後編
今日も教会に行き祈りを捧げる。
どうか無事に夫が帰ってきますように。
夫が行商の旅に出たその日から、毎日こうして祈りを捧げてきた。
気が付けばある程度の日数が経っていた。
「そろそろ、帰ってくるかしら」
夫が出かける前にしていた想定ではそろそろ帰ってきても良い頃合いになっていた。
今回の行商の目的地は遠い。
それも元々予定していたわけではなく、急遽決めた行商だった。
その目的は商いの他に、一つの署名を貰うため。
その一つの署名が夫の友人の命を救う。
夫はその友人を救う使命感に駆られて、大急ぎで旅立った。
私はそこに口出しする暇も無かった。
心の中の本音を言えば、そこに使命感を感じてほしくなかった。今回の行商も行わないでほしかった。
私は直接、夫の友人を知っているわけでは無い。ただ夫の話で聞いていただけの存在。
その人が悪さをして捕まった。そして処刑という判決が下った。
その人に思い入れが全くない私にとっては、その人は犯罪者でしかない。凶悪な犯罪者であれば、処刑されるのも仕方ないだろう。
しかし夫はそんな犯罪者の言葉を信じて、その言葉が真実である裏付けを取る為に、遠くまで出かけた。
最近ではあまり治安が良くなくなったという、悪い噂も流れている。
夫を止める事が出来なかった私に出来るのは、こうして祈る事だけだった。
家に戻り、家事をしていると玄関の扉が叩かれる。
夫であればノックはしないだろう。
そんな事を考えながら扉を開ける。
そこには国の兵士が二人立っていた。
その形相に少し驚いていると、兵士の一人が口を開いた。
「失礼。あなたの旦那さんは帰ってきているか」
「いえ、まだ行商の旅から帰ってきておりません」
「その行商に一つの目的が有る事は、知っているか」
「ええ。書類に嘘偽りが無い事を確認してもらって署名をもらってくる。そういった内容だと聞かされています」
「その通り。そしてその署名が有れば一人の囚人が無罪となる」
「・・・そう聞いておりますが、それで、今日はどういったご用件で」
「あなたの旦那さんは出発前に私たちにいつまでに戻るという約束をしていった。我々としてもいつまでも待ち続けるわけにはいかないからな。
そして、その期限が過ぎた」
とっさに夫を擁護した。
「これだけの長距離の行商です。それだけ何かしら事件事故に巻き込まれる可能性も有ります。行程次第では天候によって足止めされるかもしれません。若干の遅れはいつもの事です」
兵士は目を光らせて反論してきた。
「そうかもしれない。だが、私の上官は別の可能性を考えている。
そもそもあの囚人の与太話を信じたあんたの旦那が出しゃばってきて、これだけ待たされる事になった。
私も私の上官も、あの囚人の与太話を信じてはいない。あんたの旦那もあれだけ遠い田舎まで行って、その事実に直面したのだろう。
あんたの旦那は署名も貰えず、かと言ってそのまま帰ってくる事も出来ず、どこかで無為に時間を無駄にしているのでは。
それが私の上官が予想している現状だ」
私はその言葉に怒りを覚え、激しく反論した。
「あの人がそんな事をするわけないでしょう。
あの人は誠実な人です。もし仮にあなた方が言うように署名が貰えなかったとしても、ちゃんと帰ってきます。
帰ってきて、その上で別の方法を考えるでしょう。
あの人はそういう人です。そこいらにいる適当な人と一緒にしないでください」
私の反論を眉毛を少し動かしただけで受け止めると、兵士は一つの提案をしてきた。
「わかりました。いえ、私は一つの可能性を話しただけです。
ですが、このまま期限が過ぎた状態でいつまで待てば良いでしょうか。何かしらの指針を示していただきたい」
過去の数えきれない程の夫の行商の旅を思い返す。それらからあとどの程度待てば帰ってくるかを考えた。
「一週間。あと一週間だけ猶予を下さい。そうすればきっとあの人は帰ってきますから」
その言葉を聞き出すと、兵士達の雰囲気が変わった。
「わかりました。ではそのように私の上官に伝えましょう。
ですが、もし一週間待ってもあなたの旦那さんが戻られない場合は処刑は執行されるとお考え下さい。
これ以上の延長は出来かねますので」
「大丈夫です。きっと帰ってきてくれます」
兵士達はそのまま立ち去った。
次の日以降、今まで以上に強く夫の無事な帰りを祈った。
そして、指折り日数を数えた。
その頃には夫の友人の事よりも、夫の事が心配で仕方なった。
結局、一週間たっても夫は帰ってこなかった。
遅れるとしても遅すぎる。本当に何かに巻き込まれてしまったのだろうか。
きっと処刑場では処刑が執行されているのだろう。
しかし、私は見に行こうとも思わなかった。
正直、もう夫の友人の事はどうでもよいと思っていた。
ただ夫の事が心配でしかなかった。
一日中を上の空で過ごし、あっという間に翌日になった。
不意に夫が帰ってきた。
私は熱烈に喜びを伝え、夫の無事の帰還を神に感謝した。
夫は荷物を降しながら、応えてくれた。
「心配をかけてすまない。予想外の事が起こって一文無しになってしまってな、帰りの旅費を何とか工面していたらこんなに遅くなってしまった」
「いいのよ。あなたが無事に帰ってきてくれたのが一番嬉しい事なんだから」
「ゆっくりしたい所だが、まずはこの書類を届けてこなければ」
「じゃあ署名を貰えたの」
「ああ。上手くいった。上手くいったんだ。
ではちょっと行ってくる」
それだけ言って荷物を下ろした夫は、足早に家を飛び出した。
その背中を見送りながら心に小さな針が刺さるのを感じる。
今日はすでに約束を交わした日から8日目。
あと一日、夫が早く帰ってきていれば間に合ったかもしれない。
夫はどんな顔で戻って来るだろうか。
私はこの後もたらされる事態にしっかり対応出来るように、気を引き締めなおした。
兵士の一言は私から全ての力を奪った。
私はその場に崩れ落ちた。
間に合わなかった。
私が帰路でもたついていたせいで。
あと一日早く帰れていれば。
全てが無駄になった。
あれだけの大金と、そして自らの理念を曲げてまでした行動が無駄になった。
私の行動に意味は有ったのだろうか。
誰もが嘘だと言っていたあいつの言葉を、私だけが信じて結局私も騙されて。
何か一つでも違う選択をしていたら、あいつを救う事が出来たのだろうか。
それともこれは、あいつを救うべきでは無いという、神の意志なのだろうか。
大金を失い、理念を曲げて、あいつまで失った。
私は何を間違えたのだろうか。
先ほどまでは光り輝く財宝のように見えていた書類が、何の価値も無い薄汚れたただの紙切れに見えた。
私はその紙切れを捨て、家に戻る事にした。