334:世界地図
冬の間、畑では麦と野菜の栽培が、学校では勉強が、工場では生産が、兵営では訓練が行われ、マリーは本を読みながらゆっくりと休養した。そして春が来る。
【第三層群屋上庭園】
「この世界に伊能忠敬は居ないのか、国家機密なのか。行基図の出来損ないみたいな地図しかありませんね。」
ダンジョンの紫蘇長、ロスマリヌス・オフィキナリス・紫蘇図書頭・マリーは、商人達から買った何枚かの下手くそな地図を見ながら言う。
「この地域は、異世界日本よりだいぶ広いから伊能図が無くても仕方ないだろう。」
未だに名無しのダンジョンマスターが言う。
「もし、地図が存在すらしないのなら、すぐにでも参謀本部が必要ですね。」
異世界日本で地図を作っているのは参謀本部の陸地測量部。ちなみに海図は海軍水路部。
「他人の土地を勝手に測量するのは難しいと思うが。」
「現地調査無しでは正確性に問題が生じますが、精度を犠牲にするなら空中写真だけで地図を作ることは可能です。とはいえ、撮影のための飛行機が無いのですが。」
「分冊百科に模型ならともかく、本物の飛行機なんか無いからな。部品点数がとんでもない事になりそうだし。」
「今の飛行機は主翼が一体成形なので分冊百科では配達できませんよ。18ホイーラーでもはみ出しますから。もっとも、空中写真の撮影なら、ペトゥレル(宇宙機)やアルバトロス(ナローボディ旅客機)までは必要ありません。ただ、爆轟回転発動機は特殊な素材や製造技術が必要なので到底手が出ませんし、燃料も入手出来ません。」
「電動では厳しいか。」
「航空機用のモーターや蓄電池は軽量化が優先されますが、このダンジョンでは自動車用しか入手出来ません。そして、そもそもの根本的問題として、電池は重量エネルギー密度が炭化水素の1割で、しかもエネルギーを消費しても重さが変わらないので、エネルギー転換効率が倍と言っても航続距離は大幅に短くなります。」
「確かに、図書館の備品に自動車はあっても飛行機は無いからな。」
「断片的かつ不正確な情報に基づく推測で、距離方位も不明瞭なので推定ですが、既知のダンジョンで最も危険と思われる商都梅田や石の神殿アスカまでの距離は異世界の400kmではなく3,000km程度。四国と九州に相当する地域が関八州の南方にありますが、本来の位置にも重複して存在するかは不明です。」
「東西6,000kmくらいか。」
「そうですね。東側も含め、その程度でしょう。知られている限りもっとも遠方の黍まで4,000km、1,000里程度です。」
「千里の馬なら1日だな。」
「当時の千里は400kmですから3日ですね。だいぶ誇張が入っているとは思いますが。1日の行軍速度はローマが25km、モンゴルが70kmだそうなので、馬脚部隊なら影響圏の端から残り2,000kmを片道30日。手が届かない距離ではありません。もっとも、遠征などする意味がありませんが。ダンジョン影響圏外は管理出来ませんし、限られたエネルギーを外征用に割くのは無駄です。」
「それに、相手の国力も不明だな。」
「面積と国力は比例しませんし、地図は不正確ですが、おそらく大国なのは武蔵・越・身終・黍あたりでしょう。商都梅田は津の国、石の神殿アスカは倭の国にありますが、国には所属していません。」
「このダンジョンも地理的には武蔵にあるけど、府中の武蔵守様に従ってはいないな。」
「普通のダンジョンは知性自体が無いので従うも従わないもありませんし、このダンジョンや那須塩原は容易には征服できませんからね。」
「マリーさん、それで、商都梅田と石の神殿アスカが『最も危険』というのは?」
「まず、商都梅田は『駅』ダンジョンであり、おそらく駅に関係する備品を召喚可能と思われますが、それらを解析・研究していた場合、鉄道のみならず飛行機を持っている可能性は否定できません。仮にダンジョン構造物で城壁を作ったところで、飛行機はそれを飛び越えてしまいます。」
「鳥は問題にならないのか。確かに大多数はダンジョンの力がないと墜落するが。」
「鳥は飛ぶには重さの制約があります。このため、ダンジョンの力を借りず飛行可能な鳥人はきわめて希少ですし、それらも爆弾を持って飛行など不可能です。」
「次に、石の神殿アスカは生贄を大量に捧げることでダンジョン影響圏外を攻撃可能です。」
「亀石だったか。」
「はい。亀石に生贄を捧げることで地形を操作し『亀の瀬』を作成します。もちろんダンジョンの機能なので、村や他のダンジョンの『影響圏』を直接攻撃は出来ませんが、川の下流側、あるいは上流側にダムを作り、砂漠でもまれに起きる大雨で水攻めを行う。または村のすぐ横に砂丘を作り、風により村ごと埋めることが可能です。」
「要するに、見沼みたいなものを作り湖に沈めたり、あるいはダムを破壊して下流に洪水を起こす訳か。」
「攻撃できる距離が100リーグ、300マイルならば問題はありませんが、もし2,000kmを越えていた場合、こちらの影響圏も危険になってきます。」
「要するに、普通の大軍とは異なる方法を持っていると危険。か。」
「ダンジョンは防御には強いので、大昔の軍歌に『敵は幾万』とあるように、この世界の技術水準の敵なら、筑波軍1万でも粟総連合軍13万でも小塚原刑場のゾンビ数十万でも、全て撃退してきました。もちろん、敵に優秀な指揮官が居たら勝てませんが、そういう名将はめったに居ません。ですが、飛行機など対処困難な方法を使われると危険です。」
「こちらから攻める場合も同様に?」
「はい。ウサギだって現状では陸軍だけですから。あと、空襲が有効なのは地上型のダンジョンだけで、地下深くに埋まっているダンジョンは軍隊では破壊できません。」
「なら、どうするんだ。冒険者を送り込むしか無いのか。」
「冒険者を送り込む、または逆に封鎖しエネルギーや生贄を与えない。ですね。ですが、狭くて深いダンジョンの場合、世界のコアからの収入だけで維持出来ますし、生贄も数十年・数百年に1人で十分です。おそらく、影響圏がごく狭いダンジョンなら数千人に1人も居れば十分ですから、封鎖は長期戦になるでしょう。」
「確か生贄の必要数は概ね半径の3乗に比例だったな。」
「商都梅田は本体の直径が1km程度とこのダンジョンより大きいですが影響圏は広げてないため狭く、石の神殿アスカも直径5km程度の模様です。」
「情報を集めようにも、どちらも、忍城の忍びを雇って送り込むにも遠すぎるな。」
「手紙を送るみたいに、馬か馬脚がリレー形式で、とは行きませんからね。江戸時代みたいに幕府が馬車を禁止している訳ではありませんが、駅馬車は少なくとも関八州には存在しないようです。」
「やはり費用が掛かりすぎるか。」
「各駅で交代用の馬を多数飼育しないといけませんからね。途中に補給困難な場所があると駅馬車はシステム自体が成立しません。」