静かに崩れゆく日常⑥
食事を終え、腕の立つ調理師へ丁寧に礼を告げると、四人はようやく席を立った。
敵が誰なのか――霧のように掴みどころのない不安はまだ晴れない。
ただひとつ確かなのは、盗賊団がこの件に関わっているという事実。
それは、これからの行動を大きく左右する重要な手がかりだった。
だが、肝心の村へ忍び込む方法だけは、どうしても見つからない。
部屋の前まで戻ってきた四人は、いつものように二人ずつに分かれて扉をくぐる。
この部屋には浴室が備え付けられており、大浴場へ向かう必要もない。
テーブルにはティーセットにお菓子も添えられている。
明日の朝食の呼び出しがあるまで、外へ出る理由すらないほどの“完璧なおもてなし”が整っていた。
ミルシャとアイリスは、示し合わせたわけでもなく自然と同じ方向――浴室へと歩き出していた。
初めての魔族との戦い、初めての野宿。
本当なら食事の前に汗と埃を落としたかったが、せっかくの厚意を無下にするのは気が引けた。
言葉もなく髪を洗い、体の汚れを流し落とす。
そして、すでに湯が張られていた湯舟へと身を沈めた瞬間、二人の表情から力が抜けていく。
天井をぼんやりと見上げながら、温かな湯に体を預けるその姿は、まるで戦いの緊張が溶けていくようだった。
やがて――
アイリスがそっとミルシャへ視線を向け、静かな湯気の中で口を開く。
「ミルシャは以前、精霊の声が聞こえたと話していましたよね?」
「え? ああ、うん」
意外な質問に戸惑うミルシャ。
「それは今も聞こえたりしますか?」
「……昨日聞こえた」
「そうですか……」
「なんで?」
「いえ……精霊の声であれば、私も聞きたいと思いまして……」
「……どうかな。
昨日は呪文を教えてくれたの……その呪文のおかげで、カイを助けることができた」
「回復魔法ですか?」
「ん~、どうだろう……魔法かどうかも定かではないかな。
魔法陣とか出なかったし……」
「どんな声でした?」
「どんな? ……雰囲気でいえば、落ち着いた大人の女性の声かなぁ。
話し方には、地位のある人のような威厳があった」
「王様の様な?」
「うん、そんな感じ」
話し終わると、アイリスは目の前に広がる湯に視線を移した。
さりげなく、人間族には使えない魔法に同意したアイリスだが、その矛盾に当のミルシャは気づいていない。
(やはり、魔王様のご加護ですね。
守護されているのはミルシャで間違いないようです)
「その声に、私たちは救われたのですね」
「そうだね……」
アイリスは湯面を揺らしながら、すっと立ち上がった。
濡れた黒髪が肩に沿って流れ落ちる。
「明日のために、今日はゆっくり休みましょう」
「うんっ!」
ミルシャもぱしゃりと小さな水音を立てて立ち上がり、アイリスの後に続く。
いつもであれば、このあとアイリスの優雅なティータイムが始まるはずだった。
だが今夜ばかりは、用意されているお菓子にすら手を付けようとはしない。
部屋に戻ると、二人はほとんど同時にベッドへ倒れ込んだ。
ミルシャが蝋燭の炎をふっと吹き消すと、部屋は月明かりだけの静寂に包まれる。
ミルシャはしばらく天井を見つめていたが、ふと何かを思い出したように鞄へ手を伸ばした。
取り出したのは、小袋にしまわれた小さな水晶玉。
そっと手のひらに乗せると、淡い光がきらりと揺れた。
(……弱い光に戻ってる。
やっぱり、あの時の呪文は魔法だったんだ。
そういえば、ミッシェル様が魔力を使うと眠くなるって言ってた。
魔力を使いすぎて、酷い睡魔に襲われたということなのかな……)
ミルシャは水晶をそっと袋へ戻すと、ふわりと布団へ身を沈めた。
その気配を、アイリスは薄く開いたまぶたの奥で感じ取る。
しかし、何も声をかけることはせず、静かにまぶたを閉じ、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
* * *
夜は深く、月光が窓辺を淡く照らす頃。
ふと、胸の奥をかすめるような“違和感”に、アイリスは目を覚ました。
「……ん?」
いつの間にかミルシャに背を向けて眠っていたらしい。
寝ぼけた頭を振り払いながら、アイリスは上半身を起こし、ゆっくりと振り返る。
――!!
アイリスは、目の前に広がった幻想的な光景に思わず息を呑んだ。
ミルシャのベッドのすぐそば──淡い光をまとった魔人族が、まるで慈しむような眼差しで立っていたのだ。
「ま、魔王様……?」
洞窟で見た、あの氷のように冷たい視線はどこにもない。
アイリスが目を覚ましたことに気づいているはずなのに、その視線はただひたすらミルシャへと注がれていた。
優しく、触れれば溶けてしまいそうなほどに。
アイリスはそっと床へ降り立つと、胸の前で腕を交差させ、静かに跪いた。
「魔王様……この度はお救いくださり、心より感謝申し上げます」
しかし、返事はない。
まるで彼女の声など最初から存在しないかのように、魔人族は微動だにせず、ただミルシャだけを静かに見つめていた。
『………』
沈黙。 魔人族は何も答えようとしない。
アイリスはそっと立ち上がり、ベッドの端に腰を下ろした。
そして、傍らの鞄から拡大鏡を取り出し、まるで祈るように両手で包み込む。
(私の声は届かないのですね……)
そう悟りながらも、せめて最後までその姿を目に焼き付けておきたい。
そう思った、次の瞬間――
『我が依り代の願いを聞いただけだ。 でなければ助けぬ』
突然、アイリスの頭の中に声が響いた。
その声音はミルシャが語っていた通り、圧倒的な威厳を帯びていた。
「それでは……なぜ私に、これを渡してくださったのですか?」
アイリスは拡大鏡を胸の前に掲げるように見せる。
『お前が最後の手段に出てしまわぬようにだ』
「え……?」
『人間族の想いなど、我の知るところではない。
だが、お前はそれが大事な物だと言った。
ならば、それを渡せば命を捨てぬと解釈したまでだ』
「……ありがとうございます……」
『………』
アイリスは拡大鏡をぎゅっと握りしめた。
堪えていた涙が、ぽろぽろと溢れ落ちる。
その涙を知ってか知らずか、魔人族の姿はふっと掻き消えるように消えた。
「あ、あの……! もう、お話はしていただけないのでしょうか!」
突然の消失に、アイリスは思わず声を張り上げてしまう。
「ん……」
その声に反応したのか、ミルシャが寝返りを打つ。
だが、すぐに静かな寝息となった。
『……お前は我が依り代のために命を捧げようとした。
その覚悟を称え、我が知ることであれば答えよう』
「お名前を……お名前をお聞かせください!」
『それは我が依り代が思い出さねばならぬこと。
時が満ちるまで、我の事を語ってはならぬ』
「思い出す? ミルシャは、魔王様を知っているということなのでしょうか?」
しかし、その問いには何も返ってこなかった。
「魔王様……」
アイリスはしばらくの間、魔人族が立っていた空間をうっとり見つめ続けた。
まるで心の底から魅了されてしまったかのように。
――次の日
夢の底で響くカン、カンという金属のような音。
ミルシャとアイリスは、それが時の鐘だと気付くまで柔らかな微睡の海をゆらゆらと漂っていた。
「……朝?」
ミルシャが寝ぼけた声で呟き、ふらりと立ち上がり窓辺へと歩く。
目を擦りながら外を覗いた瞬間――その顔色がみるみる青ざめた。
「う、うそ……今、何時なの!?」
通りには既に多くの人が行き交い、店という店は活気に満ちている。
どう見ても“二の鐘”――朝九時よりあとの時の鐘だった。
「今の知らせは……“三の鐘”です。 お昼まで寝てしまいましたね……」
アイリスは鞄から小さな魔道具の時計を取り出し、額に手を当てて深くため息をついた。
教会の鐘は一日五回、朝六時から三時間おきに鳴らされる。
ミルシャは朝が得意ではないが、アイリスまで寝過ごすのは珍しい。
昨夜の出来事が胸に残り、なかなか眠れなかったのだ。
――コンコン!
慌てて着替えを進めていると、軽やかなノックが響いた。
「昼食の準備が整いましたので、先日のお部屋までお越しください」
「は、はいっ!」
ミルシャは裏返った声で返事をし、扉の向こうの足音が遠ざかるのを聞いた。
「……朝食に呼ばれなかったということは、フェンイル様が私たちを気遣って、起こさないように指示してくださったのでしょうね」
「気を使わせちゃったね……」
「お会いしたら、お礼を言いましょう」
「うん」
支度を終えて廊下に出ると、カイとルゥが自室の前で同じように気まずそうに立っていた。
その様子だけで、彼らも同じく寝坊したのだと分かる。
四人は揃って会議室へ向かい、遅めの朝食を囲んだ。
フェンイルの姿はなかったが、給仕によれば“四の鐘”――午後三時頃には来るらしい。
食後、フェンイルが用意してくれた薄手のフード付きローブを羽織り、顔を隠しながら街へ出る。 戦いに必要なものを探すために。
しかし、しばらく歩いてみて分かった。
フェンイルの言った通り、この街には戦闘用の装備を扱う専門店はない。
あっても、雑貨屋の農具の横に、申し訳程度に安物の剣が置かれているだけだった。
こうなっては、フェンイルが揃えるという装備に期待するしかない。
結局、四人はその場で別れ、それぞれ必要なものを探しに散った。
考えなければならないことが頭に引っかかる。 どうやって盗賊の村に気付かれず潜入するか。
フェンイルは、人目を避けて村へ向かうのは不可能だと言っていた。
ミルシャは歩きながら、ずっと頭の中で策を巡らせていた。
ラングレイ領の昼下がりは、まるで絵本の一頁のように穏やかだった。
収穫を終えたばかりの野菜を積んだ荷車が行き交い、赤や緑の彩りが陽光にきらめいている。
仲買人たちは仕入れた野菜に笑みをこぼし、旅人は好物の香りに誘われて足を止める。
トマトの艶、レタスの瑞々しさ、カボチャの丸々とした姿――どれもがこの地の豊かさを物語っていた。
人々の笑い声が風に乗って広がり、空には白い雲がゆるやかに流れる。
子供たちは荷車の隙間をすり抜けて走り回り、老夫婦は手を取り合って野菜を選ぶ。
誰もが笑顔で、誰もがこの瞬間を楽しんでいた。
「みんな幸せそう……王都では見られない風景ね……」
宿屋の窓辺で、ミルシャは行き交う人々を眺めながらぽつりと呟いた。
「王都では、ここで仕入れた野菜をいかに高く売るかが勝負だからな。
仲買の顔つきも自然と険しくなる」
声の主は、仕事を終えて戻ってきたフェンイルだった。
ミルシャは慌てて姿勢を正し、丁寧に頭を下げる。
「農家にとって、無事に収穫を終えて売りに来られるのは祝福の時だ。
だが、毎回豊作とは限らん。
自然災害、虫害、病気……不作の理由はいくらでもある」
「不作になったら、どうやって生活するのですか?」
「我が領地の農業ギルドに登録している農家は、年貢も領民税もすべて免除している」
「でも、収入がないのでは食べ物にも困りませんか?」
「その心配はない」
「?」
フェンイルはそう言うと、ミルシャを連れて集荷場へと向かった。
集荷場は野菜で溢れ、馬車は入れないため小さな押し車がひっきりなしに行き交っている。
人々の間を器用にすり抜けながら、フェンイルは無造作に積まれた箱の前で足を止めた。
箱の中には、形のいびつな茄子やトマト、虫に食われた芋など、店頭には並ばない野菜が山のように積まれていた。
「これは跳ね出し品、いわゆる規格外だ」
「こんなにいっぱい……!」
「毎日このくらいは出る。
とはいえ、一日の出荷量の一割にも満たんがな。
ギルドに入っていれば自由に持ち帰っていい。 ただし、自分の家で食べる分だけだ。
この町で農業をするにはギルドに入る必要がある。
五つの農家が一組となり、五年周期で作物を回す。
種と肥しはギルドが無料で提供し、過剰作付けを防いでいる。
だが、それだけでは不満も出る。 だから跳ね出しを集めて分け合うんだ」
「つまり、不作でもここにある野菜で生活できる……」
「そういうことだ」
「でも、年貢の免除だけでなく、種や肥しまで提供したら赤字になりませんか?」
「出荷手数料で補っている。 売り上げの半分だ」
「は、半分……!?」
「高いと思うか? だが、残りの半分を自分の好きに使えるのは大きい。
年貢や材料費を自分で払えば、毎年半分残すのは難しい。
不作は誰にでも起こりうるからな」
「助け合い……なんですね」
「そういうことだ」
「フェンイル様は、本当にすごいです……」
ミルシャは、ラングレイ領が大きく発展した理由を少しだけ理解した気がした。
「とはいえ、仲買を煽って高く買わせ、民には沢山食べてもらわねばならんがな!」
フェンイルが豪快に笑うと、ミルシャもつられて笑った――が、すぐに表情が曇る。
「どうした?」
「その……盗賊の村って、全部自給自足なんですか?」
「いや、二百人規模だ。 さすがに無理だろう。
肉は狩りで賄っているだろうが、野菜はギルドに注文が来ている」
「ギルドに……!?」
「驚くのも無理はない。 だが、これも“盗賊ではない”と主張するための策だろう。
裏取引より、堂々とギルドに頼んだ方が足がつかん」
ミルシャはしばらく考え込み――ぱっと顔を上げた。
「それなら、その荷馬車に隠れて村まで行けませんか?」
「……!」
フェンイルの目が大きく見開かれる。
「そうか……野菜を運ぶ荷馬車なら、荷物を覗く程度で全部下ろして確認はしない。
荷の下に潜り込めば、誰にも気づかれず村の奥まで行ける……!」
「はいっ!」
「でかしたぞ、ミルシャ! すぐ戻って計画を立てるぞ!」
こうして、ラングレイ領の穏やかな午後は終わりを告げた。
次に待つのは、盗賊の村への潜入という大胆な計画。
ミルシャの胸は不安よりも期待で高鳴っていた。
今回も最後までご覧いただき、心より感謝申し上げます。
この回の挿絵より Nano Banana Pro を使用しております。
サイズの都合上、Geminiのひし形マークは入っておりません。
※挿絵は Microsoft Copilot(4)
及び Gemini Nano Banana Pro(1.2.3) による生成画像です※




