精霊の加護③
「ゼル先生、待合室の掃除終わりました」
診察室に戻って来たルゥが、道具の片づけをしているゼルに報告した。
ゼルの診察後の作業は、今日使用した器具の消毒と、明日使う器具の準備などを行うことだ。
足りないものがあれば、今日のうちに手配する必要がある。
器具の管理は、先日までルゥが診察を担当していた時にも、同じように確認していた。
そして今日一日、通常時間外まで使用していたにもかかわらず、不足する物は何もなかった。
これはルゥが前日のうちに、今日使う分が増えると予想して、多めに手配していたことが功を奏していた。
ルゥがこの医院の薬医師になって四年になるが、その間一度も希望する休暇を取らず、医院の休日も図書館に通い、医学の勉強に励んでいる。
ルゥ自身の人当たりも良く、物事を冷静に対処できることから、患者にも人気がある。
この一週間医院を任せられても、まるで自分の医院であるかのように、何の戸惑いもなかった。
これ程の自信を四年で身につけた事に、ゼル自身も驚き、そろそろ開院も視野にすべきと考えていた。
「お疲れ様。 今日は多かったから大変だったね」
「ゼル先生を希望されている定期健診の方ばかりでしたし、熱のある方は、皆さんに先の診察を了承して頂けましたから、時間はかかりましたが円満に対応できました」
「それはなによりだ」
「はい」
ゼルは使用した器具の洗浄をあらかた済ませると、机の上にあった診療録を見てルゥに指示を出す。
「すまないが、今日の患者の診療録を確認してくれるかな。
問題はないと思うけど、症状と処方した薬に間違いがないか、いつものように頼むよ」
「わかりました」
診察をしてから薬が渡されるまで、その流れの中で三回の確認が行われている。
まずは診察を行うゼル。 そしてその処方箋を元に、薬を調合しているレリーナ。
最後に、会計時に薬を渡すルゥ。
三回とも、病気に対して薬が適切かどうかを確認しており、間違って渡してしまった事は一度もない。
しかし、几帳面なゼルは四回目の確認として、最後の片付けで、診療録と実際に渡した薬を照らし合わせ確認している。
ルゥもそれに倣って、任されていた期間、ゼルと同じように最終確認をしていた。
この作業も、見習いとして勤務してから四年程度の経験では、診療録の病名に対して薬が間違いなく合っているか、資料を見ずに確認するのは難しい。
自分の記憶に疑いなく、正確に薬を確認できることは、並大抵の努力ではない。
ルゥの作業を横目で見ているゼルも、軽く頷きその能力を認めていた。
「終わりました。 薬の間違いはありません」
「そうか、ご苦労様。 こちらも今終わったよ。
いつも頼りにしてすまないね」
「いいえ、僕のような新参者が頼られるなんて、とても光栄なことです」
「そう言ってくれると安心して頼れるよ。
母の葬儀のために、しばらくの間医院を受け持ってくれて本当にありがとう。
おかげで、誰にも迷惑かけずに母を送ることができた」
「僕を拾ってくれたゼル先生に、少しでも恩返しができればと、ずっと考えていました。
お役に立てたのでしたら、本当に嬉しいです」
「今回の事を見ていて思ったのだけどね。
そろそろ、自分の医院を考えてもいいのではないかね?」
ルゥは一瞬、ゼルの言葉の重みを胸に受け止めた。
その言葉は、ただの提案ではない、四年間の努力と信頼、そしてゼルが託した想いのすべてが、静かに込められていた。
だが、ルゥは静かに目を閉じ、首を横に振った。
「いいえ、僕など、まだまだです。
ゼル先生がお許しくださる限り、ずっとこちらに居させて頂けたらと思っています。
この医院が好きなんです」
ゼルが開院してから長い年月が経ち、木とレンガでできた壁に歴史が刻まれている。
そんな壁を優しい眼差しで眺めながら、ルゥは本心で語っていた。
「ほう、つまりミルシャと結婚して、私の後を継いでくれるという事だね?
これで私も安心できるというものだよ」
ゼルは遠い眼差しとなり、幸せな未来を思い浮かべた。
「……えっ!?」
一瞬の空白の後に、思わず後退して驚くルゥ。
ミルシャは洋裁店を経営しているが、医院でお手伝いをしていることの方が多く、ヘルパーパーティでもルゥと行動を共にしている。
何か分からないことがあれば、事あるごとにルゥに聞いていて、傍から見れば夫婦のようにしか見えない。
それほど二人は一緒にいて、お互いに頼りにしていた。
しかも二人とも精霊使いなのだから、夫婦ならば隠し事をしなくてもよく、共に支え合うこともできる。
レリーナも含め、そちらの方向に話を持っていくのは必然だった。
「え……えっと、それはとても嬉しいのですが……。
ミルシャはまだ十五歳ですし、まだ世の中を見て回りたい年頃ですし……」
頭をかき、顔を赤らめながら、何を言っているのか自分でも分からないルゥ。
そもそも、本人たちにそうした感情は芽生えておらず、とても仲良しな兄妹の関係と感じている。
そのほうが、より気楽で、親密にもなれる。
「私が言うのも変かもしれないが、ミルシャは優しいし面倒見も良いから、きっと良い妻になると思うよ」
「そ、それは、そう思います……」
ルゥは俯くと、両手の指先を絡め、小さな声で恥ずかしそうに答えた。
「ふふふ。 私としたことが、少し焦ってしまったかな?
困らせてしまったようで申し訳ない」
「い、いえ……」
今までに見たことが無いルゥの動揺だが、ミルシャとの結婚を嫌がってはいない。
もう一押しで結婚の話が進みそうだ。
「出来ることでしたら、結婚する前に一度、故郷の国に行ってみたいと考えています」
ミルシャとの結婚話に、嬉しそうな微笑みは残したまま、ルゥは冷静な声で話した。
「確かガウル王国だったね。 近しい人が居るのかい?」
ガウル王国は、フェアウェル大陸の南西方向に位置していて、ルーファス王国からは、二つの国を越えて行かなければならない。
このフェアウェル大陸は八つの国に分かれていて、それぞれが中央にある越えることのできない山脈と、海に面した地形となっている国々だ。
山脈に対して南側は温暖な地であり、人が生活するのに適した気温となっている。
それに対して山脈の北側は、一年を通して気温が低く、人が住むにはとても厳しい環境となる。
四季がはっきりしている唯一の地域が、東西の端に位置する、ルーファス王国とウィルダリア王国となっている。
「いいえ、今はいません。
僕が物心つく前に、ルーファス王国の中央に位置する湖畔の都『セルーネ』の教会に預けられていたのです。
僕のそばに大金貨が置かれていたと聞いています。
その大金貨のおかげで、学院にも通うことができました」
(……今は?)
ルゥの言葉に違和感を覚えるゼル。
物心つく前にセルーネに居たというのなら、「今は」という表現を普通はしない。
しかも母国がガウル王国と知っている事にも、腑に落ちない点があった。
(大金貨をそばに置き、教会に預けられたというのならば、恐らくは平民の出ではない。
ならば貴族の生まれだったとして、出生の国を手紙に記すものだろうか?)
ゼルは、我が子を手放した両親が、自分たちの素性を手紙で残すとは、到底思えなかった。
しかし、今は深読みする時ではないと、あえて聞くことは避けた。
「そのおかげで、私もルゥに出会うことができた。
私にとっては幸運だったよ」
「はい」
「それじゃ、今日はここまでにして、帰ってゆっくりと休むといい」
「ありがとうございます」
そう言って、ルゥは診察室の扉を開けて廊下に出ようとした。
「あの……、一つお聞きしても良いですか?」
扉にかけた手をそのままに、ルゥは振り返りゼルに声をかけた。
その真剣な眼差しに、ゼルはルゥの聞きたいことを察した。
「ミルシャの事かい?」
「はい。 ゼル先生は、あの時ソルシャさんの話を否定しませんでした。
何をご存じなのですか?」
ゼルは腕を組み、しばらく考え込む。
ルゥは開けた扉を再び閉めると、ゼルの方に近付いた。
「すまないね。 それについては今は言えない」
「なぜですか!?」
ミルシャの体が心配なルゥは、つい声を荒げてしまい慌てて謝った。
「す、すみません……」
「いや、ミルシャの事を心配してくれているんだね。 ありがとう」
「………」
「言えないというのは、事実をこの目で見て、知っているわけではないからだ。
ある人達がミルシャに起こった事を、他言しないことを約束に教えてくれた。
そして今回も、ルゥが見たものや、ミルシャが聞いた声を、私は見聞きしていない。
自分で確認できていない現象を、憶測だけで他人に話すことはできない。
かといって、それでは納得できないだろう。
だから、私自身が感じたことは教えてあげよう」
「はい」
「あの時、何かしらの力がミルシャに起こり、お婆さんの魂だけをその場に留まらせていた――そう私は考えている。
何故なら、最初に診察した時にはもう……亡くなっていたんだ」
「そんなことって……。
ではあの時話していたソルシャさんは、どういう状態だったのですか?」
「その答えは私には分からない。 想像は色々できるがね。
おそらくは、ミルシャが診察して『亡くなった』と言ったとき、お婆さんは本当に亡くなっていたんだと思う」
「………」
「少なくとも、今回のミルシャの力は精霊術ではない。
人の魂に関わる様な事象を使えた精霊使いを、今までに一度も見たことが無い。
すまないね。 今話せるのはこれだけなんだ」
「いえ、ありがとうございます」
「ただ、これだけは覚えておいて欲しい。
ミルシャに起こっていることは、この先きっと彼女の試練となるはずだ。
その時、必ず君が必要となる。 守ってやってくれ」
「もちろんです!」
ルゥは迷いのない眼差しをゼルに見せ、はっきりと答えた。
話に真剣に向かい合っていた二人は、診察室の扉の向こうに立っている人影に気づくことができなかった。
その人影は、金髪の二つに結んだ髪を揺らし、まるで風に溶けるように、音もなく扉から離れていった。
その背中には、言葉にできなかった想いが、そっと揺れていた。
そしてゼルの話が終わると、ルゥは一礼して診察室を出て帰路へとついた。
残ったゼルは大きなため息をつく。
「ふぅ……。
ミルシャ自身の自覚していない力もそうだが、ルゥ、君にも自分で自覚していない謎があるのだよ。
ミルシャの力も、ルゥの謎もきっと意味がある。
精霊が導いたのか、それとももっと深い何かが……。
まあ、謎は謎のままで一生を送ることがきれば、それは幸福な人生だったと言えるのだがね」
ゼルは、ルゥが医院に初めて来た時のことを思い出し呟いた。
最後まで読んでいただきまして有難うございます。
※挿絵はMicrosoft Copilot による生成画像です※




