15.鏡捧げの雷祓い
「――……だけん、そっちに行ったんだって。いや、俺も、ほんとわけわからんけど」
継は困惑しながら電話口の兄に話した。
「家で荷物用意して待っちょけば、古曳の……鹿が行くから」
『継、お前、大丈夫か。なんで鹿がうちにくるんだよ』
「いやもう、俺、駄目かもしれん……」
ほとほと困ってしまった。
継の目の前で、鳴が倒れたかと思えば、鳴らしきものが鹿になった。そんなことを言っても、兄の洋にはわからないだろう。
(洋兄、オカルトのたぐいを絶対信じんし……俺も何が起こったんかわからんし)
急募。目の前で人が幽体離脱して鹿になって消えた場合の伝え方。
継は頭痛を感じながらもこらえて、唸る。
鳴がこの状況になって、どこに行くのも無理になった。仕方なしに、鳴の家に預けに行ったら光生につかまってしまい、予想以上の歓待を受けてしまって今に至る。
腰が悪いという光生のかわりに、鳴の部屋に上がって鳴をベッドに放ったところで、継は思い出したように電話をかけなおしたのだ。
話し合いは、実りあるものではない。なにせ、継にも意味がわからない状況になっているからだ。
「とにかく、誰かが来たら」
継が言葉を続けようとしたとき、聞きなれた声がした。
『すみませーん! 鏡取りにきましたー!』
『誰って、インターフォン鳴ったけど誰もおらんし、変な冗談言うなよな』
『古曳です。開けてくださーい!』
継は思わず、隣で寝こけているようにしか見えない鳴を見た。
「あー、ああー、洋兄。だまされたと思って、ドア開けて。なんもなくて俺を怒ってもいいけん。なるべく早く」
『なんだや、相変わらずお前はわけわかんねえ』
電話口の文句は聞きなれたことだ。いいから、と継は急かした。
『開いた! あ、どうもご丁寧に。それで鏡は』
「洋兄。もう閉めていい。あと、電話、スピーカーにしちょいて」
『ああ? 本当にわけわからんぞ、継』
「いいけん。はよ」
ぶつぶつ文句を言いながらも、洋が操作をした。途端、鮮明に鳴の声が聞こえた。
『あのお、継くんのお兄さん? あれ、見えてない?』
「古曳。挨拶はいいけん、神器探せ」
『あっ、雨田! 助かるけどいいの?』
「はよせんと、お前病院搬送されえけん」
『まじか。急ぐ急ぐ。ここかな? いや、あれかも』
どたばたと騒がしい。
洋の「急に神棚が!?」や「物が浮いた!」という声も聞こえている。
『け、継っ。継、なんか幽霊おるんか。なあ、俺の家』
「幽霊はおらん。今いるのは、さっき古曳が言ってた銅鏡出せばすぐ帰る」
『古曳さんって幽霊なんか!? お前、ふつうの女子じゃ駄目だったんか!』
混乱しているのか、洋は継にまくしたててくる。思わずスマホを握りしめて、怒鳴ってしまった。
「ああもう! いいから、はや鏡出しちょけ! 古曳もさっさと帰ってこい!」
そう言って、勢いよく電話を切る。静かになった部屋で、継は大きくため息をついた。
曇天はいよいよ広がって、いつ雷雨に発展してもおかしくない。ひときわ黒い雲は山のあたりをたむろするように渦巻いていた。
***
鳴が起き抜けで見上げた天井は真っ白で、体もぎしぎしと痛む。ひどい筋肉痛だ。腕には点滴が刺さっていた。
続けて顔を横に向けると、ちょうど来てたのか継がベッドサイドに荷物を置いていた。
「雨田」
「あ、起きた」
継はベッドのナースコールを押そうとする。それを留めて、鳴は体を起こした。
「あたた……今、いつ。あと姫の鏡」
「倒れて半日。今は夕方。鏡はある」
継は鞄から風呂敷を取り出した。さび付いた銅鏡と白い勾玉が包まれている。
「これ」
鳴が手を伸ばして勾玉を手に取った。
「古曳が搬送される前に、手から落としたやつ。ついでに拾っちょいた」
「ありがとう。鹿からもらったんだと思う。たぶん」
手のひらで転がすと、玉の中で煙が推移するように動いた。
「よし」
それを握りしめて、鳴は窓を見た。ゴロゴロと遠雷が響いている。天気予報通りの悪天候だ。だが、その中ではたた姫がいるだろうと、鳴にはわかった。
勾玉がつれていけとばかりにじんわりと暖かいのだ。
「よしって、古曳まさか」
「うん。行かなきゃ。持ってくって約束したからね」
窓の外が光った。
「……そう言うとは思っちょったけど、本当にその通りで腹立つ」
ため息まじりに言って、継は荷物を取った。弓袋から取り出したのは弓だ。一度二度弦を弾くと、くるりと持ち替えて肩にかけた。
「で、どうすんの」
「こうする」
鳴は勾玉を握る。それから、こうしたほうがいいという感覚にしたがって口に入れた。
「ばっ、何飲んで……!?」
また、膜を突き抜けた感覚がした。
ベッドで倒れる自分の姿を見て、合っていたと確信する。
くるりと回る。蹄の足音だ。立派な牡鹿の姿がそこにはあった。
鳴は一通り確認すると、横に立つ継を見上げて言った。
「よし、大丈夫だった。雨田は鹿に乗れる?」
「後から絶対なんかあるって躊躇わんのか……アンタは」
継は言葉に詰まって額を抑えたが、やがて振り切るように顔をあげた。
「こうなったら、やってやる。落とすなよ」
「がんばる。窓開けて」
鳴が化けた鹿は、しなやかながら大きな鹿だ。継が乗っても、びくともしない立派な白鹿だった。
姿を借りたのか、鳴に役立つよう今の姿になったのかは不明だが、この状態でも物に接触することはできるようだ。
鳴は継を乗せると、前足で床を掻いた。
開けてもらった窓を目掛けて、体を屈めると、跳躍して飛び出した。
(あの、鹿の群れとはまた違う。でも、行ける。うん、大丈夫)
懸命に山へと駆けのぼる。
脳裏に浮かぶのは、あの白鹿の記憶だろうか。間に合うと信じて急いだあの道だ。
黒い靄を蹴り飛ばし、跳ねて蹴って進む。時折、いきなり靄が霧散するのは上の継の仕業だろう。
乾いた音がして、こちらをうかがう奇妙な生き物を見事に弾き飛ばしている。
(雨田たちが見ていたのは、これだったんだ)
ぞっと怖気が走るよりも先に、気が急いだ。狭い山道を縫うように走りあがる。
ぽつぽつと斜めの雨が当たる。雷が上空に現れた。
そして、その中に、光った一瞬少女の姿が映った。今まさに、はたた姫が上にいる。
墓地の入り口が見える。
ぬかるんだ道を力強く蹴って、墓地を抜けて、とうとう墓所へとたどり着いた。
(姫の墓は)
前に見た時よりも、ひび割れがひどい。崩れかけといってもいい。
はたた姫の墓の前で立ち止まると、継は降りて荷物から鏡を取り出した。
「姫、鏡! 姫ーっ!」
鳴は声を張り上げて呼びかける。
しかし、はたた姫は雷雲を前に両手をささげ上げじっとしていた。こちらに気づきもしない。
その間、数度細い雷が落ちては、当たりに狙い定めたように落ちていく。そしてその雷は寸分たがわず黒い靄へと直撃した。
「姫っ……! げほ、げほっ」
鳴が急き込む。すると、口からころんと勾玉が転び出た。姿がもとに戻っていくのがわかる。
慌てて鳴が勾玉を拾おうとしたなかで、勾玉はその姿を変えた。
「え? えっ、矢?」
ただの矢ではない。
神社でみるような、破魔矢の形だ。それも石でできたような白く透き通ったものだった。羽根までも、あの白鹿を思わせるような柔らかな色合いだった。
それを拾ったところで、手が差し出された。継だ。
「貸して」
継は矢を受け取ると、破魔矢の飾り部分に、鏡を結わえつけた。
「ここまでされて、どうすりゃいいかわからんほうがおかしい」
言いながら腕をまくって、弓に番える。ぐっと大きく弓を引いて上空に掲げた。
はたた姫の姿は遠い。しかも風雨が強くなってきたなかで、矢を飛ばすには最悪といってもいい状況だ。
だが、届かないはずがない。
鳴は、せめてと手を合わせて祈った。届きますように。はたた姫に、今度こそ間に合うように。
きりきりと目いっぱい引き絞られた弓がきしむ。継が、すう、と静かに息を吸って止めた。間をはかるように、じっと待つしかない数秒が長い。
雷雲は再び集まって、唸りをあげる。
空気が留まったかのように、わずかに雨が弱まる。その瞬間。
一条の矢が放たれた。
空気の抵抗も、矢にぶつかる雨にも負けずに弧を描いてまっすぐに空を登っていく。
それは、地面から伸びる雷に姿を変えていく。わき目も触れず、空にいる目的まで突き抜けて、とうとう。
「届いた」
ゆっくりと弓をおろした継も空を見上げている。
ちかっと光った。はたた姫がこちらを見下ろした気がした。
はたた姫の周囲に光輪が回る。それから、胸に何かを抱える仕草をして、再び空へと両手を掲げた。その手の先にあるのは、あの鏡だった。
鏡が、はたた姫の代わりに雷を受け止める。鏡面に吸い込まれた雷は、次々に分裂を繰り返し放たれていく。
「すご……」
思わず呟く。呆然と見上げた空に、無数の雷が跳ね返されては飛んでいく。先ほどまでの雷なんて児戯だとばかりの、激しい雷だった。
肌どころか地面を震わせるほどの音を鳴り響かせて、はたた姫は雷をこの地に降り注がせた。恐怖よりも何よりも、思わず息を止めて見続けてしまうほどの光景だった。
それを幾度か繰り返すと、はたた姫はゆっくりと動きを止めた。
「あっ」
声を上げたのは鳴だったか、継だったか。どちらも同じように息をのんだ。
落ちていく。はたた姫が、落ちていく。
だが、それを追いかけるように光の筋が傍を走っていった。はたた姫の姿を包み込んだ一瞬、鳴の目には夢に見た男性の姿が映った気がした。そして、二人してすうっと溶け消えてしまった。
同時に、雨がやんだ。
代わりとばかりに星明りが降り注ぎ、あたり一帯は見事な秋の夜空に変化していた。
名残の一つも残さない景色を眺めて、鳴は継に声をかけた。
「姫、どこに落ちたかここから見えないかな」
鳴がそう言って歩き出せば、後ろから足音がついてくる。
小高い位置にあるはたた姫の墓所は、下のあたりを見回すには十分なはずだった。だが、今は夜で急激に気温が下がったからかもしれない。山から吹き出たように霧がたち始めていた。見通しはあまりよくはない。
身震いをした継が小さくくしゃみをする。
「雨田、風邪引きそうじゃん」
「そりゃ濡れると寒いに決まっちょうが。古曳は平気なん」
雷雨のなかでやってきた体はずぶぬれだ。鼻を啜りながら、継が聞いてくる。
「幽霊みたいな状態でも風邪引くのかな」
「知らん。その様子じゃ大丈夫だろ」
言いながら、腕をさすって継はあたりを見回した。
「明かりがある」
継の指摘に、鳴も同じように見回した。確かに、明かりがある。
町明かりではない。通路をぼんやりとした明かりが通り抜けているのだ。不自然にきらきらとした白い光で、一目で尋常ではないものだとわかった。
わずかに聞こえるのは鈴の音だろうか。
光の線は少しずつ長くなっている。途中でどこからともなく新しい光が現れては、後ろに加わり進んでいく。
「……あれ、前にも学校の帰りで見たかも。鹿があれを見てからお忌みが近づいているって」
「この時期は俺も見たことある。多分、神在月の会議に来た神様たちだ」
「本当に集まるんだ……どこに泊まるんだろう」
「前泊する神社があるとか聞いたけど、よう知らん。ここ通って、そのうち会議の場所に向かうはず」
「姫もあのなかにいるかなあ」
鳴はそう言って、後ろを振り向いた。
ひび割れた大石が静かにたたずんでいるだけだ。そこの上に、はたた姫の姿はない。
なんとはなしにその上を見上げる。すると、立ち上った霧がうっすらと形を成していた。細長く天高く昇って輪郭を形作って変化する。
白い鳥。白い兎。白い鹿。それから、大きな龍だ。
「あ、雨田。雨田あれ」
それらは空でとぐろを巻くように回旋して、急降下してきた。その先は、鳴たちがいる墓所の丘だ。
「古曳」
継が声をかけて近寄るが、足が張り付いたみたいにどちらも動けなかった。そのまま、龍たちが降りてくる。
ごう、と凄まじい風が通り抜けて、辺り一面が白くなる。
互いの姿も、周りの景色も一切白く染まったなかで、鳴は確かに聞いた。
「ありがとう」
鈴が鳴るような軽やかな少女の声。
そして、ふわりと鳴の頭を撫でる小さな手があった。
「お前たちが忘れても。わたくしは……――」
最後は聞こえなかった。
視界だけでなく、聴覚も嗅覚も、知覚全部が白く染まったような。
意識の端々までまっさらになって、鳴の意識は遠く溶けて消えていった。