ニ 罪と決別
夜が明ける前の家は、不自然なほど静かだった。
ガラス窓の向こうで空が色づき始め、遠くから小鳥のさえずりが微かに聞こえる。その音の隙間に、まだ温もりの残る父の亡骸が横たわり、誠の膝の上で母が泣き伏していた。
この時間が永遠に続いてほしかった、と誠は思う。
――この時間こそ、母と一緒にいられる最後の瞬間だ、ともわかっていた。
警察を呼ぶしかない。母は震える手で携帯電話を握り、何度もためらった。
「……私が……やってしまいました。夫を……」
言い終わるころには、母の声はすっかり擦れていた。やがて玄関の外に、パトカーの赤色灯が灯る。近所の野良猫が驚いて走り去るのが見えた。警察官たちは手際よく現場を確認し、母と誠を別々のパトカーに乗せた。
「大丈夫だから、誠……ごめんね、ちゃんと警察には全部、私が……」と母はパトカーに乗る前に弱い声で繰り返す。
誠は黙って首を振った。大丈夫、ちゃんと俺が全部やるから――そうやって視線で訴え続けた。
*
取調室の椅子は冷たかった。人工的な照明が頭上でじんじんと鳴る。警官の質問は単調だった。
「きみが包丁を手に取ったのか?」
「動機は何があった?」
「暴力は以前から?」
誠は一つひとつに淡々と、間違わずに嘘を並べる。「僕がやりました。母は止めようとしただけです」
相手の表情が形だけで、その目の奥は何も動かない人形のようだった。
証拠も現場も、供述も、穴があれば誠はすぐに嘘を重ねて埋めた。本当のことなど、絶対に言えない。実際に、警察が家に来るまでに母に繋がる全ての証拠を消した。そして誠に繋がる痕跡を残してきた。今ばかりは、父に感謝をしなければ。父の暴力が無ければ必死に勉強などしてこなかっただろう。
この頭脳は、きっと父がくれた愛情なのだと。そう思いたい。
きっと、大丈夫。自分が母さんを守るんだ。
「母さんだけは守らなきゃ」――頭のなかで何度もその言葉が響く。
*
昼下がり、取調室に別の人物が現れた。身なりの整った初老の刑事。神崎、と名乗った。彼だけは、誠の顔をじっと長い時間見つめる。
「なぁ、誠くん。本当にきみがやったのか?」
誠はまっすぐに神崎を見返す。
「はい、全部僕が……父を……」
神崎は机に肘をついて、小さくため息をついた。
「母親を庇いたい気持ちは分かるが、な。“本当に自分がやった”と思ってるように見えない」
「……」
「だがな、正解なんてないんだ。自分が信じたもののために嘘をつくなら、その分だけ背負わなきゃならん。俺も若いとき同じようなことがあってな……誰かを守りたいと思ったとき、何を犠牲にできるか――それで決まっちまうんだ」
誠は口を結んだ。
神崎の声は優しかったが、誠の心を引きずり出そうとする強い力もあった。
「本当に君が庇えば、お母さんは自由になれる。けれど、君はまだ高校二年生だ。一人では生きられない、その代わりに自分が守りたいと望んだ家族を、もう一度作ろうとするとき……嘘の上に積み上げたもんは、やがて自分を壊すぞ」
「それでも、やります」
静かに、けれど強く、誠は言いきった。そうすれば神崎は小さく頷き、書類を閉じた。
*
やがて誠は児童施設に送られた。母親は事情聴取の末、家を離れることとなった。もう二人が会うことは無いだろう。
その夜、誠は窓辺でひとり泣いた。大声ではなく、ひっそりと、声を押し殺して。
母のぬくもりも、父の厳しさも、幸せだった日々も、すべてが遠い幻のように感じた。朝になっても、心の奥に穴が空いていた。「家族」というものが、一瞬で手のひらから零れ落ちていく。誰かを守ると心に誓っても、現実は何も変わらない。
施設の大人たちは、いかにも「面倒を見る」といった表情だった。だが誠は自分のことなど所詮“厄介なお荷物”だと薄々気付いていた。
*
その夜、誠はそっと部屋を抜け出した。眠っている子供たちの間をすり抜け、裏口の鍵を開け、冷たい夜風の中へ滑り出す。
行き先はなかった。世間は誠を罪人と決めつけ、家もなく、友人などもういない。
でも、自由だった。ただ一人、自分の足でどこまでも歩ける。母が無事でいてくれるなら、それだけで充分だった。
遠いコンビニの非常灯、絶え間なく続く国道の車のテールランプ。誠はふと立ち止まり、深呼吸する。これからどう生きていけばいいのか。
――誰にも教えてもらえない現実を今、初めて受け入れた。
「……大丈夫。俺は大丈夫だ」
そう自分に言い聞かせる。
けれど心の底では、不安と恐怖が夜風のようにざらついて彼を責め続けていた。