11.下山と鳴弦
「姫、姫ー?」
鳴の呼びかけに、はたた姫が現れる様子はない。
鞄に入れっぱなしだった手鏡を取り出してみる。縮緬の黄色い小花柄をした手鏡も、なんの変哲もない普通の鏡だ。振ってみても鏡面を軽く小突いても、反応はない。ただの鏡だった。
「雨田、姫がいない」
「たぶん、上」
継が大石を見てから、その真上を指さした。
指の先を追って見上げる。夜が広がり始める空に、靄のような黒い雲が出ている。
その雲は群体を組んだ生き物のように、緩やかに動いていた。大気で流れる他の白い雲とは明らかに異なる動きだ。
「何あれ、動いてる」
目を凝らせば、時々ちかちかと光っているのがわかる。
しばらく見守っていると、どこからともなく雨雲が現れた。まるでその場にいきなり出現したみたいに急速に発達すると、雷が雲から雲へと空を走る。
ピカッと明滅して、ゴロゴロと鳴り響く。
鳴の隣で息をのむ音がした。
(そうだった。雨田って雷が苦手だったはず)
正確には、音や見るのは慣れたと言っていた。だが、やはり染みついた怖さはあるのではないか。
そう考えて、横を見る。暗くなってきた周囲もあいまって、継の顔色は良くないように感じた。
「雨田、腕とかつかむ?」
鳴がさっと手を差し出せば、継は視線だけをよこして言い返した。
「気ぃ遣わんでいい」
「いや、気を遣うよ。付き合ってもらって雨田にケガさせたら申し訳ないし。あと倒れた時、完全に地べたから拾い上げるより、もたれかかってもらったほうがまだいい」
「救助前提で話すなや。まくれたりせん」
「まくれって?」
「転ぶ、倒れる」
「へええ、なるほど。で、つかむ?」
「だけん、いらん」
ドン。
また大きく音がした。わずかに体が跳ねた継を見て、鳴はすかさず腕をつかんだ。何か言いたそうな顔をした継だったが、言葉は出てこず飲み込んだようだ。
そうこうしている間に、またピカピカと空に雷が現れては消える。雨雲から放たれた雷は、途中からいくつも枝分かれして飛んでいく。幸いなのはすべて空の上で地上に落ちてくる様子がないことだろうか。
そのたびに幾つもの破裂音があちこちからする。
やがて雷は奇妙な黒雲を裂いた。黒雲が薄く千切れていけば、雨雲もまた霧散していく。右に左に、雷の刷毛で掃かれて消えていくようにも見えた。
(お店で見たときと同じみたい)
はたた姫が手で払ったあと、暗がりが霧散した様子と似ている。
空に雨雲も何もなくなったと同時に、声がした。
「継まで来たのですか。良い心がけではありませんか。それに、ちょうどいい」
「おかえり、姫」
大石のほうだ。視線を向ければ、うっすらと燐光を纏った少女の姿がある。はたた姫だ。
はたた姫は鳴の声かけに微笑むと、少しだけ恥じらうように言った。
「迎えの言葉をありがとう。でも、思ったよりもみっともない様子を見られてしまったのね」
「みっともない……何が?」
「墓の石がめげとることと関係が?」
鳴の疑問にかぶせて、継がはたた姫にたずねた。はたた姫は、大石を見つめて答えた。
ひび割れ、風にカラカラと欠片が転がっていく。
「神器を介さないから、代わりの媒体を選ばなければならなくて。鏡石を……わたくしの住処の石をずっと使っていたの。雷に打たれるのは、同じ石とて耐えられないのね」
「じゃあこのヒビは、そういう?」
「そうね、寄る年波もあって無理がたたってしまったのかしら。ですが、壊れたら死ぬわけではないのですよ。わたくしは、この地の神なのですから」
「でも」
「ちょっと、上に帰って休むだけです」
はたた姫の調子はよさそうには見えない。鳴が言わんとしたこともわかっているだろうに、はたた姫は首を横に振った。
「それより、鳴。あの場で呼びかけてはいけません。わたくしの名だとしても、気をつけなさい。悪鬼が寄ってくるかもしれないのよ」
「そう、なの?」
「継、わかっていますね。お前はそういう才が少しはあるようですから」
「わかっちょう」
はたた姫に言われて、継は短く返事をした。
「姫、あの、掃除はしてから帰っていい?」
「……ええ、もちろん。ありがとう」
「約束はちゃんと守るよ」
「そう。とてもうれしいわ、鳴」
夕方はほとんど夜空に変わってしまっている。はたた姫の墓所には外灯もない。スマホを照明代わりに照らしながら、掃除を始めた。
大石を磨けば、鏡石というだけあってツヤツヤとうっすら反射する。ただ、ヒビはやはりひどくなっているようで、強くこすればさらに欠片が落ちてきそうだった。
ひとしきり磨いて清め終わったところで、鳴は荷物から帯飾りを取り出した。もともと、キーホルダーや鞄飾りに使うのもいいと買ったものだった。
その時に、はたた姫の反応が良かったものを鳴は覚えていた。生花はいらないと言っていたから、代わりになるものを供えようと考えていたのだ。
明るい橙と白の水晶が輪になって、そこから編まれた根付紐が流れている。
「これ、よかったら。姫に似合って可愛いよ」
「まあ……! なんて素敵なの。これで、きっと寂しくないわね。おしゃれは気分が上がるものです。嬉しいわ」
さっそくとばかりに手で触って、はたた姫はくるくるとその場を回った。そして辺りをぴょんぴょん飛んだかと思うと、ぴたりと止まった。猫みたいに虚空を見回して、視線がとどまっている。
嬉しそうだった顔は一変して、厳しく眉根を寄せている。
「今年は波が早くきてしまった。二人とも、しばらくここに寄らないほうがいいでしょう」
「でも姫、掃除とかお参りは」
「そうね、明るい日に、また……継に見てもらいなさいな」
「雨田に?」
はたた姫は継の顔を見据えて言った。
「継、わたくしの鳴をしっかり頼みますよ」
「ずいぶん好かれちょうな」
「えっ、急に何」
継がぼそりと言う。それから「帰るぞ」と鳴を促した。
「うん。姫、今日はうちには」
「これから早めの仕事に取り掛かるの。また終わったら、鳴のところへ様子を見に行きます。もちろん、きちんとお供えを用意するのですよ」
「仕事? でも姫、神器」
「もうちょっと、なのでしょう? きっと待ってみせるわ」
ふっと空が陰り始めた。遠雷がゴロゴロとゆっくりと唸りのように上がっている。
「さあ、お行きなさい」
そう言うと、はたた姫は空に向かって登り姿を消していった。
はたた姫の姿が完全に見えなくなると、継はおもむろに弓袋から弓を取り出した。袋はポケットに詰め込んで、軽く弦を指先ではじいている。
「古曳、道具持っちょいて」
「それはいいけど。どうしたの」
「魔除け」
「また魔除け……?」
「あと、今すぐ走れ」
言いながら、継は小走りに進み始めた。鳴は慌てて道具をもって、そのあとに続いた。
「やっぱ、夜の墓地なんてろくなもんじゃない」
苦々しく言い捨てて、継の足が早まる。暗がりになってよく見えないが、たまに継が視線を向ける先は夜の闇とは異なる靄があるようだった。
はたた姫の墓を出て、住民の墓地を抜け、継の自転車まで走る。
「古曳、後ろ俺が乗るけん、チャリ漕いで」
「えっ……よし、オッケー。あんま運転したことないけどいけると思う」
「おっまえ、まじか」
「降りるだけならいけるいける。イメージできた。一輪車よりタイヤ多いし大丈夫、任せて」
来た時と反対に、継が後ろに立って鳴が自転車を漕ぐ。久しぶりに動かす自転車は、二人乗りもあいまってふらふらと揺れる。だが、緩い傾斜で勢いが出始めると、まっすぐに進み始めた。
びゅんびゅんと風を切って走り降りる。
前方に集中をしていると、後ろできりきりと振り絞る音がした。
次いで、ぱしん、と弦が鳴った。それが周囲に余韻を残して木霊する。
「何。何なになに、雨田何してんの」
「だけん、魔除け。もっと早よ漕いで」
「靄消してるの?」
漕ぎながら鳴が聞くと、代わりに弦の音が返ってきた。答えとばかりに、鳴の視界隅にあった靄が吹き飛んだ。
「すっご、何それ。なんか消えたんだけど。雨田すごいね!」
「前見ろ、前! まくれる!」
「うおっと」
横道に寄りすぎていた。慌てて鳴がハンドルを回す。
二人分の体重を乗せた自転車は坂道をどんどん下っていく。
後ろから、継の腕が伸びて前を指した。
「そこ避けろ。もっと右走れ」
指の先には暗がりがある。山道を等間隔に照らす外灯があるというのに、ぽっかりと穴が空いたように暗い。
言われるがままに、鳴は自転車を走らせた。
「あれ、飛びつかれて噛まれえと病気になるけん、上手いこと避けて」
「噛まれるって何に」
「厄の塊。鬼みたいなんバケモン」
また継が弓を弾く。
鳴には靄にしか見えないが、継にははっきり見えるらしい。そのことに驚きながらも、蛇行しすぎないようにハンドルを握る。
ペダルを踏んで、時折り継からくる注意を聞いて、旋回して進む。
それを何度か繰り返して、鳴たちはやっとのことで山の麓まで降りていくことができた。
民家が見え始めたあたりで肩を叩かれて、鳴は自転車を止めた。
「もう急がんでもいい。ここら、道祖神があって……まあ、一応送る」
継が自転車から降りて言った。鳴にはよくわからない理屈だが、見える人が言うのならそうなのだろう。大人しくうなずいて、自転車を継に返した。
「姫、大丈夫かな」
「さあ。神様の言うことはわからん。古曳が信じたいなら信じちょけばいい」
「そういうもん? 信仰が力的な?」
「それも本当か知らんけど。なんも期待されんより、信じて待っとってもらってたほうが嬉しいんもんじゃないの」
鳴は空を見上げた。
まだ遥か向こうで、ちかちかと光っている気がした。
「とくにあの姫は、古曳を気に入っちょうみたいだけん」
「雨田も頼りにされてたよ」
「どうだか」
夜の田舎道は意外とにぎやかだ。
カラカラと車輪が回る音のほかに、秋の虫の声が騒がしく鳴っている。だからか、先ほどまでの静かな墓地の出来事が嘘みたいに思えた。
しばらく道なりに歩くと、料理をしている匂いや明りが見え始めた。民家も増えてきて、一気に人心地がついてくる。先を行けば、鳴の家が見えてきた。
見慣れた日本家屋の玄関前についたところで、継は鳴の荷物を手渡した。
「古曳、これ」
「ありがとう」
「どういたしまして。一人で夜の山はやめえよ。動物も出るけん」
「わかった。雨田も気を付けて帰ってね」
「おー」
短い返事をした継は、そのまま自転車に乗って帰っていった。
その姿を見送ってから、鳴は玄関扉を開いて敷居を跨いだ。玄関には靴が三足並んでいる。珍しく両親と祖父がそろっているようだ。特に救急救命士をしている鳴の父親は、最近緊急出動が多いようで家にいるほうが珍しかった。
「ただいま」
口にして帰ると、奥のほうから「おかえり」と返ってくる。靴を揃えて置いて、洗面台に向かう。
手洗いとうがいをすましたところで、着信音がした。ポケットに入れっぱなしだったスマホからだ。
ポケットから取り出して画面を起動すると、メッセージが送られてきていた。
(蓬子ちゃんだ)
今日の御礼と楽しかったからまた行こうというメッセージが、彼女らしい言葉で送られてきていた。
そして、伯父と連絡がついたことも書いてある。さらには、こんなメッセージが続いていた。
『あの銅鏡の持ち主、どうも亡くなってしまったみたいよ』




