しばしグッバイ、またいつか。
個人的に、ここでの投稿をしばらく停止しようと思った理由。
様々な意見があるのは承知の上で、あくまでも個人的な認識。
※ここの在り様を否定するものではありません。
去年の終わり頃から、いくつかのサイトで自分の書いたものを投稿してみた。
ここだけで投稿していた時には「そういうもの」としていたのだが。
ほかで投稿するようになって気づいた。
この窮屈さと閉塞感はなんなのか。
見えない「圧」を感じるようになった。
もとより薄々は感じていた要素とあわせると理由はふたつ。
タグと評価、だ。
タグについては、割と早い段階から窮屈さみたいなものは感じていた。
たとえば大手通販会社複数で「探偵」一致「密室、嫌いな作者名」除外で検索。
だいたいは、どこの会社であろうと似たような印象の結果になるだろう。
ここで大事なのは、これらキーワードは同列のものであるということ。
けして「除外するため」前提ではない。
では、ここではどうか。
自分ではBL要素だと思っていなくても、そう受け止める人がいれば
「BLタグ入れとけや!」と罵声を浴びせられる可能性がある。
逆にBL要素があると思われることを回避するためにタグを入れれば
「BL要素なかった!タグ詐欺!」と罵声を浴びせられる可能性がある。
規定で決められているものはともかく、それ以外のタグには、この矛盾が生じる。
なぜなら、ここでのタグは「除外」前提が「普通」だから。
書き手の「嫌なら避けてね」読み手の「地雷踏ませんなよ」との「除外」意識。
これが、ここでの「タグ」には含まれているので「圧」がかかるのだよ。
だって、誰がどう感じるかなんてわからないじゃん。
自分ではBL要素はないと思っていても、そう受け止められるかもしれないし。
そう受け止められるかもと思っていても、そう受け止められないかもしれないし。
どっちにしても、わからんのですよ。
どっちにも落とし穴があるわけですよ。
で、書き手として「自分ではこういう判断だから入れなくていいか」とした時。
もしくは「この先でこうなるから入れておいたほうがいいか」とした時。
「タグに〇〇が入ってない」「タグに〇〇って入ってるのに」とされる現象。
前者の場合は「自分ではそう思ってないのでね」としか言えない。
後者の場合は「いや、まだそこに至ってないだけ」としか言えない。
それらを「説明」したり「謝罪」したりせねばならんのは窮屈極まりない。
人の地雷のことまで、知らんがな。
こちとらエスパーでも神でもチート能力者でもないのだよ。
十人十色の個人の趣味嗜好までわかるはずがなかろうよ。
それでも、この見えない「圧」があるのだから厄介だ。
これが窮屈さと閉塞感のひとつめの理由。
はっきり言うが、これは「このサイト」でのみ感じられるものなのだよ。
ほかで投稿してみて、ものすごく「気楽」にタグ付けできたからね。
次に「評価」なのだが。
今まで自分は「評価」について、ほとんど意識していなかった。
読んでくれているかたがいる、ということの指標のひとつという認識。
PVには変動があるが、評価というのは完結後に時間を経ても大きな変動はない。
過去に書いたものの指標として累計ポイントを見ていた感じだ。
この話は、このくらいの人が読んでくれていたんだなと。
が、この「評価」という仕組みがないサイトもあることを知った。
そこで初めて、自分は「評価」ということの意味を感じ始めたのだよ。
これが、そこはかとなく感じていた「圧」を決定的なものにしたように思う。
単純に数値としての意味でしか捉えないのであれば「評価」とは言わない。
ポイント(数値)がほしいだけなら、評価という仕組みの存在意義もない。
本当につまらなかったら、☆なんてつけないという意見はある。
※☆にダメージを食らう必要はなく、むしろ☆1だって有難い説
が、圧倒的に評価が少ない中「あえての評価がなされている」のだよ?
つまり「評価」は単なる数値ではなく「読み手の意識が介在」する。
ということを、別サイトで更新するようになって気づいたって感じ。
そこは読み手が意識的につけるわけではなく自動でポイント集計される。
本当に単純な数値でしかない。
結果、純粋な数値、単なる「ポイント」なら「評価」する必要ないなと。
「本当につまらなかったら、☆なんてつけない」説を是とするならば。
なぜに「評価」か?
応援ポイントで、いいじゃん。
応援ポイントならば、1点だろうが5点だろうが、10点だろうが。
相手の応援する気持ちの大きさの問題に過ぎない。
ちょっと応援してやるか程度なのか、めっちゃ応援してる!なのか。
それこそ応援する気(期待値)がなければ、0ポイントだ。
とはいえ。
それは読み手の意識が介在していようと「相性≒好み」ですまされる。
要は、話の良し悪しには、ほとんど関わらない。
だって「応援」は「評価」ではないのでね。
人が「応援」する時には、様々な感情がある。
たとえばマラソンで2連覇がかかっている選手を応援したり。
同じ出身地だから応援したり。
最終ランナーを応援したり。
強いから、速いから、有名選手だから、というだけでなく「応援」する。
「本当につまらなかったら、☆なんてつけない」説は、これと同列の意識?
それは、かなり乱暴な発想だと感じる。
☆は「応援ポイント」ではなく「評価」なのでね。
さて、ここで「評価」について。
そもそも「評価」とは
物事・性質・能力等の良し悪しや美醜等を調べて「価値を定める」こと。
もうこの時点で応援とは違うということを認識しなければならない。
評価という言葉自体に「良い」「悪い」が混在しているというね。
1:極々わずかだが期待している
2:少し期待している
3:まあまあ期待している
4:そこそこ期待している
5:大いに期待している
→これだと「悪い」の部分がないので「評価」にそぐわない。
これは「良し悪し」の意味を持たない「応援」だ。
だから、これなら「応援ポイント」でいいだろ、と。
あえて「評価」にする必要ないだろ、と。
評価であるならば。
たとえばレストランに置かれている「アンケート」みたいなイメージ。
そのイメージだと、こんなふうになる。
1:大変つまらなかった
2:つまらなかった
3:どちらとも言えない
4:面白かった
5:大変面白かった
投稿初期、更新途中でも「評価」が入ってくるので、意識してしまうのだろうな。
5や4なら、当然だが「先を楽しみにしている」といった前向きに捉えられる。
もちろん、がっかりさせることになったらどうしよう、という気持ちもあるが。
そして、自分などは、存外、1は平気だ。
万人受けするものなんてないので、合わなかったんだな、と思う。
※あえてする評価が「1:大変つまらなかった」というのは
辛い物が苦手でハヤシライスを頼んだつもりが
食べたらカレーライスだった、くらいの勢い。
最も、ダメージを食らうのが、2と3。
レストランで言うなら、ひと口、ふた口食べて「不味い」と言われたか。
もしくは「まぁ、不味くもないけど美味くもない」と言われたようなものだ。
これは、かなりクリティカルなダメージとなる。
その後「食べる価値なし」として席を立ったのか。
「意外と癖になるかも」と評価が上がったのか。
「最後まで不味かった!」と評価が下がったのか。
なにもわからん。
ゆえに「この段階で判断されても」とか「どこでこの判断になったのか」とか。
いろいろと考えさせられてしまうわけだよ。
レストランのアンケートにしたってさ。
「味はいいけど見た目が悪い」「店員の態度が悪かった」とか。
書かない人も多いが、悪い評価の場合には書く人もそれなりにいるだろう。
でも、いっさいわからないんだよ、ここの「評価」では。
なのに、こちらには一方的に「読み手の意識」が伝わってくる。
そして、なにが問題かと言えば「評価」を意識すると、話が歪みそうになること。
ここは分かりにくかったかなぁとか。
こういう性格の人は嫌われるよなぁとか。
いらんことを考えるようになる。
それが「窮屈」「閉塞感」の元。
でもさ、読み手を意識しない書き手なんていない。
そして、やっぱりこの「評価」をいったん意識するとしんどい。
総合のポイントの多い少ないではなく、ランキングとかも無関係に。
読み手の意識の介在を強く感じてしまうのが、しんどい。
しかも、理由もなにも分からないのが、なおしんどい。
良い評価だけがほしいというのではなくてさ。
見えない「外圧」に振り回されずにはいられないって話なのだよ。
多くの高評価より少ない低評価を気にしてしまう感じだな。
そこが気になって続きを書くのがしんどくなったりとかさ。
読み手には読み手の自由がある。
同様に、書き手には書き手の自由がある。
両者、迎合する必要はない。
しかして、それが成立しなくなるという。
自分の書きたいものが書きたいように書けない感じ。
迎合的な意識に抵抗するのが、とてもしんどくて窮屈。
※迎合的
無意識に「嫌われない」「好まれる」方向性で話を進めようとする
それが自分の書きたいものと合致しているならいいのだよ。
絶対的に自分を貫けということではない。
ただ「書きたくないのに」話を歪めようとするのが問題ということ。
で?
ならば「評価」の設定を外せばいいってことなのだろう。
でも、それはもう「ここで投稿しなくてもいい」と同義となる。
ここの仕組みを否定するわけだし、ただの「物置」同然の意味しかなくなる。
もしくは自分の意思を強く持つ。
だが、割と、その行きつく先は、ほとんどこの2択になってしまう。
1.「本当につまらなかったら、☆なんてつけない」説を肯定する。
2.評価機能をオフって物置部屋にする。
3の要素は「評価を気にしつつも自らの書きたいものを書きたいように書く」だ。
しかしながら、先にも書いたが。
読み手を意識しない書き手などいないのだよ。
一方的に伝わってくる「読み手の意識」に揺らぎが生じるのは少なからずある。
読み手が「そんなつもりじゃ」なくても、だ。
どんなつもりかさえわからんし。
自分は頭が固くて頑固者だが、どちらかといえば秩序を重んじる性質でもある。
ここでの秩序がそうだというのなら、秩序を乱しているのは自分なのだと思う。
ここでは、それこそが真であって、まかり通っている「正道」なのだろうし。
しかしながら、これほど窮屈で閉塞感のある中で歪みを生じずに書くのは難しい。
だからといって、歪ませてまで書くのは楽しくないし、つまらない。
まぁ、少なくとも自分にとっては書く意味もない。
でも、書くのを辞めたいとは思わない。
結果、ここに投稿するのはやめて、河岸変えをすることにした。
今はまだ、ここで投稿すると書きたいことが揺らぐ。
そこまで打たれ強いわけでもないし、楽しくないことをする必要もないので。
「評価を気にしつつも自らの書きたいものを書きたいように書く」ことがね。
できるような状態になったら、戻るかもしれないが。
「評価を気にせず自らの書きたいものを書きたいように書く」より困難なのでね。
てな、わけで、しばしグッバイ、またいつか。
物置:
揺らぎ・歪みなく書きたいのなら完結してから投稿すれば良い
→より納得感のある「評価」を期待するのであれば一気投稿、即完結が望ましい
→人の目にふれる機会が少なく、ほぼ読まれない(評価云々以前)
=物置