351:その頃、日本駄右衛門(日本駄右衛門)
【猫啼温泉】
異世界の猫啼温泉と異なり、掘っ立て小屋のようなボロ屋が数軒並ぶ朽ち果てた湯治場。
「おい、捨猫和泉、いよいよ迷迭香の塔が本格的にこっちへ首を突っ込んで来た。」
日本駄右衛門が雄猫に声を掛ける。日本駄右衛門は6尺近い長身で、色白の顔に傷がある30前の男。「図書館」という単語は明治時代のもので、この世界には存在しなかったため、日本駄右衛門もいまいちイメージが分からず「ローズマリーの塔」と呼んでいる。
「ちゃんと我輩には『そめ』って名前があるニャ。」
捨猫は人語を話す猫。異世界の伝説によると、和泉式部の父親、大江雅致はこの付近に赴任していたが、太皇太后宮昌子内親王に仕えるため京へ帰ることになった。このとき和泉式部の飼い猫「そめ」が捨てられたという。ただし、当時大江雅致がどこに赴任していたかは不明であり「和泉式部ゆかりの地」は複数ある。
「それで、相手は訳の分からないカラクリを使う、那須塩原以上に危険なダンジョンだ。ダンジョンに籠城すれば耐えられるが、後詰めの居ない籠城など相手が時間と物量を気にせず包囲してきたら、いずれ食糧が尽きて勝ち目は無い。」
「餌なら有るニャ。」
「猫の餌ならな。200人も居る手下どもに猫の餌で我慢しろなんて言ったら謀反起こされる。このダンジョンは水しか出ないのか。」
温度は20℃無く、湯では無い。
「石もあるニャ。水と石と猫の餌が手に入るニャ。」
ダンジョンマスターは服を着ず、モンスターも居ないため、衣類は入手出来ない。
「石が食べられるか。捨猫だって石なんか食べられないだろう。」
「嫌なら、那須塩原で生贄になるか、迷迭香の塔で市中引き回しの上、獄門ニャ。出来る範囲でやるしか無いニャ。もっとも、別に逃げても良いニャ。」
「逃げると言ってもどこへ逃げるんだ。」
「迷迭香の塔は関八州に蜘蛛が糸を張るように力を広げているから、関八州は全部危険ニャ。西へ向かい相から越を抜けて蛇へ行けば良いニャ。」
捨猫和泉は下手くそな行基図もどきを広げて指し示す。
「手下を見捨てて逃げるのか。捨猫もダンジョン捨てる訳には行かないだろ。」
「我輩はそもそも、ここから出られないから、海賊を含め悪いことは何もしていないニャ。それに、ここは那須塩原の裏側だから、迷迭香の塔が直接力を及ぼしてくることも無いニャ。」
「てめ、ここが落とされたら間違い無く共犯で死罪だぞ。我らを見逃してきた左遷城の父島弾正忠様は左遷……左遷城から左遷ってどこだ。」
幕府も将軍も無いのに左遷も何も無い。
「死刑は困るニャ。命の数が減ってしまうニャ。」
「あ~、ちゃんと真面目に対策を考えてくれ。前提条件としては、こちらの手下は200、相手の兵の数は不明だが300万石の領主だ。」
「この秋には600万石ニャ。」
「いい加減にしろ。勝つ気……は無くとも、少なくとも負けないつもりはあるのか。ダンジョンなら負けないことは出来るだろ。」
「出来るけど、相手が諦めなければ生涯ここから出られないニャ。」
「生涯か。ここにはシケた猫一匹しか居ない。『和泉式部ゆかりの地』なら、和泉式部でも召喚しろと。」
「水と石と猫の餌しか召喚出来ないニャ。仕方ないニャ。この天災軍師たる我輩に任せるが良いニャ。」
天災は誤字ではないが、文章では無く会話なので日本駄右衛門が気付くことは無かった。




