十四 静かな安らぎに手を伸ばす
廃工場の事件から数日が過ぎた。
古びた空き家の壁にはまだ冬の冷気がわずかに残っているが、窓の向こうに春の陽射しが斜めに差し込んでいた。
今日もまた、誠と悠真、紗希は三人家族として日々を過ごす。
今や三人は、誰にも縛られない兄妹のような絆でつながっている。
しかしここは裏社会で、誠と悠真はNIGHTLINEと呼ばれる犯罪者。見つかったらどうなるか、分かっている。それでも二人は、家族と呼べるものを手ばなしたくなかった。
今日は朝から雨模様。
天井を伝う雨音に、紗希は布団の中でじっと膝を抱えている。熱はないが、外に出る気力もない。
悠真は古い鍋に缶詰のスープを温めつつ、不器用な手つきでパンをちぎる。
「紗希、少しは食えよ」
兄として、言葉の端に優しさがにじむ。
紗希は頷いて小さなパン切れを受け取る。その手は冷たかった。誠は毛布をもう一枚かけてやり、ため息をつく。
「ねえ、外の世界って、ほんとに綺麗なことだけじゃないんだよね?あの楓って人も、りりかお姉ちゃんも良い人だった。それなのに、悪い人なの?」
紗希が、唐突に言った。
「外に出たらきっと、また怖い人が来る気がして……」
誠は黙って紗希の頭を撫でる。悠真は「俺たちがいる限り、誰も近づけさせねえよ」と断言した。
あの事件以来、紗希は再び明るさを仕舞い込み本当に外へ出なくなった。
紗希が手にした小さな勇気は再び消えていく。
家の中で、古い絵本を手にひたすら読み耽ったり、ほんの時々、誠たちの隣で毛布にくるまれて眠るのが日課になっていた。
午後になると、小さな物音とともに訪問者が現れた。
ピンク色の髪をハーフツインにした姿が印象的な蝶野りりか。事件で紗希と知り合った、あの夜凪楓の婚約者だ。
りりかは用事で偶然近くを通りかかり、手土産に焼き菓子を持参してきたのだった。
「こんにちは、紗希ちゃん」
りりかはやわらかな声で、けして家に長居はしない。けれども紗希に友達の様に笑みを向ける。紗希にそっと小さな包みを渡す。
「元気がないって聞いたから……無理しなくていいけど、ほんの少し、お菓子を一緒に食べない?」
紗希は、最初は警戒して身をこわばらせていた。体験した恐怖が抜け切らない。だが、りりかがにこりと微笑み、小さな焼き菓子を並べてみせると、それに引き寄せられるように手を伸ばした。
しばらく三人と一人で、ささやかな午後の時間が流れる。
外から子どものはしゃぐ声が聞こえるけれど、この家には静けさだけが満ちていた。
りりかは紗希の手を握り、「あの夜、怖かったよね。でも、紗希ちゃんが勇気を出して耐えてくれたこと、私はずっと忘れない」と、低くささやいた。
焼き菓子がなくなるころ、りりかは「また近くに来たら、顔を見せてもいい?」と訊く。
紗希は声には出さず、小さく頷く。その様子を見て、誠と悠真は目を合わせ、無言でうなずいた。
夕方、古家の薄暗い明かりの下、三人は静かな食卓を囲んだ。
大きな夢もない、贅沢もない。けれど、“家族”と呼べる空気がそこにはあった。
「この家、雨の日だけは、ちょっとだけあったかい気がするな」と誠が冗談を言い、「バカ言え。誰かの体温があるからだろ」と悠真が返す。
紗希はおぼつかない笑顔で、その二人の声を聞きながら、今日もまた家の中でそっと息をしていた。
この時間だけは守りたい。
誰にも知られない、誰にも奪えない。
三人きりの家族が、小さな空き家で静かに春を待っている――。