一 壊れゆく家族
父が仕事を失ったのは、誠が十一歳の冬だった。
細く寒々しい陽射しと、失業通知の紙切れ。あの日から、すべてが変わり始めた。
最初のうちは、家の空気もまだどこか穏やかだった。母はなるべく明るいニュースだけを流そうとし、朝は必ずパンとゆで卵を用意してくれた。父は職探しに出かけ、帰ってきてはため息をつき、たまに「明日は面接がある」とぼそりと呟くだけ。それでも食卓に家族が並び、話すべき話題がなくても皆で黙ってテレビの画面を眺めていた。
だが春が過ぎて、夏が終わるころには、父の顔の影が濃くなっていた。以前の父からは想像もできない程やつれて、就職先は見つからず、母が夜遅くまでパートに出るようになると、家族の間の会話はますます減った。父は飲酒を覚え、台所には焼酎の瓶が大量に転がった。食卓の空気はどこまでも重く、遂には母の表情まで消えてしまった。
やがて父の怒りが、家族全員にまで向くようになった。母が夕飯用にと買ってきた安売りの肉を「貧乏くさい」と殴り捨てる。誠のテストの点数が平均より低いとわかると、声を荒げて机を叩いた。ほんの小さなきっかけで、家の中に父の怒号が響くようになった。
誠は自分の部屋の隅に身を潜め、息を殺してその音をやり過ごした。眠る前、古いこたつ布団に自分を守るかのように包まりながら小さな声で「神様どうか明日は昨日よりマシな日になりますように」と祈った。だが祈りは届かず、父の機嫌はさらに悪く、母の肩や腕には大きな青あざが増えてゆく。
ある夜、誠はふと気づく。家のあちこちから、かすかなカビと、古いアルコールの匂いがする。幸せな家族の匂いはしない。洗濯物はいつも部屋に干しっぱなしで、母は痩せこけて、父の大声が天井を揺らしながら這う。小さな頃は誕生日の夜に父がケーキを買ってきてくれたこと、母がサプライズで本をくれたこと――そんな日々は永遠に戻らないと思い知った。
高校二年の冬の終わり、母は誠にこう言った。
「誠、ごめんね。大きくなったら、夢を持って生きてね」
その時、母の瞳には光さえもなかったような気がした。
だが、それでも誠は「家族」への期待を手放せなかった。大きな声で怒っても、酒に酔っても、父親であり続けてほしかった。母が、笑顔でまたお弁当を作れる日が来るとそれだけを信じた。
しかし、現実はあまりにも無慈悲だった。
*
いつも通りの夜のはずだった。
財布に百円玉がひとつ転がるだけ。冷蔵庫には卵と大根しかない。母は疲れた顔で安物の鍋をかき混ぜていた。父は居間のソファーにどかりと座り、手には安酒の瓶がある。テレビの音は大きいのに、家族の声は蟻のように小さい。
「おい!おかわり」父が乱暴な声を投げる。
「あ……もう、それで最後なの。もう誠の分しか無くて」
「なんだと?」父の声が低く鋭くなる。
母の手がちいさくカタカタと震えている。どうして気づかなかったのだろう、この家がもうとっくに限界を迎えていることに。父は舌打ちをして机を蹴飛ばすと大きな足音で床を震わせながら部屋へと戻った。
その晩、母は誠の寝室の前に立ち、そっと声をかけた。
「誠。怒らないで聞いて……今月から、お父さん、仕事うまくいかないって……」
「知ってるよ」誠は声を抑えた。「全然、平気だよ」
母は何度も「ごめんね」と言い残して寝室へ戻っていった。
だが、夜更け、ふいに怒号が響いた。
「ふざけるなよ!誰のせいで……!」「お願い、やめて……!」
誠はびくりと身体を固め、しばらく布団の中に潜ったが、しだいに叫び声の大きさに堪えきれなくなり、慌てて居間へと駆けた。
父が母の髪を掴み、乱暴に引きずろうとしていた。殴られたのか、口は切れて血が垂れて、頬は赤く腫れ上がっていた。母は顔を歪め、「やめて!」と叫ぶが、父の腕はますます乱暴になる。
これ以上、壊れないで。
「いいかげんにしろよ!」誠は思わず父の背にしがみつき、渾身の力で引っ張った。
だが、誠の力など取るに足らず、一瞬で投げ飛ばされる。床に激しく体を打ち付けられ、息が詰まった。耳の奥で母の泣き声が揺れる。
「おまえまで逆らうのか!」
父の声はまさに狂気そのもので、誠に有無を言わせず足蹴にした。あまりの痛さに蹲る誠。足元で母が震えながら立ち上がる。
そして再び、父の怒号――
その刹那、包丁の銀色が、キッチンの明かりに反射した。
「やめて!」
それがここ最近の中で一番大きな母の声だった。
次の瞬間、鋭い金属音。深い衝撃音。空気ごと時が止まったかのように、父がその場に崩れ落ちた。
「……ああ……そんな……やだ……」
母の声は掠れていた。母は両手で顔を覆い、床に膝をついた。彼女の指の間からぽろぽろ涙がこぼれる。
誠は呆然と立ち尽くした。父の体からじわじわと血が広がっていく。誠が小さな頃、父は大きくて優しい存在だった。その父の顔は今、苦痛と驚愕に満ちて、どこか遠いところへ行ってしまったようだった。母が誠を見上げた。目に浮かぶのは絶望、恐れ、そして何度も何度も繰り返される謝罪の言葉。
「……ごめんね……誠、本当にごめんなさい……」
母の震える肩に、誠は両手を伸ばした。涙が零れそうになった。
「大丈夫、母さん。大丈夫だよ」
「……そんな……できない、私……もう……」
「俺が全部、やったことにするから」
母は首を振る。「誠、だめ。そんな、あなたが……」
誠自身もわかっていた。自分にはどうしようもない現実。それでも、この選択肢しかなかった。
家族は壊れてしまった。でも、母だけは守りたかった。
「母さんは、もう、何もしなくていいよ。逃げてくれ。俺が全部背負うから」
母の温かい涙が誠の手にぽたりと落ちた。「ごめんね、ごめんね……」
誠の心は震えた。けれど、決意だけは硬かった。
どんなに間違っていても、どんなに惨めでも、誠は母を守ると誓った。
――夜明けが、緩慢に、静かに近づいてきていた。