十六 夜の道を歩む者たち
アパートには穏やかな時間が流れていた。
闇オークション事件の残党だけでなく、紗希や子供達を攫った連中は夜凪組がきれいに片付けてくれたようで、あの日を思わせる危険な声や視線は、もう街から消えている。
とはいえ、誠と悠真、そして紗希にとって日々が平穏になったからといって、心の防波堤を下ろせるわけではなかった。
彼らが身を置くこの世界は、“表”の社会では見えない弱者や傷ついた者たちが埋もれる場所でもあった。
最近、二人は裏通りの不良やチンピラと絡むことが減った。無意味なトラブルも避け、目立つ暴力もふるわない。しかしその代わり、弱い者から搾取を狙う大人や少年たちを、陰で退ける場面が増えていった。
ある夜、誠と悠真は町外れの古びたアパートで、金をゆすられていたところを助けた老女に声をかけられた。
「この辺も、少しは安全になった気がするよ」
その言葉に、誠は静かにうなずいた。
裏社会という暗い水に、善も悪も飲み込まれながら、それでも「自分の正しさ」を失わずにいる。
それが、誠と悠真が選んだ道だった。
夜凪組との繋がりも、いまや特別な“庇護”ではない。楓は余計な干渉はしない。この男は誠たちの生き方を真っ直ぐに尊重していた。
「お前たちのやり方は、他の“ヤクザまがい”とは違う。この街に、拳だけでなく“名前”で相手を退ける奴も必要なのかもしれねぇ」と楓は言う。
誠は苦笑した。名が広まることで、もう後戻りができないことも、覚悟していた。
裏の酒場や情報屋、投げやりな若者たちのあいだで――
“あの二人に逆らうな”“あいつらは筋を通す連中だ”という噂が広がる。
三人の家――あのアパートは今も変わらない。
だが、紗希が居る事実自体が昔より危うい重みを持っていた。
ある日の夕方。
誠は古い路地裏で、母親に捨てられたという少年と向き合っていた。
「一人で強くなれるやつなんかいねえ。辛けりゃ助けを叫べばいい」
そう言い残して、少年に逃げ道を示す。
悠真は気の荒い若者たちから酔っ払い親父を庇い、「お前ら、そんなもんで虚勢張って誰が得すんだ」と、一喝する。
二人の“正義”は法では守れない者のためにある。
それでも、今更だっていい。絶対に罪人となる一線は超えない――そんなギリギリのバランスを、二人は本能で探り当てていた。
家に戻った誠たちを、紗希は静かに出迎えた。
彼女は今日も家の外を一歩だけ覗いただけ。けれど、誠と悠真が守っている“平和な時間”が、彼女に安心をくれる。
夕飯の後、紗希はぽつりと訊いた。
「お兄ちゃんたち……ずっとこうして“守る側”でいるの、苦しくない?」
誠は「しんどいこともある」と本音を漏らし、悠真は「お前の“ありがとう”で、全部帳消しだ」と笑った。
――三人きりのこんな静かな夜。かけがえのないものほど、町の闇は狙う。
夜遅く、誠と悠真は屋根裏部屋の片隅で小声を交わす。
「……俺らの名前、思った以上に広まってるらしいぞ」
「逃げ道は無いな」
「後戻りする気はない。紗希を、弱い誰かを裏切るくらいなら、ずっとこのままでいい」
静かに拳を打ち合わせる。
一方――
夜凪組の会合で、楓は幹部たちと短い会話を交わす。
「誠と悠真。あいつらはこの町の新しい“裏の柱”になる。余計な敵を作らせたくねぇ。……だから、お前らも分かってるな」
「はっ」
部下たちは楓の暗黙の意志を悟る。
夜凪楓は己が直接手を下さずとも、誠と悠真の“義”を邪魔させぬように町を見張り続ける。
これは任侠でもヤクザでもない、かつて誰も見たことがなかった“三人家族”のための、新しい時代の約束だ。
次の日、空き家の朝は静かに明ける。
紗希はゆっくりと目を覚まし、カーテンを一枚だけそっと開けた。
町のざわめきと眩しい陽射し、遠くを歩く誠と悠真。
彼女もまた、いつかもう少しだけ外に出てみようと思い始めていた。
彼らは戻ることはできない。
だが、進む先に小さくても“誰かの救い”があるなら。
三人で選んだこの日々が、誰かの生きる力になるなら――
そんな希望を静かに胸に灯し、誠と悠真、そして紗希の一日はまた始まる。