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町にはいくつかの宿が営業をしており、エレノアはその中の一軒を訪ねると、中から威勢の良い女将が出てきて、開いている部屋があると教えてくれた。
「あの、猫も一緒に泊まりたいのですが……」
エレノアが躊躇しながら尋ねると、宿の女将は側に並ぶ猫を見た。
「そこら辺で粗相をしなければ構わないよ」
『そんな真似はしない』
思わずウィリアムはそう言うが、口から出たみゃあという鳴き声にエレノアも女将も微笑ましそうに笑うだけだった。
女将はエレノアたちの様子を見て普通じゃないことに気づいたらしく、ここに来るまでの経緯をとても親身に聞いてくれた。
「馬車に連れ込まれてここまで来たのかい? 最近そんな物騒な話がよくあるんだよ。けど無事で良かったよ」
「この子がいなければ危ないところでした」
「あんたが守ったんだね。ほら、夕飯を食べて元気を出しな」
「ありがとうございます」
気前のいい女将は夕食を用意してくれて、猫の分の食事も出してくれたのだが、ウィリアムは今まで猫の姿の時に食事をしたことはなかった。
王子として城の食事しか経験はなかったが、厚意を無下には出来ない。
出されたものが魚だったのはまだ良かっただろう。
川が近いので魚が豊富に採れると女将が話していた。
魚がなければ何が出ていたのだろうと思って、ウィリアムはそれ以上考えることは止めた。
食事を終えて部屋へ行く前に、ウィリアムはエレノアに見つからないように宿から出て、もう一度水を被り直した。
濡れた猫の身を震わせて水気を飛ばしてからエレノアの元へと戻る。
「ツイーディア、どこに行っていたの? あら、また濡れたの?」
エレノアは戻ってきた猫が再び濡れているのを見て驚いた。
「あなたよく濡れているわね。猫だけど水が好きなのかしら?」
『いや、嫌いだったはずだけどね……』
ウィリアムは苦笑するしかなかった。
なるべく水に濡れないよう生きてきたはずなのに、こんなにも長い間を猫の姿でいることは人生で初めてだ。
エレノアの前で人の姿に戻るわけにはいかないので仕方がない。
「ちゃんと拭かなきゃ。部屋を濡らしてはいけないわ」
エレノアは猫の身をつかまえると、濡れた毛並みを丁寧に拭いた。
されるがままになっていたウィリアムは、拭き終えたエレノアの腕に抱き上げられて、宿の簡素な寝台へと向かう頃になって事態に気づいた。
エレノアは猫の身を腕に抱いたまま寝台に横たわる。
ウィリアムは慌てて腕の中で身じろいだ。
「ツイーディア、大人しくしているのよ」
『いや、しかし……』
エレノアの手は猫の身を抱きしめて離さない。
しかし、ウィリアムは大人しくなんてしていられるはずがなかった。
たとえ今は猫の姿とは言え、本当は成人している男なのだ。
女性と同じ寝台で眠ることは色々と問題がある。
この腕の中から出なければと慌てた時、エレノアの口から小さなため息が零れた。
「明日には帰れるかしら……」
不安げな声音に、尖った耳がぴくりと動く。
エレノアの声は心配そうに震えていた。
見知らぬ男達に攫われて、家に戻れず宿で夜を明かすことになり、きっと心の中では不安でいっぱいなのだろう。
『エレノア嬢……』
「あなたの飼い主もきっと心配しているわ……。早くお城に戻らないと……」
呟きは次第に寝息へと変わっていった。
腕は猫の身を抱きしめたまま離さない。
静かな寝息に、ウィリアムは普段より鋭い耳を澄ませたまま、じっとしていた。
どれくらいそうしていただろう。
寝台が増えた重みで微かに軋む。
起こさないように気を使いながら、ウィリアムは静かに視線を上げた。
その瞳も、シーツからはみ出る手足も、猫ではなく人の形だ。
「……まいったな」
誰の耳にも届かないほど小さな声が零れる。
いつもは涼やかな青い目元は、困惑するように細められている。
ウィリアムはすぐ側の寝顔を見上げた。
昼間の恐怖と不安で体は疲弊していたのだろうか、深く眠っている。
あどけない寝顔があまりに無防備で、ウィリアムはさほど広くない寝台の中で身動き一つできなかった。
好きな女性が同じ寝台で眠っているのだ。
これは一体なんの拷問だろうかと、そんな風にさえ思った。
手を伸ばせば触れられるほど近すぎて、逆に直視すらできない。
朝までどう過ごせば良いのかと悩みながらも、聞こえる寝息につられて、瞼がゆっくりと下りていった。
夜中にエレノアはふと目を覚ました。
「ん……」
いつもと違う寝具の手触りを感じながら、ここがどこだったかを思い出す。
宿に泊まることは初めてだったが、意外と静かでつい眠ってしまっていたようだ。
辺りは静まり返っており、まだ夜中だということが分かった。
体は疲れていてもう少し眠りたいと思いながら、すぐ側に温もりを感じた。
重たい瞼を上げて見れば、それは知っている人物だった。
知っていると言っても、家族や友人ではない。
「どうして、殿下がここに……?」
城の中で遠目でしか見たことがない、雲の上の存在のような方だ。
同僚が教えてくれて、一度だけ遠くから見た横顔。
美しい青い色の瞳は伏せられているけれど、色素の薄い白金の髪と、優しそうな印象の顔立ちは、あの日見た第一王子殿下の記憶を思い起こさせた。
あの日、馬車に乗ろうとしていた時、馬車を引く馬がなかなか指示を聞かず出発ができなかったらしく、慌てる御者に穏やかに笑いかけ、馬のたてがみを撫でながらまるで話をしているような素振りが印象に残った。
あまり公の場に出ないけれど、優しく親切で優秀だと評判の王子は平民にも人気があり、エレノアも将来このお方が王位を継がれたらきっと良い王様になられるのだろうと思った。
そんな人物がすぐ側で眠っている。
「夢ね……」
エレノアはすぐにそう思った。
王子がこんなところにいるはずがない。
ならばこれは夢の中だ。
「あら……。殿下も、頬にキズが……」
窓から差し込む月明かりに照らされて、王子の頬にキズが付いているのが見えた。
ツイーディアと同じ場所だと、エレノアは思った。
けれど眠気の残る頭ではうまく考えられない。
押し寄せてきた眠気に再び目を閉じた。