八 目に見えぬ助け舟
雨が止んだ空の下、誠と悠真は怯えた少女の手を握りしめ、夜の街を駆け抜けていた。古びた倉庫街を抜け、廃ビルの脇道へ。
「大丈夫、こっちだ!」
誠の記憶には警備の抜け道や防犯カメラの死角が刻み込まれている。少女の肩は震えていたが、誠も悠真も、決して手を離すことはなかった。
オークション会場。あの強欲な大人たち。ギラギラした警備の目と、張り詰めた緊張。
けれど――「出る」と決めてから、思ったよりも障害はなかった。警備員たちは一瞬、無線でやり取りしていたが、その応答は途切れがち。重要なドアの前にいた屈強な男たちは、なぜか電話に気を取られ、ほんの一瞬追わなければならないはずの誠たちから視線を外した。そして何度も戸惑うようにして電話と誠たちの間で視線をさ迷わせていた。
誠は走りながら、ふと違和感を覚えた。
(……本当に、こんな簡単に突破できるはずない)
彼の知っている“裏社会”は、隙を見せた瞬間に容赦なく牙をむくはずだった。
それなのに、今夜は何かが噛み合わない。外に出てしばらくして呼吸が整うと、誠は首を振った。
「悠真、急ごう……変だ。警備が俺たちを見ていたはずなのに、すぐに追ってこないし、そもそも逃げ道が全部“空いてた”」
「え?まあ運が良かった、とか?」
「いや、あの手の人間は運だけじゃどうにもならない」
誠は警戒し、少女を守るように真ん中に立たせる。
工事中のネルシャツの職人、タバコを吸っている配達員――。
街のどこかに裏の目があり、しかし今夜は“彼ら自身が全員、別の危険から逃れようとする動き”をしていた。
悠真が「……まあ、逃げられたならよしとしようぜ。今はこの子を安全なとこに隠してやんねぇと」と急かした。
辿り着いたのは、誠が何度か寝床に使った古びたアパートだった。カーテンも破れ、誰も住んでいない。壁の奥からかすかに潮の香りがする。
「ここなら……少しは安心だ」
重い扉を閉め、少女に毛布を掛ける。「ごめんね、怖かったよね。……もう大丈夫。絶対にまたあそこには戻さない」
少女はしばらく黙ったままだったが、やがて小さな声でつぶやいた。
「……ありがとう」
悠真がにやけて「わりいな、俺、女の子の前じゃ緊張すんだよ」
場の空気が柔らぐ。そのとき、誠は声の主を見て、重大なことに気づいた。この少女の名前すら知らない、けれど自分たちと似た目……
「これから、ここにいれば安全だから。名前、教えてくれる?」
少女は小さく首を振った。「まだ……言いたくない……」
「わかった。無理に聞かない。でも、俺たちは悪い人じゃない。信じてくれたらうれしい」
毛布の下から小さく「うん」と声がした。
*
夜が深まると、誠は安全ルート、今後の逃走経路、補給場所を再確認した。
しかし――心臓の奥にへばりつく違和感が消えない。
(なぜ、あの場があんなに“手薄”になった? 警備の無線は妙に空白が多かったし、途中ですれ違った大人が「ああ、今夜は客が少ないな」と呟いていた……)
彼自身、頭脳を徹底的に働かせてきた。強行突破、デジタル細工、一瞬の死角の利用――だが今夜の“容易さ”は、それだけじゃ説明できないものがあった。
(これは偶然か? いや、何かの意思……。奴らは何かに動かされていた?)
*
誠たちがオークション会場を抜け出そうとしていた際のこと。オークション会場の裏手、警備網の“司令室”では、全く別の命令系統が動いていた。
会場の指揮を執る男は早口で焦りを見せながらも指示を出す。
「いいか!十八番出口は予定通りシャットアウト、二十番の通路だけ十五分間ノーマークで警備員は入れ替え、回線は一時ダウンしても構わない!」
しかし警備が穴だらけになってしまう指示に部下たちは戸惑う。「え、でもあそこ抜かれたらやばいっすよ?」
「いいから命令どおりにやれ!」
そう指揮を執る黒服――。
そんな黒服の背後から、司令室全体に少年のような静かな声が投げかけられる。
「問題ない。“抜けるべき人物だけ”が無事外へ出ればいい。その後はこの場にいるお前達も含めて、関わった全てからこのオークションについてしっかり話してもらうとするよ」
この場にいるはずの無い男の声。今回このオークションでは誠たちの裏切りにより失敗に終わったが薬物の取引が裏で行われる予定だった。大規模な薬物取引が起これば、日本は混乱する。そして、そこまで大規模なものに、関東の極道が裏で関わっていることは明白。それに西が黙っているはずが無い。
指示を聞いた男は一度だけ、静かに頭を垂れる。
「……承知しました、夜凪さん」
暗闇の中、スーツを着た華奢な若者、夜凪楓が背広の襟を正し、窓越しに脱出口の方角を見る。
「ようやく動き出したか……君たちの運命がどう変わるのか、楽しみだな」
楓の指揮下で、会場の警備は“ある種の大きな流れ”に合わせて動いていた。
そして、誠たちが逃走した直後、元の警備体制は何事もなく再開。悪が全てその中に捕らわれる。混乱は、夜凪組の若頭による“意図的な隙”で生まれていたのだった。
*
夜明け前。誠は少女の寝顔の横で目をこすり、不安げに窓の外を見る。
悠真は古い携帯ラジオをいじりながら、「おれら、これからどうなるんだろうな」とぼやいた。
「ぜったいに、この子は守る」
誠の声は揺るがなかった。しかしその中心に冷たい疑念が残る。
(……知らない誰かが俺たちを助けた? なぜ? 味方か、敵か、興味本位か……)
その時、ドアの隙間から不自然に滑り込む白い封筒があった。
誰かが覗いていた気配すらない。ただ、薄い紙に「危機が迫れば、西の方角の“灯”を目指せ」と綺麗な文字。
悠真が「な、なんだこれ……手紙?」
誠は驚きと警戒を隠さない。「きっとまた、どこかの“大人の遊び”だ。俺たちは自分の足と頭で、この今だけを信じて動く」
だが心の奥底では、こうも思う――
(この街に、“俺たちを見ている目”がどこかにいる)
少しだけ眠ろうと決めて、誠は少女のそばにうずくまる。
また新しい緊張、また新しい覚悟。けれど小さなあたたかさだけは、確かにここにあった。