03.シリンというメイド
古書を読みふけっていた私は、気が付けば古書店の閉まる時間を過ぎてしまっていた。
慌てて古書店を締め、私は家へと帰る。
アルトさんは結局帰ってこなかったので、接待にでも連れていかれたのだろう。
可哀そうだ。
こうしてアルトさんが帰ってこれない日は多々あるため、古書店の鍵は私が預かっている。
お腹が空いていた私は途中の露店で串焼きを買い、齧りつきながら帰る。
この至福は公爵令嬢だったら味わえないものだ。
「ただいま」
「おかえりなさいませ!ミリアム様!」
食べ終わった串を指先で遊びながら家のドアを開けると、シリンがそこにいた。
私の乳母の次女のシリンは、私よりも3つほど年上で、公爵令嬢だった時に仕えてくれていた。
私が体を奪われた後クビになり、実家からも追い出されたらしく、露頭に迷っていたところを見つけて一緒に暮らしている。
シリンは非常によくできたメイドで、炊事洗濯なんでもできるのだが、悪癖が1つあった。
「お帰りが遅く、シリンはとても心配で心配で、もしかしてアルトさんとあの薄暗い古書店の中で、抱き合って口づけして服の裾から手を差し入れられ、ミリアム様はその手の熱さに身もだえ」
「うん。うん。ごめんねシリン。違うからね。ただ読むのに熱中しちゃっただけなの」
顔を赤くして妄想を語りだすシリンを止めるように口を挟む。
シリンの悪癖とは痴女顔負けの妄想癖だった。
シリンの母は男性恐怖症なのかというくらいに潔癖で、シリンも女学院へと進学し蝶よ花よと育てられてきた。
しかし、親の願いとは儚いもので、シリンにOBのお姉さま達が秘蔵の本を渡したことで砕け散ってしまった。
それはR18なんて生易しいくらいのえろ本だったそうだ。
抑圧された性に、卒業と共にはじけたお姉さまたちが集まり書き上げたそれは、愛欲の限りを尽くした禁書相当の内容だったという。
カッコウが子供を届けてくる。そうじゃなければ子供は畑から生えてくるのだ。妖精が連れてくるのかもしれないなど、性的なものに対しては夢の国だったシリンにとって、目から鱗の衝撃だったらしい。
男女が抱き合っているのを絵画でしか見たことのなかったところに、アブノーマルの煮凝りを初めに食べてしまったのだ。
未知の世界を知った感動を嬉々として幼い私に話すシリンは、私がアラサーの精神年齢でなければその時点でクビとなっていただろう。
アドレナリンが異常分泌されていたようで、暴走状態だったシリンは今でも脳裏に張り付いている。
幸いだが、アラサーだった私は下ネタもなんのその。
むしろ女が集まるとそういうあけすけな話もあるよねぇと懐かしく感じるくらいだった。
嘘だ。ハード過ぎてちょっと引いた。
とはいえ、仕事は完璧でずっと仕えてくれていたシリンだ。
私の前以外でその話をしないことを約束させた。
そうして出来上がったのは性に対してモンスターとなったシリンというメイドだった。
シリンの母が潔癖ゆえに、そういう本を買うわけにもいかず妄想で発散し続けたシリンは、いつしか悪役令嬢らしく妖艶を具現化した体だった『ミリアム・ノシュト』で妄想するようになった。
私以外の前でそういう話をするなといった以上、止めるわけにもいかず、確かに『ミリアム・ノシュト』の体は艶めかしいものだったため、大目にみていた。
しかし、入れ替わった後はそうもいかなかったのだろう。
“私”におぞましがられ、シリンの母は卒倒し、不敬罪で処刑台もあり得たが、長く仕えていてくれていたことにお父様が温情を与えてくださったそうだ。
「あら、そうでしたの……」
しょぼくれたシリンに苦笑いしかできなかった。
今の体は『ミリアム・ノシュト』のようなナイスバディではなく、お腹も胸も洗濯板なのだけど、シリンは「それはそれでいいのです!」と熱弁するのだ。
少し前にアルトさんがうちにご飯を食べに来てから、私とアルトさんの妄想に明け暮れている。
アルトさんは知り得ないことだが、毎回申し訳なく思ってしまう。
串焼きをつまみ食いしたとはいえ、お腹の空いている私はそのまま中に入った。
中から香るご飯の香りはそれだけで、食欲を刺激する。
シリンは悪癖さえなければなんでもできる優秀なメイドなのだ。
「今日も作業ですか?」
「うん。もうちょっとで一冊終わるから今日やりきっちゃいたいな」
シリンと向かい合って座り、作ってくれていたミネストローネを食べる。
クセの強いメイドだが、1人平民街で生きることを強いられた私にとって、共に過ごしてくれるシリンには感謝が尽きない。
私が目覚めた時の何もない部屋は引き払い、新しい部屋を借りたのは先日のこと。
小さなテーブルと少しのカトラリー、こじんまりとした部屋での質素な生活はシリンもはじめタジタジだったが、今はもう慣れたようだった。
貴族だった名残で2人とも綺麗なテーブルマナーをしているのが、どこか面白くもあった。