第九話
「シュンくん、恋してるでしょう?」
ピアノ教師のおばさんが、マリと同じことを僕に聞いた。
「何を突然。」
僕は苦笑いするしかなかった。
「恋と音楽は、とても相性がいいものよ。恋をすれば、音楽は格段にうまくなる。」
僕の場合はちょっと事情が違うんだけど。
しかしもちろん何も言い返せなかった。
「ほんとに、ずいぶん良くなったわよ。きっといい発表会になるわ。」
たしかにいい演奏ができるだろう。この夏僕は、なんとなくピアノを弾いていたのではなかった。
この夏僕には、マリというこの上ない教師が付いていて、いつもの僕からは信じられないぐらいに練習した。
でも、それもこの演奏で終わり。視聴覚室の夏も終わりだ。
僕はステージに上がり、熱いスポットライトを浴びた。
一礼をして、ピアノに向かう。
グランドピアノの黒い肌が、そして鍵盤も、ライトを浴びてまぶしく輝いていた。夏の、白い光か。
だけど、僕にとってこの夏は、光る白い砂浜ではなかった。
僕にとってのこの夏は、蝉時雨の降る蒸し暑い視聴覚室だった。
視界の端に、マリが座っていた。
やっぱり来たのか。僕はもう、マリの前でピアノは弾かないと言ったのに。
マリは綺麗だった。
暗い客席の端で、その美しい瞳を輝かせて、僕を見ていた。
僕は必死で指を動かした。願わくば、僕の心の内が、彼女に届くように。
気づけば、マリは泣いていた。
観客の数は知れてるから、拍手喝采とまではいかないけれど、客席のみんなが暖かい拍手を送ってくれた。
舞台袖から重い防音扉を開けて廊下へ出る。
客席へ戻る廊下を歩いていると、向こうからマリが走ってきた。
「シュンくん!」
マリは、清々しく晴れ渡ったような極上の笑顔で言った。
「ありがとう。」
「うん。」
その一言で充分だった。
僕は手放しで、マリを抱きしめた。
涙が出てきそうだ。
僕がこの夏、なんの為にピアノを弾いてきたのか、思い出した。
「シュンくんこれからも、ピアノ、聴かせてね。」
マリがくぐもった声でそう言う。
「うん。」
僕は何度も繰り返しうなづいた。
僕は、何度でもピアノを弾こう。僕のピアノが、マリにとって好ましいものを伝えることができるのならば。その笑顔を見ることができるのならば。