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朧夜のピエロ

初の現代モノです。推理・サスペンス軽めです。よろしくお願いします((。´・ω・)。´_ _))ペコリ

「沙織の段ボール、これで全部?」

「そう。あ、これ本入ってるから重いよ。」

「大丈夫。荷物少なくないか?」

「そうでもないよ。それに家電とかは正樹のがあるし。」

「そりゃそーか。じゃ、休憩っと。」


ゴロンとソファに転がった彼は、早速スマホを取り出しゲームを始めた。休憩も何も、さっきから引越し業者に指示を出しながら動いているのは沙織のほうだ。残る段ボールのほとんどが彼の物なのだが、どうするつもりなのだろうか。


こっそりため息をついてから、とりあえず寝る場所とキッチン・トイレ周りから片付けることにした。ライフラインは確保しておきたい。


今日このマンションに引っ越してきたのは、白井正樹と黒川沙織だ。婚約中の二人は正樹の転勤に合わせて、とりあえずの同棲を始めることにしたのだ。沙織の両親にはまだだが、正樹の両親との顔合わせも済んでおり、沙織の薬指には小さいながらダイヤのついた指輪が光っている。入籍は沙織の希望でクリスマスと決めてあるが、今は春なのでまだまだ先の話だ。


三階のこの部屋は、駅近ながら家賃が安い。きっとエレベーターがないせいだろうが、若い二人はそれほど不便を感じなかった。階段を上がって二つ目が二人の部屋。この階には他に三部屋あり、全て入居済みだ。


集中したせいか二時間足らずでライフラインを確保し、自分の段ボールも粗方片付け終わった。その間、正樹はずっとゲームに興じている。先行き不安になりながらも、沙織は仕方なく正樹の段ボールにも手をかけた。書籍と書かれた物なら中を見ても大丈夫だろう。


「正樹、この段ボールって片付けていい?」

「あ?ああ、頼むわ。俺もそろそろ本気出すかなー。」


伸びをしながら立ち上がった彼はそのままベランダに出てタバコを吸い始めた。どの辺が本気なのだ。全くやる気を感じられない。沙織は仕方なく段ボールを開いた。マンガ本が大半だが、数冊の参考書とアルバムが入っている。


「これ、中学のアルバム?」

「ん?あぁ、そうそう。…懐かしいなー。」

「正樹何組?」

「三組。」

「いたいた。変わんないね。」

「イケメンだろ?」

「…ソウデスネ。仲良かった?」

「割とな。あー、でも一人変なヤツいた。親死んで施設から通ってる根暗デブ。」

「…止めなって。言い方良くない。」

「事実だしなー。」


悪びれなく言って今度はトイレに消えた。沙織は何度目かのため息をついて棚へ移し始めた時、インターフォンが鳴った。


「お姉ちゃん!引っ越しおめでとう。」

「ありがとう、紗菜。散らかってるけど入って。」

「お邪魔しまーす!あ、これお昼ご飯買ってきた。食べたらジャンジャン手伝うから!」

「女神降臨…。」

「ふふ。崇め奉って!」


トイレの神様と化した男より、余程頼れる妹の登場で萎えかけたやる気が戻った。具だくさんのサンドを頬張りチキンを摘む。こういう時のコーラは最高に美味しい。


「そう言えばお姉ちゃん、お隣さん大丈夫?」


ジューシーなチキンに舌鼓を打っていると、妹が小声で聞いてきた。


「お隣ってどっちの?」

「階段よりの男の人のほう。」

「何か変だったの?」

「この部屋の前でめっちゃウロウロしてたよ。」


契約時に同じ階の住人については聞いていた。階段よりの部屋には男性が、反対の側の隣には女性のは一人暮らし。あと一つは中年の夫婦らしい。


「引っ越しでうるさかったからかな?」

「あんま関わって欲しくないけどね。」

「後で引っ越し挨拶行くから謝っておくよ。」


その後トイレから出てきた正樹も交え、紗菜の買って来てくれたお昼ご飯を食べた。後半戦の片付けは紗菜の活躍で、夜までには何とか暮らせるくらいには片付いた。コンビニに買い物に出た正樹は、案の定夕方近くまで帰ってこなかった。



※※※


ピンポーン


正樹と沙織は引っ越し挨拶のため、隣人の部屋のインターフォンを鳴らしていた。廊下には柔らかな月の光が差し込んでいる。この時間なら帰ってきているだろう。


301号室。階段に近いこの部屋の住人は、昼に大丈夫かと言われた男だ。ややあって静かに開いたドアの向こうに、長身の男が濡れた髪を拭きながら立っていた。太い黒縁メガネが印象的で、よれたスウェットの上下に黒いサンダルを履いている。


「何か?」

「…隣に引っ越してきた白井です。コレご挨拶にと思って。」

「一緒に住んでる黒川です。昼間はうるさくしてすみませんでした。」


男は渡した小包を受け取りながら小さく頭を下げた。

「青山です。わざわざ、どうも。」

「いえ、では失礼します。」


外行笑顔の正樹がそう言ってドアを閉める。


「…何か、オタクっぽいな。」

「ちょっと!」

「次々~。」


本当にこの男は一言多い。イラっとしながらも303号室に向かった。


ピンポーン


「はぁーい」と聞こえてから、すぐにドアが開いた。隣の正樹がごくりと喉を鳴らした。気持ちは分からなくはない。


出てきたのは超絶美人な女だ。緩いウェーブの黒髪は艶めき、大きな瞳・通った鼻筋・ぷっくりした赤い唇が絶妙なバランスで配置されている。キャミソールでは隠しきれない豊かな胸はくっきり谷間をつくり、短パンからは長い足、とりわけむっちりした太腿が惜しげもなく露出している。それでいて腰周りは驚くほど細く、ローライズの短パンからはチラリと紐パンの端がのぞいている。


エロい


沙織の第一印象は間違いではない。ついでに正樹の好みどストライクなのも知っている。


「こんばんは。」


ニコリと微笑みかきあげた髪で目元の泣きボクロがはっきり見えた。フワリと漂ういい匂いに、女の沙織もドキリとした。もしかしてこれでスッピンか。


「あ、あの、隣に越してきた白井正樹です。引っ越しのご挨拶にどうぞ。」

「一緒に住んでる黒川です。お昼はうるさくしてすみませんでした。」


正樹がフルネームを言うのは気に入った証拠だ。そうでなくとも、分かりやすすぎではあるが。


「わぁ!わざわざありがとうございます。赤石梨花です。こちらこそよろしくお願いします。」


感じの良い笑顔で答える。できる女は流石だ。


「めっちゃ美人だったな…。」


閉じたドアの向こうを未だ名残惜しげに見つめる正樹を軽くはたき、二人は304号室へ向かった。


※※※


リビングのカーテンを開け、散らかった衣類を集めて洗濯機のスイッチを入れる。沙織の仕事は休みだ。見上げた時計は八時を指している。


「正樹、大丈夫なの?」


未だベッドで微睡む彼に声を掛ける。沙織と違い正樹は出社予定のはずだが、随分とゆっくりしている。


「あ、あぁ。大丈夫…。」


欠伸をした後ノロノロとシャワーへ向かった。彼の使うバスタオルの分、洗濯物が増える。沙織はため息をついて一時停止ボタンを押した。さっき散らかっていた洗濯物も正樹の物だ。何度言っても靴下を丸めたまま適当に放置する。お陰で引っ越しから一ヶ月弱で、既に片割れが見つからない靴下が増殖している。一人暮らしの時のほうが、もう少しちゃんとしていた気がする。


「今日残業だから遅くなるわー。」


シャワーを浴び終えた彼はスマホ片手に、用意した朝食を食べ、そう言った。


「また?随分多いね。」

「まぁなー。」


だったら少し早めに出社してはどうかと思う。正樹は相変わらずノロノロ準備し、玄関を出たのは九時近かった。玄関まで見送りした沙織が皿を片付けようとキッチンに向かうと、弁当がチョコンと乗っていた。


「…もぅ~!」


今なら急げば間に合うだろう。弁当片手に勢いよく開けたドアの先、階段を上がってくる正樹が見える。


「コレ!」


スマホを見ていた彼に弁当を掲げながら声を掛けると、「うわっ!」と物凄く驚いている。


「どうしたの?」

「さ、沙織、何でっ。」

「え?お弁当忘れて戻ってきたんじゃないの?」

「あ、あぁ、そうそう!急に声かけられたからビックリしたわ。サンキュー。」


早口でまくしたて、弁当を引っつかむと逃げるように階段を降りていく彼に、沙織の第六感が警鐘を鳴らした。態とらしく音をたてて扉を閉め鍵をかける。そして息を殺し、覗き穴から外を見る。


数分後、予想通り足早に部屋を通り過ぎる正樹を見つけた。そのまま耳を澄ましていると、何処かの部屋のインターフォンが鳴り、ドアの閉まる音がした。


沙織は慎重に鍵を開けドアを開いた。勿論だが、正樹の姿はどこにも見えない。早くなる鼓動と息を何とか整え、スマホを手に取る。


トゥルルル トゥルルル


「はい、○○商事です。」

「おはようございます。恐れ入りますが白井正樹さんお願いできますか?く…工藤と申します。」

「工藤様ですね。申し訳ございません。白井は今週テレワークでの業務となっております。折り返し電話させますので、ご用件とご連絡先をお願いできますか?」

「…そうですか。急ぎではありませんので、こちらからまたご連絡します。」


早々に電話を切った沙織はソファに倒れ込んだ。


今日は木曜日だ。テレワークは今週と言っていたが、一度も家にいたことはない。朝は沙織が先に出るため分からないが、少なくとも帰って来て彼がいたことはない。


「どの部屋にいるかなんて…決まっているわ。」


この階には四部屋しかない。正樹が消えた方向には二部屋だ。中年の夫婦の部屋に何の用事があるというのだ。


「小心者のクセに、こういう時は大胆なのね…。」


そう呟いた途端、隣の部屋からコトリと物音が聞こえた気がした。この部屋にいてはいけない気分になり、沙織は出掛けることにする。洗濯機はもう一度回す事になるだろうが構わない。化粧もそこそこに帽子を目深に被って玄関のドアを開けた。


「…おはようございます。」


ドアの先、青山が立っていて驚く。


「っ!おはようございます。どうかしましたか?」

「あ、いえ。」


ソワソワと視線を揺らす青山は明らかに挙動不審だ。思わず眉間に皺を寄せると彼が口を開いた。


「余計なお世話だと思いますけど、旦那さん、その…。」

「旦那じゃないです。」

「…彼氏さん、大丈夫?」


青山も分かっているのか。自分は鈍感なのだろうか。


「ご忠告ありがとうございます。急ぎますので、失礼します。」


沙織は小走りにその場を後にした。アパートを出てすぐ、向かいの喫茶店に駆け込む。席に着いて自分が震えていることに気がついたが、頼んだ温かなカフェオレを飲む頃には、大分動悸も落ち着いていた。


引っ越しから一ヶ月足らず。

一体いつ、どうやって。


変な言い方だが、仕事が早すぎやしないだろうか。

そう思う半面、何となく納得もしている。


残業が多いと思っていた。

妙に素っ気なくなった。

やたら一人で外出したがっていた。

トイレもお風呂もスマホを持って行っていた。


思い返せば浮気の代表的な行動ばかりだ。


「はは…。」


沙織は乾いた笑いを浮かべた。環境の変化について行くのにやっとで、彼がどんな顔をしていたか思い出せない。


「どうしようかな。」


まだ朝だ。久々の休みを無駄にはしたくないが、今後のことを色々考えなければならない。


沙織はぼんやりと外を眺めた。



※※※


昼過ぎに沙織はマンションに戻ってきた。皺がれる洗濯物を見過ごせない自分の生真面目さが少し憎い。


エントランスで郵便受けを覗くと、いくつか届いている。取り出してなんとはなしに確認し、封筒に混じって入っていたソレに固まった。


正樹と梨花の写真だ。


玄関で抱き合うもの、キスしているもの、入室の様子をとらえたものもある。どれも正樹の顔が間違えようがないほどバッチリ写っている。


決定的な証拠写真に衝撃を受ける。こうして目にすると、想像しただけの何倍もの破壊力だ。それとは別に沙織は困惑した。


一体誰が───。


この事を知っているのは、ごく僅か。正樹ではないはずだ。では梨花か?何故?あるいは青山か?


予定外の事に頭が回らない。全てカバンに突っ込んで部屋に戻る。階段の途中で三階の気配を伺うことも忘れない。鉢合わせなんて御免だ。


どうして私が気を使わなければならないの。


誰もいない事を確認し、素早く部屋に入って一息付く。すぐに洗濯機を回してテレビをつける。隣の物音など一切聞こえないようにボリュームを上げた。


改めて写真を確認する。角度的に廊下側から撮られている。タイマーを使えば誰でも撮れるだろう。裏を確認するが特に何か書いてもいない。コンビニかどこかで印刷したもののようだ。


とりあえず纏めて適当な封筒に入れ、会社用のバッグにしまう。ここならバレる心配はない。少しホッとして顔を上げれば、壁掛けのカレンダーに目がいった。次の休みは付き合って一年の記念日だ。


「一緒にいるかも疑問だわ。」


沙織は苦笑いしながら、カレンダーの赤マルを指で弾いた。


髪を結わえて気合いを入れる。とりあえず掃除をしながら落ち着こう。部屋の浄化は心の浄化。特に水周りはいい。幸い天気は良い。夜ご飯はデリバリーを注文しよう。特別にデザートもつけよう。少し浮上した気分のまま、掃除機をかけ始めた。


けれどその後も奇妙な事は続く事になる。次は無言のインターフォンだった。決まって沙織が一人の時、正樹が残業だと言って出掛けた夜に、それは鳴るようになった。



※※※


「わぁ!とてもお似合いですよ!」


大きな鏡の前で沙織ははにかんでいる。自分はドライなタイプだと思っていたが、やはりウエディングドレスとは特別な物らしい。Aラインの腰にはリボン、シフォンが幾重にも重なるフワフワのドレスは着るだけで気分が上がった。


「どうかな?」

「いいんじゃね。」


素っ気ない返事の正樹を張り倒したくなるが我慢した。でも今日は心ゆくまで試着してやると誓う。


記念日の今日。二人はとある結婚式場の下見に来ている。正樹のほうから誘ってきた時には、何事かと内心驚いた。梨花とは早速別れたのかと思ったりしたが、会場について納得した。


「沙織様、こちらもお似合いになりそうですよ?」


ニコニコと新しいドレスを手渡してくるのは赤石梨花だ。この会場は彼女の職場。ここでプランナー件、モデルとして働いているらしい。


「…ありがとうございます。」


確かに素敵なドレスだ。センスもいい。けれど更衣室の補助は別の女性だ。沙織が着替えている間、梨花と正樹は二人で何をしているのだろう。


ドレスの着せ替えはもちろん楽しいが、やはり少し心配だ。沙織は時々声をかけながら試着を繰り返した。


「やー女の着替えって本当に時間かかるのな。」


沙織が勧められた全てのドレスを着替え終わると、正樹は不平を口にした。もっとも彼は彼で楽しい時間を過ごしたのだろう。その表情は緩み切っている。


「正樹さん、そんな事言っちゃダメですよ!結婚式は女性の夢が詰まってるんですから。」


さりげなく下の名前を呼んでいる。そう言えば私も名前呼びだった。もっとも「さん」と「様」では距離感は雲泥の差だが。


そんな彼女が数枚の用紙をテーブルに置いた。


「コレ、うちのオリジナルの婚姻届なんです。今だけコラボしてて。可愛いでしょ?」

「お、沙織の好きなヤツじゃん。」

「あら偶然!良かったらコチラも練習で書いてみてはどうです?」


梨花はニッコリと笑っている。細くなった瞳の奥、何を考えているのかは分からない。


「い、いや~、流石に…。」


渋る正樹に呆れる。そりゃ浮気相手の前で婚姻届を書きたくはないだろう。沙織の中でむくむくと困らせたい欲求が湧き上がる。


「練習だしいいんじゃない?」

「や、その、なんてゆーか。」

「本番で失敗するよりかはいいよ。ホラ。」

「皆さん練習されてますよ?是非。」


そう言われた正樹はしぶしぶペンを握った。名前、住所と記入していく。無事書き終えて沙織にペンを渡して来た。少し緊張したが、間違うことなく沙織も書ききった。


「凄い!ノーミスですね。」

「当然。」

「良かったです。」

「これなら本番も大丈夫そうですね!じゃあこちらの練習は廃棄しておきますから。」


そう言って梨花は目の前でくしゃくしゃに用紙を丸めた。その勢いの良さに沙織は吹き出し、正樹は安堵のため息をついた。


揃って店を後にし、近くのレストランで夕食を食べる。軽くアルコールを飲めば久しぶりに会話も弾む。こうしていると全てが夢のようだ。春の夜はどこか気だるい。霞む月の光は柔らかく、見たくないものを上手く隠してくれるようだ。


正樹も上機嫌で二人でブラブラ歩きながらマンションに戻ると、エントランスで青山と鉢合わせた。


「こんばんは。」


無視する理由もないので声をかけた。彼とは忠告を受けて以来も、ちょくちょく顔を合わせている。


「…こんばんは。仲良しですね。」

「はは!青山さん彼女とかいないんすか?」

「ちょっと!」


いきなり不躾な正樹に焦る。青山は気を悪くした風でもなく「いるんですけど、今離れてて」と答えた。


「遠恋かぁ!そりゃ寂しいっすね。」

「寂しいというか…心配です。」

「あれ?もしかして束縛系?男はドンって構えてなきゃ。」

「正樹!すいません、ちょっと酔ってて。」

「大丈夫ですよ。」


それからすぐに別れたが、去り際じっと見られていた。強い視線に少し恐さを覚える。沙織はなるべく気にしないようにして、正樹の後ろを歩いた。


「あー!美味かった。口直しのビールっと。」


部屋に入るなり冷蔵庫に直行し、ビールを取るとソファにダイブする。そのままグビグビと飲んだかと思えば、その場でタバコに火をつけた。


「ちょっと!吸うならベランダ!」

「いいじゃん。今日だけ。」

「ダーメ。」

「ちぇ。ケチくせぇな。」


ボリボリと頭をかいた正樹はくわえタバコでベランダに消える。もちろん丸めた靴下は置き土産状態だ。


沙織は急激に冷めていく自分を感じながら、靴下をつまみ上げ洗濯機に放り込んだ。そのまま服も脱いでシャワーを浴びる。ザブザブと余計な物を洗い流していく。


酔っ払った正樹は直ぐに寝て起きない。証拠を集めるなら今日だ。


サッパリしてリビングに戻ると、案の定正樹はいびきをかいて寝ている。開けたビールは半分以上残っている。不経済さに眉をひそめつつ、お腹の上のスマホを素早く回収した。ロックが掛かっているのは想定内。震える手を叱咤して、正樹の指を握る。何とか起こさず解除に成功した。


開いたスマホの画面はイキナリ、某アプリのトーク画面だ。文章を読むまでもない。そこいら中にハートが散らばっている。


今日は来てくれてありがと!お陰で勧誘ノルマ達成♪

お疲れ♡どうせなら梨花ちゃんのドレス見たかった

私も着たかったな。正樹くん、試着手伝ってくれるでしょ?

脱がせるのは任せろ♡

もう♡エッチ♡♡♡次いつ会える?

明日行くよ!にゃんにゃん希望♡


低能な会話の数々をスクロールしていく。画面を撮影するのも忘れない。沙織は淡々と作業をこなしていた。正樹はこんなキャラだっただろうか?


次は写真フォルダだ。こちらには何も無くてホッとした。他に何かないか調べるが、特に何も出ない。最後に沙織は自分の指紋を登録して元の位置に戻し、正樹を見下ろした。


一年。短くはない期間だ。仕事の関係で出会い、すぐに意気投合した。最初の半年は遠距離だったが頑張った。正樹も優しかった。近くに住むようになってすぐにプロポーズされた。早過ぎないかと驚いたが、正樹は真剣だった。沙織は内心ガッツポーズをしたのを覚えている。正樹の両親は少しクセが強めだったが、結婚を否定はされなかった。正樹の上司からは「まともになった。良かった。」と泣いて祝福された。全てが上手く運んでいた。


沙織はため息をついて、妹に連絡を取った。明日はどうせ正樹はいないのだ。これからの相談をしたい。


沙織は一人、ベッドで丸くなった。その肩は小刻みに揺れていた。


※※※


「うわ!マジかよ!」


出掛けると言って玄関を出た正樹の声に、沙織は急いでその場に駆けつけた。開いたドアの前、生ゴミがぶちまけられている。よく見ずに盛大に踏みつけたらしい。


「誰だよ、何だよコレ!」

「…嫌がらせ、かな?」


沙織の言葉に先程まで怒っていた正樹が急に大人しくなった。


「どうしたの?心当たりあるの?」

「ないないない!」

「警察とか大家さんとか…。」

「いや!今回は何か理由あるかもだし、大事にすんなって!俺出かけるから片付けといてな。」


そそくさと去っていく正樹に呆れる。きっと梨花の仕業だと思ったのだろう。大事にしたくない、片付けたくもない。本当に自分の事ばかりだ。


でも果たして梨花が犯人なのか?


そのままには出来ず、沙織はゴム手袋をして掃除を開始した。ちょうど今日はゴミの日だ。急げばまだ間に合う。雑巾で拭き取ってハイターも振りかける。消臭剤もふきかけ磨いた床は、元々の床より綺麗になったかもしれない。


ふと視線を感じて顔を上げると、ゴミ袋を抱えた青山だった。珍しくスーツを着て出社する所のようだ。床を磨きあげる沙織を見て口を開いた。


「徹底してますね。」

「念には念をというか…。それよりお仕事行かれてるんですね。」

「…まぁ…。」

「でも割といつもいますよね?」

「…。」


茶化しながら改めて床を見れば確かに磨きすぎた気もする。じっとこちらを見る青山は無言だ。少しからかい過ぎたかもと思った沙織は、ペコリと会釈をして部屋に入った。これから妹と会うのだ。ゆっくりはしていられない。


時計を見ると結構な時間が経っていた。やはり磨きすぎたらしい。慌てて着替えと化粧を済ませ、迷ったが郵便受けにあった写真も持って出かけることにした。待ち合わせにはギリギリ間に合いそうだ。


※※※


「…早過ぎない?」

「本当にね。」


半個室の食事処で向かい合った妹の第一声だ。沙織もため息混じりに同意した。


予定通りギリギリに飛び込み、火照った頬を仰ぎながら待ち合わせだと伝える。誘導された席に妹は既に来ていた。座ると同時に来た冷えたグレープフルーツジュースは沙織の好物だ。気の利く妹に何を食べるか聞くと既に終わっていると言い、程なく運ばれてきた。流石だ。


定員が出ていったのを確認し「それで?」と身を乗り出す妹に、写真とスマホで撮影した画面を見せながら説明した。その後の第一声が「早過ぎない?」だ。


「流石というか何と言うか…。」

「そっちの才能に溢れてるのよ。たぶん。」

「やっぱりろくでもない奴じゃん。」

「…ま、ね。」

「もう婚約破棄しちゃいなよ。慰謝料貰ってさ。」

「証拠がないよ。」

「じゃあ集めよう!」


元より正樹をよく思っていない紗菜はサバサバと話を進めていく。もう少し時間が必要かと思っていた沙織は、妹に背中を押される形になった。


「定番はGPS?」

「隣の部屋だから無理じゃない?」

「そっか。じゃあボイレコだね。探偵はどうする?」

「お金はなるべく掛けたくないな…。」

「お姉ちゃんが出張って事にして突入しようよ。」


妹よ、随分と楽しそうだな。


話の内容さえ聞かなければ、サプライズパーティーでも計画しているようなノリだ。沙織は苦笑いを隠せない。


「とりあえずボイレコにするよ。」

「頼むならバッテリーと早送り機能あるか確認してね。ペンタイプとかお勧め!」


妹よ、詳しいな。


その後も紗菜のレクチャーをたっぷりと受けた。やがて満足した彼女と、少し冷めた料理をモソモソ食べる。


「そう言えば夜に無言インターフォンが鳴るんだよね。私一人の時に。」

「え?何それイタズラ?」

「イタズラと言えばこの写真は誰からだろう。」

「ぶっちゃけ証拠になって良かったけどね。」

「あと、今朝家の前に生ゴミぶちまけられてた。」

「はぁ?」

「正樹が盛大に踏んで怒ってたよ。」


驚く妹には悪いが、あの正樹の顔は傑作だった。クスクス笑いながら一連のやりとりと、床の掃除の事も話す。「まさか…」と言っていた紗菜も、最後には「よくやるね」と肩を竦めた。


「まぁでも気をつけてね?」

「大丈夫。また報告するから。」


心配する妹に癒されながらマンションに帰る。誰かに話せるのは有難い。久々にスッキリしたし、これからの事も決めた。二人で大手家電量販店に行き、紗菜の納得するボイスレコーダーも購入してきた。


機嫌良くマンションのエントランスに入り、いつもの様に郵便受けを確認する。無造作に取り出した封筒の中から、ヒラヒラと一枚落ちてきたのは写真だ。


また、だ。


今度はラブホテルと思わしき場所に入っていく正樹と梨花の写真だ。ご丁寧に日付入り。場所は複数あるようで、何なら今日の日付の物まである。


「一体誰なの…?」


ニヤけた正樹の写真を手に、胸が痛くなった沙織は一気に階段を駆け上がる。乱暴に閉めたマンションの明かりは当然ついていない。カーテンは開いたままだが、今日は月すら見えず闇が広がっている。


心臓がイヤな音を立てる。息が切れて動きたくない。それでもノロノロと移動しリビングの電気をつける。


途端に感じた違和感。


何とは分からないがいつもと違う。

クッションはここにあったか?

本棚の配置が違う気がする。

朝出かけた時よりどことなく片付いていないか?


正樹だろうかとも思ったが、引っ越してきてこの方、家事をした事などない。では誰が?


ピンポーン


沙織がへたりこんだ時、無言のインターフォンが鳴った。


※※※


「じゃあ行ってくるね。」

「おう!気をつけてな。」


沙織は軽いスーツケースを片手に緊張しながら玄関に向かった。後ろには楽しげな様子の正樹がついてくる。


「…正樹も羽根伸ばしたら?」

「え~?はは。じゃあそうすっかなー。」


鼻の下を伸ばす正樹に冷めた視線を送ってしまった。今日が厄日だとは思いもしないのだろう。


あれから二週間が過ぎた。ボイスレコーダーは実に良い仕事をした。誰からかは分からないが写真もよく撮れており、弁護士からお墨付きを貰った。


「決定的な写真があると尚良ですね。」


その言葉に紗菜発案の偽出張計画を実行することにしたのだ。


「荷物の受け取り、お願いね。」

「おう。今日は一日いるから大丈夫だ。」


誰と一緒にいるつもりなのかしら。


沙織はため息をつきたいのを押し殺して微笑んだ。今日で全てが終わるのだ。


「正樹ありがとう。…ごめんね?」

「気にすんなって。じゃあなー。」


閉まるドアの向こうに笑顔の正樹が消えた。一年と少し。それなりの思い出はある。ほんの少しだけ情はあるが、後悔はしないだろう。


そのまま妹と合流し夜を待つ。流石の沙織も、紗菜すらソワソワしていた。今日泊まる部屋で着替え、帽子とメガネ、マスクもつける。少し怪しい人になったが、バレるよりはマシだ。


二人で言葉少なにマンション向かいの喫茶店に向かったのは八時近かった。


「じゃあ、私は様子見てくるね。」


同じく変装した紗菜に軽く頷く。万一鉢合わせても会ったことの少ない紗菜ならバレないだろう。


一人で喫茶店に入り、いつかと同じようにカフェオレを頼んだ。あの時と同じように震えている。温かなカフェオレを飲んでも今回はおさまることはない。進まない時計を何度も確認しながら待った。


やがてスマホのバイブが鳴った。合図だ。


会計を済ませ店を出る。

マンション前で紗菜と合流して静かに階段を登る。

部屋の前で顔を見合せ深呼吸する。

カメラを確認し、鍵を取り出した。


緊張は最高潮だ。


震える手が鍵をカチャカチャと鳴らしてしまうが抑えられない。出来るかぎり静かに鍵を差し込み、ゆっくり回した。


そこからはあっという間だった。


ドアを開き土足で寝室まで向かう。月明かりを頼りにリビングを突っ切り、寝室の電気をつけ半裸の正樹の情けない写真を撮るまで二十秒もかからなかった。


「なんで…っ。」

「なんではこっちの台詞よ。何してんの?」

「いや、その、これは…。」

「服着てリビング来て。貴方も。」


隣の梨花にも声を掛けリビングで待つ。やがて出てきた真っ青な正樹と梨花は正座した。隣の紗菜は目線で殺せそうなほど睨みつけている。


「で?」

「…。」

「いつから?」

「…。」

「もう全部分かってるから。」

「沙織が悪いんだぞ!」


逆ギレした正樹が立ち上がって指さしてきた。


「お前が結婚するまでダメだなんて勿体ぶるから悪いんだ!」

「は?」

「俺は仕方なく他で発散しただけだ!悪くねぇ!」


言っていて恥ずかしくならないのだろうか。そんな理屈が通用する訳ないのに。


「最低。話にならないわね。」

「うるせぇ!黙れ!」

「婚約は破棄よ。慰謝料、払ってもらうから。」

「はあぁ!?」


ビックリ顔の正樹が大きな声を上げる。その後ゲラゲラ笑い始めた。


「お前バカか?ただの婚約破棄で慰謝料払う訳ねぇよ。」

「指輪渡して、上司にも親にも紹介してるのよ?結婚式の下見にも行ってて、ゴメンナサイでは済まないって知らないの?」


冷静に返す沙織の言葉にサッと顔色を変えた。


「いや、その…。」

「まぁ良かったけどね。家事も何もしないし、お先真っ暗だったし。」

「…。」

「稼ぎも少ないのに散財して。モラハラ気味だし。大したことないのに自信過剰で。」

「…おい。」

「マザコンなんだから一生ママに世話してもらえばいいんじゃない?あんた結婚出来ないだろうしね。でっかいだけのお子ちゃまだもの。あー清々する!」

「てめぇ」

「本当の事言われて怒ってるの?やだー。これだから器小さい男は。犬と一緒ね。小さい犬ほど良く吠えるって。ウケる。」

「ふざけんなよ!」


勢いよく近づいた正樹が手を振り上げる。紗菜の悲鳴と頬に衝撃を感じたのは同時だ。体制を保てず窓に倒れ込む。巻き込んだ植木鉢は派手な音を立てて割れた。


煽ったのだから当然の結果だが、痛いものは痛い。口の中には鉄の味が広がっている。


「お前マジ調子乗ってんなよ!」

「ちょ、止めなよ!」

「うるせぇ離せ!!」


激高した正樹がなおも迫ってくる。梨花と紗菜が二人がかりで止めているが、正樹はその辺にあった物を手当り次第に投げてくる。幸い沙織には当たらないが、窓ガラスが割れてガシャーンと音を立てた。


「大丈夫ですか!?」


そこへ警察官が二人駆け込んできた。一目で状況を把握した彼らは正樹を羽交い締めにした。流石の正樹も驚いて一瞬動きを止めた。


「ご近所から通報がありましてね。大丈夫ですか?」

「…はい。」

「殴られたんですね?あぁ、口の中が切れてるのか。とりあえず病院行きましょう。」


優しい警察官が沙織を助け起こす。紗菜が「お姉ちゃん!」と、涙目で駆け寄ってくる向こう側で正樹が暴れているのが見える。


「違いますって!ただの喧嘩!おい沙織てめぇ!説明しろよ。おめぇのせいだろ!!」

「暴れるな!いいから行くぞ!」


そのまま手錠をかけられた正樹は引きずられて行く。


「貴女方も来てください。事情をお聞きしますから。」


揃って部屋を出た先には青山が立っていた。


※※※


「それじゃ、ありがとうございました。」

「…はい。」


引っ越し業者を見送りドアを閉めてガランとした部屋を振り返る。割れた窓ガラスは綺麗に直っていて、あの日の喧騒はない。それでも多くが変わってしまった。ため息をついて小さな鞄を手に部屋を出た。


「こんにちは。」


廊下に出ると青山に声を掛けられた。


「お引っ越しですか?」

「あ、えぇ。地方に…転勤になりまして。」


そう答えた正樹は短くなった髪のせいか、少し印象が違っていた。


あの日、正樹は留置所内で冷静さを取り戻し青くなった。殴るつもりなどなかった。やり過ぎたと眠れぬ夜を過ごし、ようやく解放されたのは次の日の昼過ぎ。沙織への接近禁止命令を言い渡され、迎えに来た父親には殴られた。


会社に電話し体調不良と嘘をつけば「お大事に」と冷めた声色で返って来た。とりあえずマンションに戻れば沙織の荷物はすでに全てなくなっており、窓ガラスの請求書と婚約指輪がテーブルに上がっていた。


その日も眠れず出社すれば、明らかに周囲がよそよそしい。直ぐに上司に呼ばれた。すでに話は知られており、その場で退職を決めた。


世話になった上司にだけ包み隠さず報告すると「馬鹿野郎」と、絞り出すように言われ泣かれた。自分の至らなさと人としての心構えを教えてくれた彼に泣かれるのは堪えたし、会社を去るのは少し寂しかった。引き継ぎを終えて退社すれば、今度は両親と弁護士が待ち構えていた。


笑顔が恐ろしい弁護士の事務所に行けば、弁解の余地などない証拠を提示された。シワだらけの婚姻届と、沙織を殴った瞬間の動画まで揃っていたのには驚くばかりだった。見守りカメラなど、いつの間に取りつけていたのだろうか。


母親は泣き出しゴネたが、弁護士の笑顔が凄みを増しただけだった。慰謝料は父親がその場で支払った。


事務所を出てすぐ父親から勘当を言い渡された。母親は泣いて縋ったが、これ以上言えば離婚だと言われ黙り込んだ。 世間体ばかりで傲慢な父と過干渉な母と縁が切れるのは予想通りで、不謹慎ながらホッとしたがそれでも淋しさは感じていた。


項垂れでマンションに帰れば、更に大家から退居を依頼された。実家には帰れない。仕事もない。青山に転勤と嘘をついたのは最後の強がりだ。


「そうですか。」

「あの、その節はお騒がせしました…。」


正樹が頭を下げれば「お気なさらず」と返ってきた。こうして普通に誰かと話すのすら久しぶりだと思っていると、青山の部屋の中から笑い声がした。


「誰か来てるんですか?」

「えぇ、彼女が戻ってきまして。」

「そうですか。…良かったですね。」


正樹は沙織を思い出していた。あれから梨花とは連絡が取れなくなった。当然と言えば当然だろう。思い返せば自分はなかなか酷い男だった。そんな正樹に沙織はため息をつきながらも、いつも優しかった。


もう会うことはない。それが酷い事をした自分のせめてもの償いだ。一度は自分が幸せにするのだと本気で誓ったが、自分の隣に彼女の幸せはない。それならば自分は彼女の望み通り消えよう。幸い体は健康だ。当面凌げる蓄えはある。何とかなるだろう。


「俺は自分をやり直すとこからですかね…。」


苦笑いした正樹に、青山は目を丸くした。少しの沈黙の後、静かに口を開いた。


「いつでもやり直しは出来ますよ。感謝を忘れなければ、いつかまた良いことがあると思います。」

「…ありがとうございます。」


青山の言葉にうっかり滲んだ涙を誤魔化すように頭を下げる。良い奴じゃないか。もっと仲良くなればよかった。青山の部屋から聞こえる笑い声に、コイツの彼女ならきっと幸せなんだろうなと思った。


マンションを出ると強く風がふいた。風に背中を押され顔を上げると、少し霞んだ青空が広がっている。再出発にはいい日だ。正樹はゆっくり歩き出した。


※※※


ピンポーン


インターフォンの音に玄関に急ぐ。


「お姉ちゃん!やっほ。」

「いらっしゃい。お仕事お疲れ様。入って入って。」

「お邪魔しまーす!」


沙織も紗菜も、満面の笑みだ。足取りも軽く部屋に入る。


「長かったねぇ。」

「そうね。でも予想よりは全然早かったよ。」


向かい合って座り、しみじみと振り返る。


「結局慰謝料は貰えたの?」

「勿論!父親が振り込んでくれたよ。あ、今日はこっち持ちだからね。」

「ご馳走様でーす!」


実際、慰謝料はすぐに振り込まれた。お陰で面倒な手続きはほとんどなく日常に戻れていた。


「それで?少しは気が晴れた?」

「まぁ、少しはね。」

「…一年以上付き合って情がわいた?」


からかうような顔で紗菜が聞いてくる。


「少しね。」

「えぇ!?」

「でもやっぱやな奴には変わりないよ。だーれが根暗デブよ!」


今思い出しても腹が立つ。引っ越し初日、あの場で怒りだしそうになった。あの時に再認識したのだ。やはり許すことは出来ない。


「アイツのせいで暗い中学時代になったのよ。」

「しかも名前すら覚えてないとか引くわー。」


正樹の一言余計な性格は中学時代からだった。「こいつの親死んで施設通いらしいぜー!だから根暗なんだなデブ」ゲラゲラ笑いながら、最初にからかってきたのは正樹だった。


事故で両親を亡くしたショックもまだ癒えぬ時期。その言葉だけでもかなり堪えた。


だが地獄はそこからだった。その一言はイジメに発展した。陰口も靴を隠されるのも、水をかけられるのも日常茶飯事。その先頭にはいつも正樹がいて笑い転げていた。


そんな彼から「謝りたいから」と体育館の用具室に来るよう言われた時は、素直に感動した。思えば純粋だった。


まさか襲われかけるなんて思いもしなかった。


複数人いなかったのも、撮影されなかったのも、今思えば不幸中の幸いだ。けれど当時の衝撃は相当なもので、学校はおろか部屋の外に出るのも難しくなった。


妹と施設の友人の助けがなければ、未だに引きこもったままだったかもしれない。施設という特別な場所で出会った彼らとの絆はとてつもなく強い。彼らには感謝してもし切れない。


「お陰で持つべきものは素晴らしい妹と素晴らしい友人だって改めて知ったよ。」

「ふふふ。でもよく耐えたよね。心配性な誰かさんはかなり挙動不審だったよ。」

「仕方ないだろ!」

「もぅ引っ越し初日にウロついてたのは爆笑モノだったよー!」


紗菜は彼の肩をバンバンと叩きながら笑い転げた。ムスッと不貞腐れた顔には黒縁メガネはない。


「そりゃ心配するでしょ!結局殴られたし!」

「まぁまぁ、その一発で慰謝料跳ね上がった訳だし。操は死守したよ?」

「そーゆー問題じゃない!」


本気で怒る彼に愛しさが込み上げる。取引先で正樹に再会したのは偶然だった。名前すら覚えておらず、能天気に笑う正樹に猛烈に怒りが込み上げてきた。復讐したいと言った沙織の我儘を、渋りながら許してくれた彼には頭が下がる。一年以上も心配させ続けてしまった。それでも待っていてくれたのだ。


「なーに見とれてんの?惚れ直した?」

「ふふ。それより、本当にありがとうね。一番嫌な役引き受けてくれて…。」

「気にしないの!私は貞操観念低いから大ー丈ー夫。それにあんまシなかったし問題ナーシ!」


あっけらかんと言いウインクを飛ばすもう一人の友人は、今日も見とれるほど美しくてエロい。その髪は短く、泣きボクロは消えている。復讐の計画を立てた時、自ら嫌な役回りを提案し、引き受けてくれた。何度も心配してその度に申し訳なさで胸が痛んだが、今、その笑顔に陰りが微塵もないことに心底ホッとした。だから沙織も明るく笑った。


「流石出来る女。お陰で予定の大幅巻き!」

「でしょ?美貌は正しく使わないとね。」

「正しいのか?ソレ。」

「いやもぅあの演技は脱帽モノだったよ。」

「それは沙織じゃないの?」

「皆仕事が早すぎなのよ。混乱しちゃったじゃん。勝手に侵入して見守りカメラつけるって。流石に一言教えて!」

「バッチリだったろ?」

「お前か!」

「あと、あのインターフォンは誰?」

「はいはーい!」


話は尽きない。様々な可能性を考えて引っ越してからはほとんど連絡を取らず、他人のフリをしていたのだ。これまでの答え合わせをしなくてはならない。


「ねぇ、乾杯しようよ。」


誰かの声に揃ってプルタブを開ける。沙織は奮発した海外の黒ビールを手に取る。すぐに「乾杯!」と明るい声が重なった。


「で、写真は結局どっちが撮ったの?」


薄っすら赤い顔の紗菜が陽気に二人に問いかけた。沙織は「それねー」と言いながらビールを傾ける。


「「写真?」」


口の中に苦さが広がる。


月は煌々と輝いていた。





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― 新着の感想 ―
[良い点] 実話のような生々しさがあって面白かったです!
[良い点] 序盤、新生活への期待とか幸せオーラが感じられないな……と思いましたが、完全に予想外の結末になりました。 そういうことでしたか。
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