6.夢映し
「稲佐の浜、稲佐の浜……っと、ここかあ」
継から説明された話をもとに、鳴は家に帰って早々地図アプリを開いてみた。
稲佐の浜。出雲市にある、国譲り神話の舞台となった場所。
毎年神在月になると、神迎えの儀式がそこで行われ、全国の神々をお迎えするのだ。
画像検索すると、広い浜辺にぽつんとした岩山があるだけの写真があった。岩山の上には鳥居が建っている。
「それで速玉様は、ええと、名前なんて読むんだろ」
「御尊名を建御雷神様というのですよ。鳴は恐れ知らずね」
部屋にどこからともなく、はたた姫が現れた。
空中にふわんと着物を翻し、横座りをしている。
「あっ、姫。姫に用があるすごい鹿が来てて」
「姿は消していても、わたくしは末端とはいえ神の一柱。使いがあったことは知っています。速玉様もわたくしの事情をご存じでしょう。まったく、鳴が気軽に接するから冷や冷やしたでないの」
はたた姫は鳴の正面に回り込むと、注意するように指を立てて振ってみせた。
「雷神であり武勇の神であらせられるから、度胸があることに不興は抱かれないでしょう。ですが、くれぐれも気を付けるのよ。あの御方の雷は、それはそれはすごいのだから」
「神話にも出てた、すごい神様だから?」
「そうよ。なにせ鹿島様であり、あの春日の御方ですよ。鳴も都のほうにいたのなら、知っていないはずはないわ!」
「いやあ、神社とか寺とかあんまり興味なくて……あっ、あの有名な大社はわかる」
「信じられない!」
鳴の言葉に、はたた姫が悲鳴混じりに言う。
「出家しろとまで言わないけれど、鳴は無教養がすぎます!」
「雨田にも同じこと言われた」
「まあ! 余程じゃないの」
はたた姫は、継と同じように嫌そうな顔をしてみせた。
こうしてみると、継がはたた姫の子孫で血のつながりがあると思わせる。表情がふとした時に似ているのだ。
「継は信心や畏れがあれど、わたくしを敬う心が足りないわ。夢枕にでも立ってやろうかしら」
「あー……でも文句は言ってても、協力してくれるみたいだよ」
鳴は言いながら、あの後の継の様子を思い返した。
面倒そうな顔をしながらも、「俺が全部正しいこと言ってるわけじゃないかもしれんし」とスマホで調べて補足しながら説明をしてくれたのだ。そして、探すなら部活があるから次の土曜午後ならいいと予定もきちんと立ててくれた。
(割と真面目だったなあ。ばあちゃん子みたいだし)
鳴自身が祖父に甘えているところもあると自覚があるだけに、親近感が少し湧いていた。話してみて意外ととっつき易かったというのも理由に上がる。
とっつき易いといえば、はたた姫の存在も同じようなものだ。
ふよふよ浮きながら話す少女の姿も、一日経てば見慣れてしまった。話す口調が砕けても咎められないとわかってからは、そのままだ。
「ですが、もう速玉様のご挨拶が来てしまったのね。早くしないと」
「そういえば、お忌みが近づいたって言ってた」
お忌み。すなわち、お忌みさん。
神在月のときは静かにするべしという、出雲地方に伝わる暗黙の了解のことである。神々が集まり会議をする妨げにならないよう、住民は静かにして過ごすという習わしだ。
継が説明したときには、もはや形骸化したルールらしいが、継の家は律儀に守っているらしい。不便でないのかと思ったが、そういうもんだったし別に、というのが彼の感想だった。
お忌み、という言葉にはたた姫は少女らしい顔に嫌悪感を浮かべた。
「毎年毎年、神々が集まるからとあわよくばを狙う悪鬼が跋扈するのです。まこと鬱陶しいったら。鳴もこの地に暮らすのなら、感謝を忘れてはなりません。速玉様をはじめとした猛々しい神々が追い払っていらっしゃるのよ」
「ああ、それがお忌み荒れなんだ」
「そうね。民草はそう言うわ。特に昨今は激しくていけません」
今度は難しい表情を作ると、はたた姫は続けた。
「それに、我が国は年々子らが減るため、良き縁をと神々も頭を悩ませているのよ。すると、話に盛り上がり過ぎて乱暴者の神が天候を荒らしてしまうのです」
「神様にまで少子化の心配されてるんだ、今の日本……」
「もともと神在月の集まりは、縁結びの会議なのですよ。鳴も関係あることなのだから、覚えてなさい」
「ううん、はい」
気のない返事をすると、じろりと睨まれた。丁寧に返事を直すと、よろしいとばかりにはたた姫はうなずいた。
「ともかく。天候が荒れ、災いが蔓延するのは望ましくありません。速玉様たちの雷で悪鬼災厄を散らし、わたくしが雷を受け止め跳ね返し、空を晴らすのです」
「ずっとそうしてきたの?」
「わたくしが仰せつかったのはもう随分前。氏神で避雷に縁があるわたくしが一番適役なの。選ばれし特別な使命なのです」
そこまで言うと、褒めてほしそうにはたた姫は胸を張った。
「姫も、すごい神様なんだ」
「ふふん、そうなのです」
鳴が軽く拍手すれば、頬を上気させてはたた姫は言った。
「そうねえ。わたくしの凄さを、夢で伝えてさしあげます。ついでに継にも。楽しみにしておきなさい」
「おおー、神様の夢。はじめて見る」
「そうでしょう、そうでしょう。ついては、鳴。わたくしにお神酒と進物を忘れぬように。わたくし、果物がいいわ」
「私がお酒買うのは無理だから、おじいちゃんに頼んでみよっか。いい日本酒があるかも」
「まあ! あなたって、若君様より胆力と物分かりがよくて素敵よ、鳴!」
にこにこと微笑むはたた姫に、鳴は小さく笑い返した。
こうしていれば、可愛らしいマスコットみたいな少女だ。それに非日常的なことに、わくわくする気持ちもどこかであった。
(巻き込まれたなら、もう成るようにしかならいし。良いほうにいくようにせめて頑張ろう)
階下の台所に早速降りてみるべく、ドアノブを回して廊下に出る。鳴を通り抜けて飛んでいくはたた姫は、階段途中で実体化すると軽やかな足音を立てて降りて行った。
「鳴も早く降りてきなさいな」
機嫌のよい少女の声に、鳴は「はあい」と返して下へと向かった。
*
その日の夜。
夢の中で、鳴は「はたた姫」だった。
平安時代の御貴族様のような、重たい着物を何枚も着ていかにも高そうな調度品に囲まれた部屋にいた。
長い黒髪を床に散らして、寝そべっている姿は姫様らしいとはいえない。けれど、はたた姫にとってはそれが普通だった。すぐに家の使用人らしい女性が血相を変えて注意をしてくるのだ。
言葉はいつも決まっている。はしたのうございまする、だ。
――いいのよ。そんなわたくしが良いと仰る御方がいるもの。
都から旅に来たという、貴人。涼やかな白い肌の男だった。一目見て、気は通じ合った。
彼は生き物に優しく、はたた姫を奇妙な目で見ない優しい人だ。
姫が語った昔の生き物たちとの遊びも、共に興じて同じときを慈しんでくれた。今は役目があり、あまり来れないが、きっと帰ってくると約束をしていた。
――なにが捨てられたですって? 約束を守らぬ御方ではないわ。
ふん、と鼻を鳴らして起き上がる。ばたばたとした足音が聞こえてきたからだった。
身を起こして、見苦しくない程度に整えると御簾の向こうにやってきた人物に視線をやった。
やってきたのは大人の男で、はたた姫の父だった。
「姫や。お前に聞いてもらわねばならない話がある」
「父上、なんでございましょう」
「宮の若君との話だが、末の姫に譲ることとなった。末姫がちょうど都に行儀見習いとして入る。ちょうどよかろう」
宮の若君。あの御方。譲るとは。
はたた姫は息をのんだ。それが聞こえているはずなのに、父親は落ち着いた声音で話した。
「お前には、才がある。国の法師からのお達しもあったのだ。治水、悪病、世を平らかにするため果たさねばならぬ」
「才など、そんなもの」
「果たさねばならぬのだ」
「そんなもの……! 若君、かの君は」
「お前が心配することではない。するべきは、お前が思う若君のいる世を鎮めることだ」
はたた姫が御簾の向こうで立ち上がっても、父親はそれを見て背を向け静かに出て行った。その背に向けて、はたた姫は近くにあった物を投げた。御簾にぶつかり、小道具が落ちていく。
「おのれ。おのれおのれ! なにが。なにがなにが!」
心が千切れそうだ。いや、それよりも沸々と熱い煮え湯のように憤怒が心を占めていった。
悲しみに打ちひしがれることは、したくなかった。屈して膝をつくなんて、はたた姫の矜持が許さなかったのだ。
荒々しく床を鳴らす。憂う自分の心ごと、何度も何度も踏みつけた。
はたた姫の怒りは決して鎮まらず、最後まで続いた。恐怖に歪む顔にならなかったのはそのおかげだった。
頼みの綱も、末の姫の便りで千々に消えた。宮の君はいなかったと、そう言うのだ。かの君との思い出の鏡を抱えて、ひどく虚しくなった。それでも捨てられなかった。
以来、怒りを燃料に変えて自分を保ってきた。
豪奢な着物ではなく、質素でつつましい着物に変えられ、家宝だなんだと財宝と供物を無理やり持たされて小高い丘に運ばれていく。
先端を金属で飾った櫓の上。はたた姫は台座に固定され、悪天候の中で置き去りにされた。ごろりごろりと、遠雷が鳴り響いている。
それはさらに激しく、強くなった。雨が振り、稲光りの間隔が狭まっていく。
とうとう、太く見事な雷が櫓めがけて貫いた。
――今に見ておれ! わたくしは、くじけてここにいるのではない!
体を雷に焼かれながら、最後までそう思って姿勢を崩さなかった。ひたすらに念じて、念じて、視界さえ真っ白になった後も。
はたた姫は、雷に打たれ続けながら人の生を終える最後まで凄まじい根性と執念で一心に念じた。
そして、次に目を開ければ光にあふれて真っ白に染まるなか、こう声をかけられた。
「末席とはいえ、信仰があり、神となりさえすれば。この地でそう成ったからには、雷の一つは祓えよう」
男とも女とも聞こえるような、摩訶不思議な声。しかし不思議と敬い畏れを抱くような声に、はたた姫は平服した。この存在が、自分より上だとすぐにわかった。
いつの間にか、自分の身なりはまともなものになっていた。焼け焦げた皮膚も髪も元通りとなっている。
「霹靂姫命。これよりそう名乗り、この地の守りを任せる」
有無を挟む暇もない。ただ、さらに深く頭を下げた。
「お前はこれより、この地に来る悪鬼災厄を祓うべく尽力するのだ」
「拝命いたします」
声も普通に出た。はたた姫は、内心で高笑いをした。
――ああ、ああ。今に見ていなさい皆の者! わたくしの守りなしにいられなくしてくれよう!
再び平服する。ころりと銅鏡が転がる。裏側にはたなびく雲が描かれた美しいものだ。しかし鏡面は、ひび割れていた。
思わず、はたた姫は恐る恐る鏡面に触れた。思い出の品だった。頼みの綱と、よすがと抱いていた鏡。待ち望んだ人はとうとう来なかった。それでも、今もこんなにも心が残っていた。ひび割れた有様が自分と同じようで、つい、抱え込んだ。
それを見て、声の主は「ふむ」と思案気に言った。
「鏡造りに長けた神に、あてがある。それを直すゆえ、今後はそれを用いるとよい。助けとなるだろう」
鏡を取り上げられると、さらにあたり一帯は白んでいった。
次に目が開いて、あたりの景色を鮮明に移すころ。
すっかり様子が変わってしまっていることに、はたた姫は気づいた。
「えっ、何。戦乱? 何なのです。わたくしの土地となった場所に、争いを持ち込むのは誰です! あっ、若君似! おのれえ、そこで何をしているの!」
くすぶる怒りのまま、いつの間にか治っていた鏡を用いて、戦の炎や雷を跳ね返した。
そうして時代が下り、矢の代わりに銃が飛び爆弾が出るようになるまでずっと。
憤怒はいつしか和らぎ、土地の暮らしを眺めて心を慰められていることに気づいてからは、さらに励んで守った。
さすがの世界大戦は、ひどく疲れてしまった。一介の氏神が介入するにも無理があった。
だから、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ眠って休もうと思った。
はたた姫の神器となった鏡さえあれば、眠っていても役目は果たしてくれるから。
いつの間にやらできていた、自らの住処となる石造りの祭壇に寝そべって、はたた姫は云百年ぶりの安らかな居眠りを始めた。うつらうつらと頭が揺れ、意識は暗がりにやがて落ちていった。