CASE OF HASUMI 〜もう一つの夜明け〜 ①始まりの破片
その瞬間、僕の世界から音が消えた。
五万人の歓声が、ドア一枚隔てただけで、まるで別の惑星の出来事みたいに遠ざかっていく。
埼玉スーパーアリーナの楽屋裏は、信じられないほど静かだった。
さっきまで光に焼かれていた瞼の裏が、まだ明るい。
視界の隅に、照明の残光がじわりと滲んでいる。
十五年の歳月を費やして辿り着いたこの場所は、果たして「到達点」だったのか。
それとも、長い助走の果てに現れた“最初の一歩”だったのか。
いずれにせよ、胸の奥には達成感よりも、焦燥に近いざらついた感覚が残っていた。
ギターを握っていた右手が痙攣する。
膝が折れる。
床の冷たさが頬に伝わったとき、
メンバーやスタッフの声が遠くで弾けた。
「蓮見さん!」
「鋭二! おい、どうした!」
最後に見たのは、まだ白く光るステージの入口だった。
そこから漏れる残響が、夢のように聞こえた。
*
目を開けたとき、白い天井が揺れていた。
最初の一秒だけ、まだ照明の下にいるのかと思った。
――ライブの続きだ。
そう錯覚した瞬間、胸の奥で何かが笑った。
つい「知らない天井だ」と言ってみたくなったが、
喉にはマスク、声を出す体力もなかった。
代わりに機材の電子音が、規則正しくリズムを刻んでいた。
まるで、心臓がメトロノームのテンポを確認しているみたいに。
消毒液の匂いが、スモークと混ざって蘇る。
白い部屋は、照明の落ちたステージのように静かだ。
――ここが俺の終わりなのか。
そんな考えが一瞬、頭をかすめた。
けれど、すぐに別の声が囁く。
そもそも俺の“始まり”は、いつだっただろうか。
音楽を始めた日?
初めてステージに立った夜?
あるいは、あの喧嘩の夜かもしれない。
思い返すたび、始まりと終わりの境界は少しずつ滲んでいく。
僕にとって“夜明け”とは、いつも形を変えて訪れるものだった。
大きなものを手に入れるたび、等価交換のように、相応の何かを失ってきた。
そう思えば、この結末は、最も辻褄が合っているのかもしれない。
――そう思いながら、静かに目を閉じた。
次に浮かんだのは、あの日の光景だった。
**
夕暮れ時の下北沢。
駅前のファストフードには、放課後の学生と、ギターケースを背負ったバンドマンが入り混じっていた。
僕は、奥の隅の席でノートを開いていた。
書きかけの歌詞が、テーブルの上に散らばっている。
「声」「残響」「曇天」――
どれも、どこかで聞いたような言葉ばかり。
ペンを持つ手が止まる。
外の雑踏のリズムが、心臓の鼓動と重なって息苦しい。
店内のスピーカーからは、流行りのポップスが流れていた。
整いすぎた音。綺麗すぎるサビ。
でも、それを聴いている自分の中にも、同じ“整ったもの”への憧れがあることを、否定できなかった。
スマホが震えた。
〈顔合わせ、そろそろ始まるぞ〉
ドラムの冬木からだ。
〈すぐ戻るよ〉
そう打ち込んで、冷めたコーヒーを飲み干す。
苦味が喉を通るたび、何かが遠ざかっていく気がした。
外に出ると、冬の風が強かった。
リハーサルの合間。
この何でもない時間の中に、たぶん“始まり”の種が落ちていたのだと、今なら思う。
ライブハウスに戻ると、フロアにはいつもの光景が広がっていた。
スタッフと出演バンドが円を描くように立ち、
店長が「今日はよろしくお願いします」と頭を下げる。
この“顔合わせ”という儀式は、どこの箱にもある。
形式的で、誰も得をしない時間。
それでも、これをやらないと始まらないのが、この世界の習わしだった。
「じゃあ、一バンド目、“ガンドッグ”お願いします」
リーダー風の男が一歩前に出て、声を張り上げる。
「ガンドッグです! エコポイントも終わったんで、うちのバンドもポイント上げていきましょう!」
フロアに乾いた笑いが散る。
こうして時事ネタを混ぜて“場を和ませる”のが、この顔合わせの定石だ。
僕はこの空気が、いつも少しだけ苦手だった。
やがて僕らの番が回ってくる。
「四バンド目、“残像テスラ”です。今日はいい夜にしましょう」
それだけ言って一歩下がった。
無愛想すぎる挨拶も、それはそれで“イタい世界観アピール”と受け取られる。
けれど、冗談を言えば言ったで、
自分の音楽まで軽く見られそうで、どちらも正解に思えなかった。
だから僕は、無難で当たり障りのない言葉を選んだ。
誰の記憶にも残らない言葉。
安全圏の言葉。
「最後、“mocba”お願いします」
一人の男が前に出た。
ポケットに片手を突っ込み、タバコに火をつけたまま、軽く会釈――いや、“首が少し動いた”程度だった。
そのまま何も言わず、しばらく黙り込む。
沈黙が落ちた。
誰もが「え、何も言わないの?」という顔で様子をうかがう。
店長が苦笑いを浮かべかけた、その瞬間――
「……え、何待ち? 別になんもないっすよ」
その場の空気が一瞬で変わった。
誰も笑わなかった。
けれど、なぜか誰も目をそらせなかった。
彼の吐く煙が、照明の光に細く滲んでいた。
それが、言葉よりも雄弁に“反抗”を語っていた。
驚くほど愛想の欠片もない一言。
だが、その声には、どこか耳に残る温度があった。
あらかじめ熱を帯びた言葉ではなく、
タバコの先から偶然こぼれた火のような響き。
僕は、少し不快だった。
その感情の正体を、咄嗟に言葉にできなかった。
苛立ちというより、あの男の無造作な一言に、何かを突きつけられたような感覚だった。
敵意を隠そうともしないその態度。
あれで大したライブをやらなければ、笑い者になるのは目に見えている。
それでも構わないということなのか。
あるいは――それだけ、自分の音を信じているということか。
いや、自信なら僕にだってある。
けれど、僕の自信はどこか“計算”の上に成り立っている。
彼のように、何かを賭けるための自信じゃない。
そのとき、ふと気づいた。
僕が顔合わせで“無難な挨拶”を選んでいたのは、
知らず知らずのうちに、自分の音楽にも保険をかけていたからなのかもしれない。
「失敗したときのために、今のうち味方を作っておこう」
そんな逃げ道を、あらかじめ自分の中に用意していたのだ。
僕はその男の姿をしばらく見つめていた。
火のついたタバコを指で転がしながら、彼はふとこちらを見て、小さく言った。
「……なに?」
「いや、別に」
それだけのやりとりだった。
――それが、木場元児との最初の出会いだった。
*
開演の時刻を過ぎても、客の入りはまばらだった。
いつもの光景だ。出演者を合わせても、フロアに三十人ほど。
純粋な観客は十人に満たない。そのほとんどが、どこかのバンドの友人か恋人。
どれだけ自分の音楽に向き合ったところで、現実はこの程度。
そう思うと、さっきまでファストフードで歌詞を考えていた自分の姿が、途端に滑稽に思えてきた。
照明が落ち、フロアが暗転する。
一組目のバンドがステージに上がった。
ガラガラの客席に向かって、彼らはまるでフェスのヘッドライナーのように拳を突き上げている。
「お前ら、今日は思いっきり暴れていけよ!」
その声が空回りしながら、壁に反響して戻ってくる。
――滑稽だ。
けれど、それがバンドという生き物の正しい姿なのだと思う。
ロックスターを“演じきれない”人間に、その先はない。
彼らは、まだ見ぬ未来の観客に向かって歌っている。
その必死さを、僕は否定できなかった。
演奏は荒く、曲も粗雑で、完成度なんて言葉からは程遠い。
それでも、同じ場所で足掻く彼らに、僕は奇妙な同志のような感情を覚えていた。
数曲が終わり、MCに入る。
「えー、今日はね、新曲持ってきました!」
ステージのボーカルが言う。
もちろん、観客の誰も、どれが新曲でどれが既存曲かなんて知らない。
初めて見る者にとっては、全部“新曲”だ。
それでもその言葉を聞けば、僕らは拍手をする。
それが礼儀だからだ。
――そのとき、フロアの後方から声が飛んだ。
「知らねぇよ。そもそもどれが定番曲か」
低く、よく通る声だった。
さっきの“mocba”というバンドの男。
ビール瓶を片手に、カウンターにもたれながら笑っている。
煙草の火が、赤く点滅して見えた。
場が、一瞬で凍りついた。
演奏していたバンドのメンバーも、マイクの前で苦笑いを浮かべている。
スタッフが動く気配はない。誰もがその沈黙をどう処理すればいいのか分からなかった。
――どれが新曲かなんて知らない。
誰もが心の中で思っていること。
だが、それを口に出す人間はいない。
少なくとも、“同じ出演者”が言っていい言葉ではない。
僕は驚きと苛立ちの入り混じった感情のまま、気づけばその男に向かって歩き出していた。
「おい。あんたさ、いくらなんでも――」
言いかけた瞬間、背後から店長の声が飛んだ。
「おい木場! またお前か!」
男の襟首を掴むと、そのまま外の通路へ引きずり出す。
ドアが勢いよく閉まる音がした。
フロアの空気が、一瞬だけ軽くなったような気がした。
けれど、その音の余韻はどこか重く、
この夜の行方を、静かに決定づけているようにも思えた。
バンドは、何事もなかったかのように“新曲”を演奏し始めた。
さっきまでの曲と、どこが違うのかはわからない。
それでも彼らは、まっすぐに鳴らし続けていた。
まるで、何かを埋め合わせるように。
そのあとも、ステージは淡々と続いていく。
二組目、三組目。
音の粒が、地下の湿った空気に混ざっては消えていった。
ふと、楽屋の方で動く気配がした。
“mocba”のメンバーたちが荷物をまとめて出てくる。
フェンダーのケースを背負った優しげな青年が、すれ違いざまに小さく頭を下げた。
「迷惑かけちゃってすみません。今日は帰ります」
そのままドアが開き、冷たい外気がフロアに流れ込む。
なるほど。おそらく、出演を取り消されたのだろう。
僕は「そりゃそうだ」と思った。
けれど、胸のどこかで、ほんの少しだけ羨ましかった。
ルールを破ってでも、自分の衝動に従える人間。
そういう“無軌道さ”に、僕はずっと惹かれてきた。
昔の海外のロックスターたち――
ホテルを燃やし、楽屋を壊し、それでも最後には、誰よりも純粋にステージへ戻っていくような連中。
彼らのレコードは今でも僕の部屋に並んでいる。
何度聴いても、あの時代のノイズは消えない。
あの混沌の中にこそ、“音楽の原型”があった気がする。
けれど、それは過去の夢だ。
無茶な振る舞いで伝説を作る時代は、もう終わった。
少なくとも、僕は違う形で証明したい。
自分の音そのもので、世間を納得させたい。
ロックという言葉を、もう一段上の場所へ押し上げたい。
そういう意味では、ライブハウスで鳴らしている連中は、みんな同じ方向を見ている“同志”なんだ。
だからこそ、ああして世界を突き放すような彼らの在り方を、どうしても認める気にはなれなかった。
そうして、僕らの出番が回ってきた。
図らずも、この日のトリだった。
もっとも、客がほとんどいないライブで順番に意味などない。
照明が上がり、音が鳴り始めた瞬間から、観客は“観客”というより、ただの“証人”に近い存在になる。
僕らはいつも通り、五曲ほどを演奏した。
ライブハウスでの礼儀を守ってきた甲斐もあり、対バンの連中は拳を上げて盛り上げてくれていた。
僕もそれに応えるように、
ギターをかき鳴らし、噛みつくように歌った。
けれど、どこか乾いていた。
指先の感触が遠く、音が自分の外側で鳴っているような気がした。
ステージの光の中に、あの“木場”という男の姿がちらついて離れない。
ライブが終わると、「清算」の時間がやってくる。
これも、どこのライブハウスにもある儀式のようなものだ。
チケット代の計算、スタッフの講評。
だいたいは赤字で、だいたいは似たような言葉をもらう。
髭を三つ編みにしたブッキングマネージャーが言った。
「曲はいいんだけど、やっぱ普通。どこにでもあるガレージロックだよね。
もう少し個性、出してもいいと思うよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕は彼の髭を引っ張ってやりたい衝動に駆られた。
けれど、堪えた。
彼の言葉は的を射ていたし、その“的中”こそが、いちばん痛かった。
僕は分かっている。
今の僕らの音楽には、独自性なんてない。
けれど、それでも好きなのだ。
レコードから始まり、CD、配信、ライブ。
どんな形でも、ロックというものが鳴っていれば、それだけで心が震えた。
聴くことと、作ることは違う。
その違いを痛感するたびに、僕は焦り、何かを探していた。
帰り道。
打ち上げにも行かず、機材車のエンジン音だけが響く道で、
僕は前を歩くメンバーに声をかけた。
「なあ、前から言おうと思ってたんだけどさ」
振り返ったメンバーが、怪訝そうな顔をする。
僕は少しだけ間を置いて言った。
「……シンセ、入れてみない?」
そのとき、自分の中で、何かが静かに切り替わった気がした。
“好きな音”の延長ではなく、
“次の音”を探す覚悟。
あの夜の乾いたアンプの残響が、
僕の中でようやく、別のリズムに変わり始めていた。
CASE OF HASUMI 〜もう一つの夜明け〜 ①始まりの破片 続




