第二話
その日の放課後、僕は週に三日しかない軽音楽部の練習をさぼって、音楽室へ向かった。
授業が終わってわりとすぐに来たつもりだったのに、音楽室のグランドピアノには先客がいた。
僕は少し落胆しつつ、グランドピアノを諦めて、教室の後ろの壁際に寂しく置いてあるアップライトのピアノを開けて弾いた。
マリが来ることを願って。
果たしてマリはやって来た。今日は泣いていない。
「シュンくん、ちょっと。」
マリは音楽室の外から手招きをした。
マリは僕の名前を知っているのか。そう思いながら僕はピアノを弾きさして彼女のもとへ向かった。
「場所、変えない?」
「は?」
なんのことを言っているのだろうと、またもやどぎまぎさせられて、でも僕は彼女について行った。
そこは視聴覚室と呼ばれる教室だった。
スクリーンと、スクリーン並みの大きさのあるテレビと、整然と並ぶ机と椅子。
その片隅に、たしかにグランドピアノがあった。
こんなところにピアノがあったなんて、今まで気が付かなかった。
「私、音楽が混じるの、ダメなんだよね。だから、音楽やりたかったけど、やらなかったの。……っていうか、やれなかったのよね。吹奏楽とか、コーラスとか。」
「混じる……って?じゃあ、あれ?絶対音感かなんかなの?」
絶対音感を持つ人は、日常の音でもそれを音階の中の音としてとってしまって、音と音がぶつかって気持ち悪いのだと聞く。
「うん、……まぁそんなようなものね。私のことはいいから、弾いて。ここなら心置きなく弾けるでしょ。」
マリは細い腕を後ろ手に組んで、軽く首を傾げるようにしてそう促した。
君が居る時点で心置きなくはないんだけど……。そう思いながらも僕は弾いた。
正直自分のピアノを褒められるのは初めてだった。
小学生の頃から長年ピアノを弾いてきたが、それほど練習熱心でもなく、遊びのような僕のピアノは、音大に行く人たちのそれのようにスキルが高いわけでもなく、つまり完全な趣味で、特に人の心に響くようなものではない、と思っていた。
でも彼女は、一番近い椅子を引き寄せて座り、心地よさそうにいつまでも僕のピアノを聴いていた。
彼女が音楽に合わせて体をゆったりと揺らすたびに、長い黒髪がさらさらと揺れていた。
「部活があるからさ、今度は金曜に弾きにくるよ。だから、よかったらまた、聴きに来て。」
僕は少しいい気になって言った。
「分かった。ありがとう。」
マリは、軽くうなづいてそう言った。
いったい僕のピアノのどこがそんなにいいのだろう。
マリが飽きもせず小一時間も僕のピアノを聴いていたことがほんとうに謎だった。
しかし彼女は、それから、毎週金曜日に必ず放課後の視聴覚室へ僕のピアノを聴きにくるようになった。
そして僕の方は、家へ帰っても一層練習をするようになった。
彼女によりよいピアノを聴かせてやりたかったからだ。純粋に、そのことだけに精一杯だった。
なぜなら、彼女も僕のピアノを聴くことに精一杯だったからだ。
彼女はいつも、その瞳を輝かせて僕のピアノを聴いていた。
そんなとき、僕は一層その不思議な美しい瞳に惹き付けられた。
「夏の匂い。」
「海の香りがする。」
あるとき彼女が思わずと言ったように、声を震わせてそう言った。
初めて会った時つぶやいたような、夢見る少女の口調だった。
彼女は時折こうやって、むやみに詩的なことを言う。
「シュン、本当だよ。シュンがうまくなる度に、どんどんリアルに感じられるの。夏の海、夏の光が。」