静かに崩れゆく日常⑧
潜入作戦の会議は、まるで薄氷の上を歩くような緊張感に包まれていた。
数時間にわたり誰もが息を詰め、何度も計画を組み直し、想定し得る最悪の事態を一つずつ潰していく。
何もせずに帰る、などという甘い選択肢は最初から存在しない。
盗賊団を殲滅する。
その一点に向けて全員の意思は揺るぎなく、そして同時に、呪術師と族長の確保は絶対条件だった。
フェンイルの子供を救うためにも、潜入前に騒ぎを起こして逃げられるわけにはいかない。
計画がどんな困難であっても、完遂しなければならないのだ。
全員が納得するまで議論は続き、ようやく会議は幕を閉じた。
ミルシャたちはそれぞれの部屋へ散っていき、残されたのはフェンイルとパティだけだった。
「……フェンイル様」
いつもは冷静沈着なパティの声に、かすかな震えが混じっていた。
その表情には、隠しきれない陰が落ちている。
「ご子息様が呪われているというのは、本当なのでしょうか」
「……確証はない。 だが、確信はある」
フェンイルの声は低く、重く、胸の奥に沈んでいくようだった。
「あの者たちを館へ連れて行ったとき、ミルシャだけではなく、そこにいた四人全員が息子の部屋を見て表情を強張らせていた。
あれは……何かを見た顔だ。 普通ではない、得体の知れない何かをな……」
パティは息を呑む。
その光景を想像しただけで、背筋に冷たいものが走った。
「それに……呪いだと指摘されて、今までの息子の異変にも説明がつく。
となれば、これが最後の希望だ。
もし違っていたとしたら、衰弱していく息子を助ける手段はもう……ない」
「……はい」
パティの返事は震え、胸の奥で何かが軋むような痛みを孕んでいた。
フェンイルは静かに立ち上がり、パティと視線を交わす。
互いに小さく頷き合うと、決意を胸に準備のため部屋を後にした。
翌朝――
万全の支度を整えたミルシャたちは、フェンイルの指示に従い、迎えの馬車でラングレイ領の北門へ向かっていた。
盗賊の村へ向かう荷馬車は、いつもフェンイル邸の集荷場から出るのが常だ。
だが――
「盗賊の密偵が荷を監視している可能性がある。
それに、子供に精霊使いの浄化が影響するのも避けたい」
そう判断したフェンイルは、あえて北門近くの別の集荷場へミルシャたちを招集していた。
いつも通りを装いながら、敵の目を欺くための慎重な策である。
盗賊の村へ向かうには東門から王都方面へ進み、途中で山脈へと折れる必要がある。
つまり、北門から向かう馬車は、完全にすり替え用の偽装馬車だった。
荷台は布で覆われ、中身は外から一切見えない。
北門に到着したミルシャたちは、変装したフェンイルとパティと合流した。
パティは元々顔を知られていないため、簡素なフードと田舎風の服装で十分だったが、問題はフェンイルだ。
領内で彼を知らぬ者はいない有名人である。
そのフェンイルは、こげ茶に白髪が混じるかつらを被り、同色の髭までつけていた。
さらに、元々日焼けした肌に何かを塗って、焦げたような色合いを出している。
知っているミルシャたちでさえ、一瞬「誰?」と疑うほどの見事な変装だった。
呆気にとられる一同をよそに、フェンイルは馬車の仕組みを説明する。
御者席の下には、人が二人寝そべって入れる隠し空間があり、板の蓋を閉めれば外からは完全に分からない。
中には薄いながらも柔らかな絨毯が敷かれ、振動を少しでも和らげる工夫が施されていた。
とはいえ――
「……狭いな……動けねぇ……」
カイは体格が大きすぎて、ほとんど身じろぎもできない。
数時間この姿勢を保つのは、まさに苦行そのものだった。
それでも四人はなんとか潜り込み、フェンイルとパティが御者席に座る。
前の馬車にはミルシャとアイリス、後ろの馬車にはカイとルゥが隠れた。
こうして、潜入作戦が静かに幕を開けた。
まずフェンイルとパティの馬車が北門から出発し、時間差で本物の馬車が東門から出る。
そして途中で二組が合流し、馬車をすり替える――それが今回の作戦だ。
街中での入れ替えは、密偵の目がどこに潜んでいるかわからず危険すぎる。
そのため、先頭の馬車に乗るアイリスが索敵を行い、人目のない場所を探しながら進む必要があった。
ラングレイ領を離れて三十分ほど。
周囲には広大な農園が広がり始めたが、農作業をする人々が多く、アイリスの索敵にも常に複数の気配が引っかかる。
農園が続く限り、人目は絶えない。
さらに三十分が過ぎ、王都と山脈の分岐が近づくころ。
畑は途切れ、見渡す限りの荒れ地へと変わっていった。
――コンコンッ
御者席の座面が乾いた音を立てて振動する。アイリスからの合図だ。
フェンイルは手を上げ、パティに停止を促す。
周囲を見渡すが、人影はどこにもない。
「この辺りは安全なのだな」
「はい。 索敵の範囲に人の気配はありません」
「よしっ!」
板越しでもはっきり聞こえるアイリスの声には、揺るぎない自信があった。
フェンイルは小さく頷き、パティに視線で合図を送る。
パティはすぐに馬車を降り、荷台を覆う布を手際よく外していく。
フェンイルは前方を警戒しながら、わずかな物音にも耳を澄ませていた。
「……これでいいわね」
二台分の布を外し終えたパティは、布を路肩に置いて御者席へ戻る。
数分後、後発の馬車が近づいてくるのを確認したパティが合図を送った。
フェンイルは馬車をゆっくりと動かし、合流しないようにその場を離れる。
近付いてきた馬車の御者も状況を理解し、前方の馬車に近付かない様に速度を合わせ、ゆっくりと走らせ目的の物の前で停車した。
後発の二人の御者は、置かれた布を素早く拾い上げ荷台を覆うと、何事もなかったかのように走り始めた。
誰にも気づかれず、静かに――そして確実に、すり替えは成功した。
こうして、作戦の第一段階は完了したのである。
二段階目の作戦。 それは何事もなく村への第一門を突破することだった。
フェンイルの話によれば、荷台を渡し板に載せて中身を重さで確認するらしい。
朝に出発した二台の馬車は、二の鐘が鳴る九時頃に、渓谷の入り口に築かれた第一門へと到着した。
この渓谷は大陸を横断する巨大山脈の端に位置し、左右に切り立つ山々が深い谷を形作っている。
だが奥へ進むにつれ道の傾斜は勾配を変え、やがては一つの巨大な山へと姿を変えていく。
その山頂は、遠く離れた場所からでなければ決して見えない。
近くで見上げても、そこにあるのは世界の果てを思わせるような、ただただ高い壁だけだった。
ゆえに、この山脈には数多の伝承が生まれた。
遠い昔、神々が力比べのためにその高さを競った──そんなおとぎ話さえ残っているほどだ。
それほどまでに、この山脈は高く、そして険しい。
その入り口にある難解の第一門へ、二台の馬車がゆっくりと近づいていく。
「止まれ!」
鋭い声が空気を裂き、フェンイルは反射的に手綱を引いた。
第一門から小走りでこちらへ向かってくる、頬に傷を持つ門番が一人。
周囲に見える人影は数人。
「……四人か?」
「はい」
索敵を担当していたアイリスが即座に答える。
門の左右にはショートソードに手を添えた二人。
焚き火の傍には、狼煙を上げる準備をしている男が一人。
そして、こちらへ向かってくる傷の男。
完全に監視の目がこちらに向けられていた。
「食料か……」
「んだ。 注文通りに運んできただが通っていいだか?」
フェンイルは、なまりの強い農夫の口調で応じる。
その芝居は見事で、白髪混じりのかつらと髭も相まって、普段の彼の面影はない。 だが、傷の男は気を緩めない。
馬車の周囲を一周し、最後にフェンイルの顔を覗き込む。
「……いつもの運び屋と違うようだが?」
一瞬、空気が凍る――だがフェンイルは動じない。
「あんれぇ? この村さ届ける仕事は手当てがめっさいいんでな、不公平さならねぇように、組合の持ち回りで受けることにしてるんだよ。
んだから、毎回違うもんが来ているはずなんだが? 今回は俺ら夫婦の番だでな」
「……そうだったか? ……悪いな、俺の勘違いだ」
「んなら良かっただ」
傷の男は、フェンイルの反応を探るためにわざと疑いをかけていた。
だがフェンイルは既に、過去の運び屋の名簿を確認し、毎回違う人物が来ていることを把握していた。
作戦は、今のところ順調に進んでいる。
「荷も問題ないな。 通っていいぞ」
「すまねぇな」
傷の男が顎をしゃくると、フェンイルは農夫らしい素朴な笑みを浮かべて応じた。
「門の手前は土壌が緩いから板を渡してある。
馬は泥濘を越えられるが、細い車輪は無理だから外さねえようにしろよ」
「わかっただ」
前方には、わずかに凹んだ溝。 その上に幅広の板が二枚、橋のように掛けられている。 重さ確認用の渡り板だ。
男は「土壌が緩い」と言ったが、フェンイルの目には、川から引き込んだ水で意図的に柔らかくしているように見える。
もし板が折れれば車輪は泥に沈み込み、二頭立ての馬車でも抜け出すのは困難だ。
フェンイルは頬に汗が滲むのを感じながら、ゆっくりと馬を進めた。
馬が通る部分には板はないが、溝の底に何か細工があるのか脚が沈むことなく歩いていく。
慎重に車輪が板に乗り、多少しなりはしたが軋むことなく通過した。
「はぁ……落っこちねえですんだだ」
胸をなでおろすフェンイル。 演技ではあるが、内心もまったく同じだった。
「よしっ! 次、渡れ!」
パティの馬車が続く。
重さは二台で揃えてある。 先頭が通れたのなら、次も問題ない──はずだった。
――ギギギギ!
パティの馬車が板に乗った瞬間、左の板が大きくしなり、荷台がぐらりと傾いた。
「っ……!」
慌てて手綱を操り、急いで板を切り抜ける。
パティは咄嗟に理由を悟り、御者席の左側へと体をずらすと、隣に置いていたルゥのランタンの炎を強めた。
その自然な仕草に、板を注視していた門番たちは誰も気づかない。
「止まれ!」
傷の男が怒号を飛ばし駆け寄ると、パティを睨みつけた。
「何故、片側がそんなに重いんだ!?」
緊急事態だが、フェンイルはあえて口を挟まない。
パティが席を移動した理由──つまり、原因は荷台の中にあると理解したからだ。
だが、状況がつかめないミルシャとアイリスに緊張が走る。
狼煙が上げられた場合の対処に、ミルシャは水で火を消し、アイリスの風で煙を四散させる役目がある。
しかし、それを実行に移すには、フェンイルの掛け声が合図となる。
その指示は発せられず、その代わりにパティの声が微かに聞こえてきた。
「それは……」
パティはわざと歯切れ悪く答える。
「なんだ! はっきり言え!」
怒気を帯びた声に、パティは驚いたように肩を震わせ──
「あたしの……あたしの体が重いからなんだよ!」
「……は?」
自分が御者席の左に寄って座っていたせいだ、と言い切ったのだ。
「………」
さすがに“それはない”という顔をする男。
だが、その叫びに慌てた者が二人いた――カイとルゥの二人だ。
二人は自分たちが原因だと気づき、物音を立てないように中央へ移動しようとする。
カイがルゥを押し込み、その狭さにルゥが悲鳴を飲み込む。
荷台の野菜は左右対称に積まれていた。
だが、カイはルゥを庇って左側に寄って潜り込んでいたため、体重差で大きく傾いてしまったのだ。
「……何故左に寄って座っている?」
「これで暖をとっていたんだよ」
パティはランタンを掲げて見せる。
「この辺りは寒いから、少しでも温まろうと思って隣に置いてあったんだよ」
「………」
普通なら御者席の端に寄った程度では、あれほど傾くはずがない。
「……お前……重すぎだろ」
「!?」
パティの目が、氷のように冷たく細くなる。 殺意が空気を冷やしていく。
「い、いや……では、真ん中に座って馬車を後退させ、もう一度渡り板に載せろ!」
「なんでよ? 通過できたんだからいいんじゃないのかい?」
「いいから載せろ!」
「わ、わかったわよ……」
パティは目線を落とし、静かに馬車を後退させた。
再び板に乗ると──今度は左右の板が、同じようにしなった。
「……まじか」
先ほどとは違い均等に沈んでいる。
「お前少しは痩せ……!?」
言いかけた瞬間、御者席から再び殺気が降り注ぎ、男は慌てて言葉を飲み込んだ。
「い、いや……何でもない。
そ、そうだ、この先に進むと山から水が流れ出ている場所がある。
数日前までは無かったんだが、そのせいで道が緩くなっているから、車輪を落とさないように気を付けて進め」
慌てて話を変え誤魔化す男。
「わかった」
男に頷くと、パティはフェンイルに合図を送り、二台の馬車はゆっくりと次の門へ向かっていった。
第一門が見えなくなるころ、白い一筋の狼煙が立ち上り始めた。
恐らく第二門へ向けての狼煙であり、食料を積んだ馬車が向かったという合図だろう。
今回はパティの機転で乗り越えることができた。
綿密に練った計画であっても、こうした見落としは生じる。
その事実を胸に刻み、彼らはさらに気を引き締めて進むのだった。
最後までご覧いただき、心より感謝申し上げます。
投稿は毎週日曜日の12時に設定しております。
これまでの物語をゆっくり振り返っていただけますよう、投稿した挿絵をXにて保存しております。
絵を眺めるだけで物語の情景がふっと蘇るような、そんな時間をお届けできれば幸いです。
どうぞ、ごゆっくりご覧ください。
https://x.com/ocarina_quartet
※挿絵は Microsoft Copilot(2・3)
及び Gemini Nano Banana Pro(1・4) による生成画像です




