第一話
マリは美しい瞳をした女の子だった。
けぶるように睫毛の長い、切れ長の大きな目で、しかし何よりもその真ん中にはまった双眸が、いつも僕の心をとらえて離さなかった。
マリに初めて会った時、彼女はその目に涙を溜めて僕を見て、僕を通り越えてもっと遠い場所を見ていた。
放課後の、誰もいない音楽室で、僕は一人ピアノを弾いていた。
暑い夏の一日だった。
古くさい木製の窓枠にはまったガラスから西日の差す、オレンジ色のあの夕暮れのことを、僕は今でも一枚の絵画のように思い出す。
「光が……溢れてる。」
僕はピアノを弾く手を止めて、ふらりと現れた少女を訝しげに見返した。
彼女は音楽室の入り口に突っ立っていた。
灰色のプリーツスカートと白いブラウスから伸びた、すらりとした長い手足と、腰のある豊かな黒髪。
僕は耳を疑った。
今この子、何か言ったか?
この子が言ったのか?
涙が一粒、耐えかねたようにこぼれ落ちる。
音が止まったのに気づいたのか、彼女ははっと我に返ったようにたじろいで、涙を拭いた。
「ごめんなさい、私ちょっと、感受性が強くて…」
彼女はそんなようなことを言って、ごまかすように笑顔を浮かべた。
変なやつ。
僕は、あまりのことになんと返していいのか分からなかった。
「すごく上手ね、ピアノ。」
「え……、ど、どうも。」
僕は戸惑いながらようやく答えた。
「今の曲、海の曲?」
海の曲……?
「いや、……海って言うか……舟歌だよ。ヴェニスの、水路を渡っていくような。」
「そう、舟歌……。でも、君のは海だね。夏の海。光がいっぱいの。」
僕はますます戸惑ってしまった。
変な子だな。顔はわりといいのに。
たまにこういう夢見がちで少女趣味な女の子っているもんだよな。
「いつもここで弾いてるの?」
「え、まぁ……家に帰るとやらないからね。放課後、学校で勉強するみたいなもんだよ。」
僕はその時、夏の終わりに予定されているピアノ教室の発表会に向けて練習をしていたのだった。
ピアノは嫌いじゃないが、家に帰ればテレビとか漫画とか、誘惑がたくさんあるから、どうしても弾くようにならない。
「また、聴きにくるね。……あなたのピアノ、すごく素敵。」
そう言って微笑んだ彼女は来たときのようにふらりと去っていった。
“あなたのピアノ、すごく素敵”?
よくもそんなセリフをあんな風に悪びれもせず口に出来る高校生が今日びいるものだ。聞いているこっちが居た堪れない気持ちになる。
また聴きにくると言っていた。
僕は少し、困ったな、という気がしていた。
でも、彼女の不思議な瞳と、可憐な姿に惹き付けられないものがないわけでもなかった。
かわいい女は得だな、と思った。
翌日、学校の廊下で、彼女を見かけた。
彼女は数人の女友達と楽しげに話をしながら歩いていた。
僕はその姿に釘付けになった。昨日はそれほどにも思わなかったが、日常の中で、一般的な女子高生たちと比べれば、彼女はかなり可愛かった。
僕は再び戸惑ってしまった。
昨日、ピアノを聴いて、涙を流してわけの分からないことをつぶやいていた彼女と、同一人物には思えないほどだ。
「あの子、なんて子?」僕はとっさに隣にいた友人に耳打ちした。
「え?あの髪が長いやつ?5組のマリだろ。かわいいよなぁ。」
マリ。
彼女は僕と同学年の、二つ隣のクラスの生徒だった。