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「ねえ、青い目の猫を見なかった?」
エレノアは仕事の手を動かしたまま、小さな声で同僚に尋ねた。
「猫?」
「いつも休憩時間に裏庭に来ていた猫が、最近姿を見せないの」
エレノアは無事に王都へ戻ってくることができた後、馬車を下りてからどこかへ行ってしまった青い目の猫を思い出した。
あの日以来、エレノアの前に青い目の猫が訪れていない。
同じ時間に裏庭で待っていても、一向に現れる気配がないことをエレノアは心配した。
しかし、同僚は瞬きをした後、不思議そうに尋ね返した。
「エレノア、知らないの?」
「え?」
「お城では猫を飼ったらいけない決まりがあるのよ」
「猫を飼ってはいけない……? どうして……?」
「さあ……理由は分からないけど、十五年位前にそういう決まりができたらしいわ」
「でも、私は休憩時間に青い目の猫と……」
エレノアは同僚の言葉に混乱した。
働き始めてまだ長くないエレノアは、そんな決まりがあることを知らなかった。
しかし、城で猫を飼ってはいけないとなると、毎日のように裏庭に現れた青い目の猫は一体どこから来たのだろうと疑問が浮かぶ。
いつも示し合わせたように同じ時間に城の裏庭へ訪れていたのだから、街からやってきて忍び込んだとは考え辛い。
他の同僚に聞いてみたが、みんな一様に青い目の猫のことを知らないと言い、エレノアはますます混乱した。
エレノア以外に青い目の猫を見た人はいなかった。
あの日々は幻だったのだろうかと、エレノアは思った。
「エレノア!」
廊下の向こうから呼ばれた声に、エレノアはハッとして顔を上げた。
「あなたを攫った犯人たちが捕まったらしいわよ!」
「本当なのっ? 良かったわね、エレノア!」
「これで安心ね。顔中に傷があったらしくて、それですぐに分かったらしいわ」
同僚達の声を聞きながら、エレノアは犯人が捕まって良かったはずなのに、頭の中に言葉が入ってこなかった。
「どうしたの、エレノア?」
「あ……、いいえ。良かったわ……」
不思議そうに問われて、やっとの思いでそんな言葉だけが口を出た。
それよりも、エレノアの中では青い目の猫の存在が気になった。
「傷と言えば、噂で聞いたんだけど、第一王子殿下が顔に怪我をしたんですって」
しかし、同僚が続けて発したその言葉に、エレノアは目を見開いた。
「本当? ひどい怪我なの?」
「怪我はひどくはないみたいだけど、頬に傷が残っているんですって」
「そんな、もうすぐお見合いをされるのに傷だなんて……」
「それがね、お見合いの話はなくなったらしいわよ」
「そうなの? どうして?」
「詳しくは分からないけど、他のメイドがそう話していたわ」
同僚たちは話を続けていたが、エレノアの耳には第一王子殿下が顔に怪我をした、という言葉が残って離れなかった。
ふと、思い出す。
宿で眠っていた時、夢の中に王子が出てきた。
月明かりに照らされた美しい顔に傷があったことを。
エレノアはそれを見て、ツイーディアと同じ場所だと思った――。
「ツイーディア……」
いつもの裏庭で、エレノアは自分がつけたその名前を呟いた。
しかし鳴き声は返ってこない。
以前と同じように、静かな裏庭だ。
城で働き始めてしばらくしたころ、混んでいる食堂が苦手で休める場所を探していたエレノアは、偶然見つけたこの裏庭で休憩時間を過ごすようになった。
静かな裏庭の四阿に座って、橙の屋根瓦が並ぶ街並みを眺めるのが好きで、休憩の時はいつも一人でここに来ていた。
そこにいつからか訪れるようになった青い目の猫。
「幻……なんかではないわ……」
攫われた時に荷馬車に飛び込んできて、縄を噛みきってくれたから逃げ出すことができたことをエレノアは思い出した。
追ってきた男達の元へ戻り、土で汚れて頬に怪我までして戻ってきた姿を見て、息が止まるほど驚いた。
一緒に馬車に乗って無事王都まで帰ってきたのだ。
それなのに、なぜ突然姿を見せなくなったのだろう。
あの鳴き声も、柔らかな毛並みも、青い瞳も覚えている。
全て確かにあったことだ。
まるで、今にでもあの鳴き声が後ろから聞こえてくるようだ。
みゃあ、と。
静かな裏庭に響いた鳴き声に、エレノアは顔を上げると振り返った。
真っ白な毛並みに、青い目。
いつもと同じように、静かに座るその姿。
たった今思い浮かべていた姿がそこにはあった。
「ツイーディア!」
青い目の猫の姿を見て、エレノアは思わず声を上げた。
やっぱり幻などではなかったのだと、そう思いながら近づこうとして体が固まった。
座っている猫の頬には、うっすらと傷跡があった。
あの日、怪我をした跡だ。
その瞬間、同僚たちが話していたことが蘇る。
第一王子殿下の顔に傷ができたのだという言葉が離れなかった。
「ツイーディア……」
エレノアは自分の口がうまく動かなかった。
前みたいにお喋りをして、膝の上に抱いて柔らかな毛並みを撫でたいのに。
何だか色んなことが頭の中を占めて、考えがまとまらないと思った。
「久しぶり……ね。姿が見えなかったから、心配したのよ……。でも、何もなかったようで安心したわ……」
そんなエレノアを青い目はじっと見つめたまま、少し離れた場所から動かない。
その間を少し冷たい風が音を立てて吹き抜けた。
「噂を、聞いたの……。殿下の頬に、傷があるって……」
気づけば、エレノアの口からは無意識にそんな言葉が零れていた。
声を出すたびに口の中が渇いていくようでうまく紡げない。
それなのに、言葉は止まらなかった。
「あなたと同じ……」
そう言ったところで、猫の軽い足がゆっくりと動いて、はっとした。
自分は何を言っているのだろうか。
相手は猫だ。
人の言葉を分かるはずがない。
エレノアの頭の中にそんな思いが巡る。
王子の顔に傷があるという話も、きっとただの偶然だ。
夢で見た王子も、ただの夢だ。
エレノアは自分に言い聞かせるようにそう思った。
「ツイーディア……」
猫は静かに歩いてくると、椅子に座ったまま動けないでいるエレノアの側に跳び乗った。
真っ直ぐに見つめたまま青い瞳が近づく。
頬を猫の唇が撫でるようにかすめた。
一瞬で離れていくその姿を、エレノアは瞬き一つできずに追った。
まるで何かを伝えるかのように、青い瞳が真っ直ぐにエレノアを見つめている。
しかし身をひるがえすと、塀の向こうへとその姿を消した――。