三 ふたりの夜
夜の町を歩くと、世界の全てが自分から遠ざかっていくような気がした。
一歩ごとに冷たい風がシャツの中をすり抜ける。車のエンジン音、交差点の信号、コンビニの看板――すべてが別の現実に属している。誠だけが、どこにも属さない。この世界に誠の居場所など無かった。
それは今ではなく、家族の形が崩れ始めたあの時からだったのかもしれない。
罪人。逃亡者。裏切り者。
膝を抱えて座る公園のベンチで、誠は白い息を吐き出した。冬の夜明け前、楽しげな酔っ払いの声も、犬の遠吠えも、遥か彼方でしか響かない。全てが誠を遮断する。
手には持ち金が百円玉一つ。持っているのは施設のキッチンからくすねた少しの食料と水を詰めたリュックと必死に握りしめた母の写真。
どこへ行こう。
この街はただの高校生であった自分を知っている。いずれ誰かに見つかるだろう。あの夜から一睡もできていない。体は疲れ切っているのに、意識だけは妙に冴えている。
――せめて、誰かに会いたい。
そう思っても、誰にも助けを求められなかった。けれど、どうしても行きたい場所がひとつだけあった。幼い頃から秘密基地にしていたボロいアパートの裏階段――そこには、たぶん唯一、心を許せる幼馴染の悠真が来る。
*
悠真と誠は、小学校の入学式からずっと一緒だった。
誠が初めて父親に殴られ、黙って泣いていたとき、誰も近寄ろうとしなかった新一年生の教室で、悠真だけが飴玉を差し出した。
「食べろよ。家で怒られても旨いもん食って元気出せばいいんだってさ」
その一言で、世界が少しだけ温かくなった気がした。
中学生になってからも、悠真は誠のいちばん近くにいた。バカなことで笑ったり、小さなケンカをしたり、腕っぷしの強い悠真が強面の上級生から守ってくれたり。
誠がちょっと言葉にできない痛みを抱えていることも、悠真は余計な詮索をせず、ただ「何も言わなくてもわかる」と口数が少なかった。
家族という言葉がどんどん遠くなっていった誠にとって、悠真は唯一、繋がりを感じられる存在だった。
*
古いアパートの裏階段。
誠はそこに腰かけ、夜の光に照らされたコンクリートを眺めていた。遠い昔、二人で叫びながら鬼ごっこをした場所だ。寒さと緊張で指が震える。
どれくらい待っただろう。ポケットに手を突っ込んだ少年が、足音もなく近付いてくる。
「あれ、お前、……誠か?」
「悠真……」
照れくさそうに笑う悠真の顔が一瞬にして固まる。服はパジャマのまま、寝癖も直さずに、まるで夢を見ているような表情。
「どうしたんだよ、こんな夜中に……あ……」
直感的にすべてを悟ったようだった。悠真の目が少し鋭くなり、だけど誠に向ける声だけはあたたかい。
「……逃げてきたのか?」
誠は何も言わずに頷いた。まぶたが熱くなり、唇だけ震えた。
「うち……来るか?」悠真は何も聞かず、ただそっと手を差し出した。
*
誰も起きていない悠真の家。妹の部屋の隣にある物置を借りて、ふたりで小声で息をひそめながら床に座り込む。
「……何があったんだ?」
悠真の声は、静かだが真剣だった。
誠は、空気の震えを感じながら、初めて父が家で暴れていたこと、母がずっと苦しんでいたこと、あの夜の出来事……すべてを話した。声が震えて涙になるたび、悠真は何も言わずに、そっと誠の肩を叩いた。
「父さんが、母さんに暴力をふるって……母さんが……包丁を……」
誠は過呼吸のように息を何度も詰まらせた。
「俺がやったことにしたんだ。母さんだけは……」
そこまで言うと、もう涙が止まらなくなった。悠真は長い沈黙の後、小さく「馬鹿野郎」とだけ言った。だが、その声には非難も怒りもなかった。
「おまえ、本当にそれでいいと思ってんのか?」
悠真の言葉に誠は顔を上げる。
「俺は……母さんにこれ以上、地獄を味あわせたくなかった。ただ、それだけだ……」
しばらく二人は黙った。壁の向こうで時計がカチカチと針を刻む音がした。
やがて悠真がポケットから、お菓子の包みを取り出して、誠に渡す。
「これ、昔、お前が泣いたときもやったやつだ」
「……ありがとな」誠は泣き笑いになった。
「……で、これからどうすんだ?」
誠は自分でも答えが分からないまま、小さな声で言った。
「捕まると思う。だけど、母さんが自由でいられるなら、それでいい……」
「バカなこと言うなよ」悠真が珍しく声を荒げた。
「……いいか?お前一人で全部抱えるの、もうやめろ」
「でも、俺がやらなきゃ……」
「違う。お前が傷ついた分だけ、俺が一緒にいる。それだけだろ?」
その言葉に、誠は初めて救われた気がした。幼い日の秘密基地。二人で作った泥団子。壊れてしまった過去。……でも、今だけは手を離さずにいられる。
「じゃあ、……どうしたらいい?」
「逃げるぞ。お前と一緒に」
悠真はためらいなく言った。
「うちの親はほとんど家にいないからな。しばらく、誰にも見つからねぇようにしてやる。逃亡準備だ」
「……本当に、迷惑じゃないのか?」
「おまえが困ってて、俺が助けなかったら一生後悔するだろ」
壁の外の夜は静かで、月明かりが二人の肩を薄く照らしていた。誠は初めて、自分が本当に救われたような気がした。
*
逃亡の計画は、悠真の家庭環境ゆえ、思ったよりも現実味があった。悠真の父親はよく家を空けていて、母親は深夜勤務。財布から少しだけ現金を取ってもバレない。冷蔵庫の残り物やパン、レトルト食品やポカリスエットをリュックに詰め、二人は窓から外へと抜け出した。
「これ……まるで漫画みたいだな」
誠がぼそりと言うと、悠真はニヤリと笑う。
「漫画よりはヒリヒリしてんじゃねぇの」
公園の裏、ゴミ捨て場、夜のコンビニ。ひっそりと目を合わせ、「こっちだ」「あっち、人来た」と小走りに街角を逃げる。
夜の都市の奥深くまで、二人だけの路地を歩いた。ひとつのマンション脇で足を止めた。息を吸い込む誠を見て、悠真がぽつりと言う。
「なあ、もう一度だけ聞くけど、お前後悔してないんだな?」
「してない。母さんが無事なら、それでいい」
「……分かった。なら、俺も絶対に離れない」
悠真は真剣な顔で、誠の肩を叩いた。
「誠と二人でなら、何でも乗り越えられるって、ガキの頃から信じてたからな」
「……ああ、俺も、そう思う」
夜明けが近い。空は群青から薄青へと変わり始めていた。
「誠。俺たち、どこまででもいけるよな」
「お前となら。どこで暮らそうが、他人の正義に従わずに、もう何にも支配されずに自分らしく生きてやるよ」
*
ふたりの夜は、もう後戻りできない逃亡の序章となった。誠は手の甲に残る母の涙の感触と、父の最期の重さを胸に刻みながら、それでも歩みを止めなかった。ただ、隣に悠真がいてくれる。その事実だけで、暗闇の向こうにわずかな光が差すような気がする。
「ありがとな、悠真」誠は呟いた。
「礼なんかいらねぇよ。次はコンビニの裏を通るぞ――用心しろよ」
二人はもう一度、確かに手を繋ぐように、足音を揃えて夜の街へ消えていった。どんな未来が待っていようと、少なくとも今だけは、救いようのない世界に二人の居場所があった。