第八話
注:作品中に登場する「共感覚」という言葉について。
以下はWikipediaからの引用です。
共感覚(きょうかんかく、シナスタジア、synesthesia, synæsthesia)とは、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。 例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。 英語名 synesthesia は、ギリシア語で共同を意味する接頭辞 syn- と感覚を意味する aesthesis から名づけられた。感性間知覚。
検索していただければ「共感覚」についての情報を掲載したサイトはたくさんありますし、「共感覚」についての書籍も出ていますので、詳しく知りたい方は調べていただきたいのですが……
作品中に出てくるマリの感覚は、実際の「共感覚」とは全く異なるものです。「共感覚」の持ち主が、音楽が上手いから綺麗なものを見る、感情が音に表れているからその感情を映像としてみる、などということはあり得ません。これは作者が「共感覚」にヒントを得た架空の能力であり、完全なる創作です。あくまでこの作品は「ファンタジー」ですので、架空の物語、現実には有り得ない話としてお読みください。
不快に思われる方もいらっしゃるかとは思いますが、あくまで素人の習作ということで、ご了承いただければと思います。
「シュンくん、またうまくなったね。」
次の金曜日、何もなかったかのように視聴覚室に現れた彼女は、うれしそうにそう言った。
「でも……ときどき、なんだか切ないものを感じる、シュンくんのピアノに。」
あるとき彼女は言った。
それは、ピアノの発表会を目前にした、夏休みも終わりに近づいたある日のことだった。
「シュンくん、もしかして恋してる?」
マリが突然僕にそんなことを言った。
僕はとっさに大きく首を振った。
「恋……?何でまた突然。」
僕は言いながら、自分の顔色が変わっていないことを祈った。
「嘘だよ。だって、ときどき女の人が見えるよ、髪の長い、」
「待て待て……っ!何だよそれ?そんな、具体的な映像も見えるわけ?海、とか花畑、とかじゃなく?」
僕は焦ってマリの言葉をさえぎった。
これはまずいことになったな、と思った。
「映像と言うか、そんな感じ、っていう程度なんだけど。……こんなことは初めてなんだけどね。シュンくんは特別なんじゃないかな?シュンくんがうまくなるたびにどんどんリアルになるんだもん。匂いを感じたり。」
「……弾いてよ、気になるから。」
マリは無頓着にそんなことを言う。
弾けるかよ、と思いながら、僕はこの事態をどうするか思い悩んでいた。
「ずっと、気になってたの。初めてシュンくんのピアノを聴いたときから。」
「初めて、聴いたときから……?」
「うん。夏の海と、夏の匂いと、女の人のイメージ。それがなんだか切なくて、綺麗で。だから、惹かれたのかもしれないんだけど。」
僕はぎくりとして立ち上がった。
夏の海と……?
「なんだよそれ……!?俺の、それが、俺の心の中なのか?それが見えるって言うのか?」
僕はたまらずピアノの蓋を閉めた。
僕の指がすべり、バタンッ、と激しい音をたてて重い蓋が落ちる。
「俺は……俺はもう、お前の前でピアノは弾かない!!」
僕は、ピアノを弾くたびマリの目の前に全てを曝け出していたのだろうか。
「待ってよ、シュンくん、待ってよ!」
僕は追われるようにその場を去った。
がむしゃらに自転車のペダルを踏みながら、僕の心はマリの言葉に囚われていた。
夏の海。
そうだ。それは、僕の初恋だ。
中学3年の夏、十も年上の綺麗なピアノ教師が好きになって、一人で舞い上がって……僕がピアノを続けたのは、悔しかったからだ。まだ子どもの僕をからかって、でも、何度も好きだと言って、だって、僕はまる1年も彼女と一緒に居たのだ。それなのに、僕に何も告げず、突然綺麗な花嫁になってしまった。僕はピアノを止めなかった。だって悔しいじゃないか、彼女に捨てられたからピアノを止めるなんてこと。だけど……、
もうとうに忘れたと思っていた。なんで今更あんな奴が出て来るんだよ。未だに自分はあんな奴に囚われているのか、そんなものを、音に表そうとしていたのか、いったいなんで、マリにそんなものを見せなきゃならないんだ!
マリが悪いわけではないのは分かっていた。
でも、僕はもうとても視聴覚室へは行けなかった。
マリが音楽に映像を見るのだとしたら、それが演奏者の心を映すものだとしたら、彼女はいったいいくつの心を見てきたのだろう。けして美しいものだけではないに違いない。
彼女の目に映るものが見てみたいと思った。彼女が見る世界を見てみたいと思った。
そして、発表会は目前に迫っていた。