3.姫の襲来
鳴が帰って真っ先にしたのは、台所の神棚にお酒と塩を供えたことだった。
慌ただしく用意をして、光生の奇妙な顔も気にせずに、鳴は柏手を二回打ってお祈りした。いつもは古臭いただのインテリアのように思えていた神棚を、今日ほど頼りに思ったことはない。
しかし鳴にとって、墓で感じた恐ろしさはじわじわと染み込み、後々から尾を引くものとなった。
隅がなんとはなしに気になったり、鏡の後ろに何かがいるような気がしたりと、どうにかベッドに入って眠るまで長い時間が経ってしまったのだった。
ただ、拝んだおかげが効果を発揮したのだろうか。翌朝はいつもと変わりなかった。
日常の朝にどれほど鳴は安堵しただろう。
やはり気のせいだった。そうに違いない。
何度も言い聞かせて記憶に蓋をしようとした、その数日後のことだ。
十月の朝。
部屋のカレンダーを破って、神在月、と書かれた文字を追いかける。いつも通りの朝だ。
たん、たん、と階段を降りる。
そうして台所に入った瞬間に、祈りはちっとも効いていなかったのだとわかった。
朝食を並べる母親の背中はたまに見る光景だ。それはいい。だが、食卓に腰掛ける少女がいた。
昔の時代からそのまま抜け出したかのような出立ちだ。白の小袖と橙の切り袴を着た、長い黒髪の少女。墓で見た記憶のままの、はたた姫がそこにいた。
「鳴、姫の隣に置いてあるからね。食べたら片づけはしておいて」
母親の平然とした顔が、鳴は信じられなかった。
唖然と見つめて、それから恐る恐る椅子に腰掛けたはたた姫へと顔を向ける。はたた姫は両手で湯呑に入ったお茶を飲むと、にんまりと微笑んだ。
「お母君。よいお点前です」
「いえいえ。ほら鳴。早く食べないと遅刻するよ」
「えっ、え、ええ?」
わけがわからない。
鳴が途方にくれていると、母親が呆れた様子で言った。
「あんた寝ぼけてるなら顔でも洗っといで。私はもう仕事に出るから、おじいちゃんに一声掛けてから出かけてね」
「あ、うん。いってらっしゃい」
「いってきます」
エプロンを脱いだ母親が、そのままいつも通りに早足で台所から出ていく。それを見送って、湯呑を持つはたた姫を前に鳴は身構えた。
はたた姫は、ゆっくりと湯呑みを一口飲んで、ほうと息を吐いてみせた。
「まったく。よくよく探し回ったではないですか。おかげで疲れてしまったわ」
「あの……はたた姫? どうしてここに」
「はたたという名は、厳つくてあまり好きではないの。姫とお呼びなさい」
「ああと、はい。姫、それでどうしてここに」
繰り返して鳴が聞くと、はたた姫はちょいちょいと隣の席を指した。相手は神様だ。それにこのよくわからない状況で逆らう気にもなれず、鳴は恐る恐るはたた姫の隣に腰掛けた。
「鳴、お前にわたくしの手伝いをお願いしに来たのです。ああ、食べながらで結構。わたくしは寛容よ」
はたた姫は自分ごとのように鳴に用意された朝食を勧めた。
「若君似のその美貌を曇らせることはいけませぬ。さ、お母君の手料理を食しながら聞きなさい」
「はあ……じゃあ、遠慮なく」
どうやら敵意はないらしい。はたた姫は鳴が食事をとりはじめると、満足そうにうなずいた。
「用件は手短に済ますのが、当世の流儀と聞いております。単刀直入に話しましょう」
「ずいぶんと現代にお詳しいですね」
鳴の言葉に、はたた姫は得意げになった。
「山に捨てられた書物や墓守の言葉で学んだのです。わたくしは勉強熱心なのだものっ」
「それはすごい」
「ま、まあっ。当然よっ! ああ、若君そっくりのお顔で褒められるなんて……!」
褒められて、くねくねと体が動いている。
ところどころ気安い口調だったり昔の言葉混じりだったりするのは、そのせいなのだろう。鳴はそう納得してうなずいた。
「それで、勉強熱心な姫のお願いってなんでしょう」
「はっ!? そうでした。鳴、わたくしの使命を手伝うのです」
「使命とは」
「神在月に各地の神々がおわすより前に、この地の災厄を雷とともに振り払う崇高な使命です。本来ならばわたくし一人でも事足りたものの、困ったことが起きてしまって……」
はたた姫はうつむくと、両手の指で丸を形作る。
「肝心要のわたくしの神器が、少し前から手元から離れて……神器なしでどうにかしてきたものの、おかげでわたくしの住処がどんどん削れてしまい……お前も見たわね? あの無様な欠け具合はそのせいなのよ」
「でも、どうして私を?」
「鳴は我が家門の子孫……には少し遠いですが、その一人。それにわたくしを見聞きできる者は初めてです」
もっともらしくうなずいて、はたた姫は両手の拳を握る。そして鳴を見つめて力強く言った。
「さらになにより若君に似ている! これはまさしく神々、御仏の導き。天もお前に手伝えと告げているのです!」
「え、ええー……」
なんとも非現実で強引な理屈だ。とはいえ、はたた姫という現実味のない存在が目の前にいる。
鳴の曖昧な返答に、はたた姫は勢いよく続けた。
「この地の平和と全国津々浦々の神々のご機嫌が、お前にもわたくしにも掛かっているのです! 鳴、わたくしの神器を探す手伝いをするのよ!」
「探すったって、どうやって探すんですか」
「わたくしの神器を持ち出したのは、わたくしの子孫でした。我が一族の血を間違えるものですか。持ち帰っているのを見たもの」
「泥棒されたってことですか」
「ともかく、一族の不始末はわたくしだけでなく鳴の一族にも関わることです。ですから、わたくしの子孫を探すの。わたくしも共に見極めるから、安心しなさい」
「共に見極める?」
「ええ!」
はたた姫はにっこりと表情を変えて言った。
「わたくし、しばらくはお前に憑いて行きます。時がくるまでに、どうか頼みますよ。鳴」
昨年、落雷被害を受けたのもとんだ出来事だったが、今年はさらに厄介なことに巻き込まれてしまったのではないか。
鳴は、有無を言わせず部屋に居座るつもりのはたた姫を見る。はたた姫は鳴の顔を見て、うっとりとした。神様とはいえ、なんともマイペースで我が強い。
「つまり、学校にも憑いてくる?」
「もちろん。まあ、安心なさいな。わたくし、これでも神ですから。溶け込むなど容易いこと。いざとなれば、周囲の者の記憶もちょちょいのちょいです」
「私の母にしたように?」
「あら、お母君以外にもしましたよ。騒がれてはコトに支障がでますからね」
もそもそと取っている朝食の味があまりしない。その横で、はたた姫は朝食に用意されていた果物に手を伸ばした。赤ブドウだ。母親が奮発したものを出したのだろうか。
はたた姫がたくさんある粒の中から、一つを選んでぷつりと摘まむ。
「鳴が通う学校には、多くの人間がいるのでしょう? つまり、わたくしの子孫の一人や二人、居てもおかしくないはずだわ」
皮ごと口に含んで、はたた姫は目を輝かせた。
こうして見ている限りは、本当に害はなさそうな少女だ。よほどお気に召したらしい赤ブドウをせっせと食べ始めた姿を見てもそう感じる。もっとも、ブドウを浮かせて千切るのは普通ではないだろう。
「わたくひは……むぐ、この地の氏神。今の世に……んむんむ、我が子孫がいるかいないかもわかって当然。神の御業でたちまちに見つけてみせましょう」
「じゃあ、姫に任せれば子孫はすぐに見つけられる?」
「ふふん。そうよ、そうですよ。もっと褒めてくれてもよいのよ」
胸を張るはたた姫に、鳴は小さく拍手を送った。さらに姫の胸は反って、鼻が伸びるなら天狗になっているかもしれない上機嫌ぶりである。
ふわりと着物をひらめかせ、気合新たにはたた姫はこぶしを構えた。
「さあさ、鳴。片づけたならすぐにも行きましょう! わたくしの力をこれでもかと見せてあげます!」
*
はたた姫の力というものは、確かだった。
鳴の持つ身だしなみ用の手鏡を「出張の依代」にして学校までついてくると、たちまちに指示を出し始めた。
「む。そこの右側にいる男子。あとこの上の階にもいるわね。あっ、後ろから一人女子が来ます。鳴、通り過ぎたさっきの子もよ」
「待って待って。多い」
思わず小声で鳴が遮れば、ふわりと宙に浮いたはたた姫が文句を返した。
「しょうがないではないの。わたくしの子孫は子沢山だったようですから。目出度いことだわ」
どうやらはたた姫の言葉は周りには聞こえていないらしい。おかげでこそこそと俯いて鳴は話さなければならなかった。
「有力候補を絞れない? せめて名前がわかったりとか」
「名前まではわからないわ。でも、持ち出した神器の痕跡から近づけばわかるはずよ」
「近づくたって……今からは無理。朝のホームルームが始まっちゃう」
「終わったら探しにいくのですよ。わたくし、お前の持つ手鏡からそう遠くに行けないのですからね」
手短に話すために、そっけないいつもの口調になってしまった。だが、はたた姫は気にしていないようだ。ほっとしながら、鳴はそそくさと自分の教室を目指した。
鳴の教室につくなり、はたた姫は宙に浮いてあちこち興味深く見まわし始めた。
しかしながら、鳴のクラスには該当する子孫がいなかったらしい。残念そうにして、鳴の持つ手鏡のなかに戻っていった。そのことにほっとしながら、鞄から荷物を取り出して席に着く。
ほどなくして、担任の赤山が教室にやってきた。国体に出たことが自慢の、男性体育教師が鳴のクラスの担任である。厳つい顔に似合わず、マスコットキャラが好きな大らかな人柄で、生徒には概ね好意的に受け入れられている。
鳴の耳にも、「あかやん、今日のネクタイファンシーじゃん」だとか「似合ってる」だとか軽口が飛び交ってはたしなめられている。
そうして、いつも通りのホームルームが始まった。出席の確認と連絡を聞いて、授業が始まればあっという間に時間は過ぎていくのだった。