精霊の加護⑧
大ウナギの尻尾で蹴り上げられてしまったミルシャ。
薄れゆく視界の中で、やっと届くゼルの声を聞き、遠のく意識を取り戻した。
「私の水に乗れっ、ミルシャ!」
ゼルは、落下しているミルシャのすぐ下に、精霊術を使って水の板を張った。
――バシャッ!
しかし、ミルシャは精霊術を使うことができず、水上歩行の術で水の上に立つことができない。
落下していたミルシャの体は、ゼルの張った水の板をすり抜けてしまい、落下を止めることができなかった。
「乗ってくれ!」
ゼルは再びミルシャの下に水の板を張り、彼女が水上歩行の術を発動してくれることを祈った。
「うっ……」
ミルシャは二枚目の水の板を通過したとき、自分の身に起こっている状況を知り、ゼルの意図を悟った。
そして、三枚目の水の板で、何とか水上歩行の術を発動し、その場に留まることに成功した。
「う……くっ……」
ミルシャは立ち上がろうとするが、両足に激痛が走り立つことができない。
その痛みは、いつ意識を失っても不思議ではないほどだった。
「よし、乗ってくれた!」
ゼルはミルシャを受け止めると、大ウナギが届かないよう、湖面からそっと持ち上げた。
「急いで、こっちに戻せないのですか!?」
その場から移動させないゼルに、苛立ちを覚えるルゥ。
「ダメなんだ。
水上歩行の術は、流れのない水面の上で、ミルシャ自身がバランスを取って立っているんだ。
だが、今のミルシャは、水の上に乗っているのがやっとの状態で、強く引き寄せようとすると、上に乗っているミルシャが滑って落ちてしまう」
「そんな!
でもこのままでは、力尽きて術が消えてしまうのでは!?」
ルゥは悲鳴にも似た声で叫んだ。
「何か僕にできることは……っ!
レリーナさん! もう一度火をおこせませんか!?」
後ろで泣き出しそうなレリーナに、自分が精霊術を使うための火種を作ってもらおうと考えた。
しかし、レリーナは首を横に振り――
「だめなの、火打石が濡れてしまっていて、燃やすものも残っていないの……」
「くっ!」
折角、精霊術が使えるようになっても、種火がなければ火の精霊術は使えない。
ルゥは自分の無力さを痛感することになった。
――また僕は……何もできないのか……
言葉を失い、ルゥは膝をついてしまった。
ゼルが生成した水の板の上では、足の痛みに必死に耐えているミルシャがいた。
「う……痛い……、でも……移動しなきゃ……」
ゼルが水の板を移動させない理由を理解しているミルシャは、なんとか岸までたどり着こうと、肘と膝で少しずつ這いながら移動を始めた。
怪我は大ウナギの尻尾による打撲で、両足をひどく叩かれたことが原因だった。
水上歩行の術は靴底を支える精霊術であり、素肌に触れると強烈な衝撃を伴う。
それでも、怪我をしていなければ問題のない衝撃ではあるが、今のミルシャの足には、傷口を抉るような激痛が走った。
その一歩が、足の神経を焼くような痛みを呼び起こすと分かっていても、彼女は止まらなかった。
「ああ……」
言葉が出なくなり、痛みに意識が朦朧としてくる。
眼下には、落ちてきた時のミルシャを狙って、大ウナギが離れようとしない。
戦いのために、岸から遠く離れてしまったことが災いしてしまった。
ゼルとレリーナ、それにルゥは、岸から攻撃できる位置まで戻ってくることを祈っていた。
投擲が届く距離まで来てくれれば、少しでも大ウナギの敵視を自分たちに向けることができる。
そうすれば、水の中に落ちたミルシャをルゥが助け、ゼルが精霊術で戦えるようになるからだ。
しかし、それは叶わず、ミルシャは力尽き水上歩行の術が解除されてしまった。
「ミルシャ!」
「きゃあぁぁ!」
ルゥの呼ぶ声とレリーナの悲鳴が、同時にミルシャの落下を見て木霊する。
「くっ!」
ゼルは、すり抜けてしまったミルシャの体に向かって、下から水を噴射させると、その水圧でなんとか大ウナギの口から遠ざけようとした。
だが、力を失ったミルシャの体は、浮かせようとする水の勢いを受け流し、落下位置を少し変えただけで、大ウナギに向かってまっすぐ落下していく。
大ウナギはミルシャに噛みつこうと口を開けていた。
――転移門!
落ちていくミルシャの体が、大ウナギの口に届きそうになった瞬間、ゼル達の背後から男の声が響き渡った。
だが、ミルシャを見ていた三人には声が聞こえず、遠目には大ウナギに飲み込まれてしまったように見えていた。
声も出せず、蒼白になった三人。
目の前の惨劇に呑まれ、三人の思考は止まり、時間さえも凍りついたかのようだった。
「いったい、お前たちは何をしているんだ!」
背後から力強い足音と共に、怒声が響いた。
近づいてきた男に、呆然とした様子で振り向く三人。
「ミ、ミッシェル!?」
声の主は紛れもなくミッシェルであり、その装いは、かつてゼルと旅をしていた頃の冒険者そのものだった。
だが、本当に驚いたのは、ミッシェルが抱いている少女だった。
「ミルシャ!」
真っ先に駆け寄ったのはレリーナであり、ミッシェルはそっとミルシャをレリーナに手渡した。
「ほんの少し遅かったら間に合わなかったところだ」
「すまない……ミッシェル」
ゼルはレリーナに寄り添い、抱かれたミルシャを見て涙を流した。
「話はあとだ。 まずはミルシャの介抱が先決だからな。
レリーナはミルシャと共に、我の別邸に転移させてやる。
すぐに治療してやるといい」
「はい……」
涙を流しながら頷くレリーナに、ミッシェルは自分の別邸へ繋がる転移門を開けた。
普段なら恐怖を誘う黒い霧の渦も、ミッシェルの優しい言葉と、治療への切なる願いに包まれ、まるで神聖な霧のように見えた。
「行け」
ミッシェルの言葉に頭を下げ、急いで転移門に入るレリーナ。
二人の姿が黒い霧に消えると、漂っていた煙が風に吹き払われるように、転移門はフッと消えた。
「大ウナギが来るぞ、ゼル! アクアランスを使え!」
「わ、わかった!」
ミッシェルの合図に、震えながら返事をするゼル。
しかし、ミルシャの姿を見失った衝撃から、いまだに手が震えてしまい、精霊術のイメージが定まらない。
「……しかたない、転移門!」
ミッシェルは、心が落ちつかないゼルを見て、ため息をついた。
仕方なく、向かってくる大ウナギに転移門を使い、一瞬で遥か上空に転移させた。
ミッシェルの転移門は、入口と出口が同時に顕現される。
入口が横向きでも、出口の角度を上向きに変えることで、横方向の移動を上方向に変えることができた。
さっきミルシャを助けた時も、落下している下向きの力を、出口の向きを上向きにすることで相殺し、落下速度がなくなったところを、ミッシェルがそっと受け止めていた。
ただ、転移には自ら門に入る必要があり、静止している物体を転移させることはできない。
そして、突然空に放り出された大ウナギは、体をひねりながら今まであったはずの水を探した。
「深呼吸して落ち着け、ゼル。 大丈夫だ、ミルシャは生きている。
今はただ、目の前の敵だけに集中するんだ」
「………」
高く打ち上げられた大ウナギは、落下による速度が増していく。
ミッシェルは、水面ギリギリに落ちてきた大ウナギに、再び転移門を使い、何度も上空へ転移させ、ゼルが落ち着ける時間を稼いだ。
人であれば紛れもなく絶命してしまうような落下速度も、あの硬い皮膚を持つ大ウナギに、致命傷を与えられるとは思えない。
ミッシェルは、ゼルに心を落ち着かせるよう、静かな口調で促した。
アクアランスは、水を槍のように鋭く変形させ、目標物を貫く精霊術。
本来、精霊術に詠唱は必要なく、心のイメージを具現化して術を放っている。
だが、それではパーティで戦う場合に息が合わせづらく、スムーズな連携ができなかった。
その対策として、詠唱のように術名を叫ぶこととし、メンバーに分かるように決めていた。
深呼吸し心を落ち着かせると、両手を頭上にかざし、水の槍をイメージした。
体に水滴が集まり始めると、それがかざした手へと集まり始め、一本の槍へと変化していく。
その間にも、転移させた大ウナギが上空から落ちてくる。
狙うは水面に触れんとする刹那が、最も狙い目だった。
水面に激突して動けなくなってくれれば狙いやすいが、水中に潜られてしまうと攻撃が困難となってしまう。
「心を澄ませろ、ゼル。 お前の水は、誰よりも優しく、誰よりも強い!」
その声を待っていたように、長く鋭い水の槍が完成する。
ゼルは大きく息を吸い込み止めると、大ウナギの落下地点目がけて、一気に水の槍を放った。
槍は風を割く音を轟かせ、日の光を受けたしぶきを巻き上げて、一直線に大ウナギの落下地点に向かって飛んでいく。
見ている向きによっては、虹を纏った光の剣が、空を裂いて湖へと舞い降りたように美しい。
――ドンッ!
水の槍は、狙い通り湖面すれすれの大ウナギに命中し、その体に大きな穴を穿った。
「よしっ!」
ミッシェルはその光景に感嘆の声を上げ、ゼルの腕が鈍っていないことを確信した。
大ウナギは苦しみ蠢いていたが、その後すぐに動かなくなり、そのまま音をたてず沈んでいく。
水面に広がる波紋が、静かに戦いの終焉を告げていた。
だが、ゼルとルゥの胸に残ったのは、勝利の安堵ではなく、ミルシャを守れなかった悔しさと、彼女の痛みに寄り添えなかった無力感だった。
湖は静かに揺れ、彼らの心の波紋を映していた。
最後まで読んでいただきまして有難うございます。
※挿絵はMicrosoft Copilot による生成画像です※




