーじゃなくなった」
「いや……何言ってんだよ。止めろよ。どうすんだよ」
「“ガンドッグ”ってバンドいるだろ? 曲はイマイチだけど、ドラマーがすげぇ良くてさ」
一瞬、空気が止まった。
「は? ……何言ってんだよ、それ」
「前から誘ってたんだ。相手も乗り気でさ。これで正式加入できるな」
中山は立ち上がった。
椅子が軋む音が、夜の静寂に響く。
「お前、何言ってんだよ? じゃあ、もともと冬木は――」
「あいつが辞めたんだからいいだろ!」
その声は、自分でも驚くほど鋭く跳ねた。
静寂が流れた。
エアコンの風が、カーテンをわずかに揺らしている音だけが聞こえる。
「お前も……嫌になったか? 俺が悪魔に見えたか?」
中山はゆっくりと頭をかいた。
マッシュルームカットの髪が、手の動きに合わせて揺れた。
「……いや」
彼は微笑んだ。
「悪魔でもなんでもいい。俺は、お前と天下取るって決めたから」
夜が明けかけていた。
カーテンの隙間から、灰色の光が差し込んでくる。
鍵盤の上にこぼれたその光が、まるで始まりの合図のように見えた。
CASE OF HASUMI 〜もう一つの夜明け〜
②悪魔 続




