5
エレノアは突然見知らぬ男達に囲まれて、抵抗する間もなく馬車へと連れ込まれた。
その間に男達が話していた会話で、母が言っていた人攫いが出るという話が記憶に蘇る。
このまま売り飛ばされてしまうのだろうかと、そんな恐怖を感じていた時、走り出した馬車の中に飛び込んできた猫を見て驚いた。
先ほど別れたその姿が、揺れる馬車の中を駆けてくるのを見つめる。
「……っ」
口を布で塞がれていて一声も上げられないエレノアの側に駆け寄ると、ウィリアムは彼女の腕を縛っている縄に猫の牙を立てて必死に噛み切ろうとした。
しかし太い縄は簡単には切れない。
それでも牙や爪で懸命に縄を切り続ける。
『あと少しだ……!』
ウィリアムはエレノアの手を傷つけないように気をつけながら、必死に猫の牙や爪を使って縄を少しずつ切っていった。
その間も馬車は走り続け、伝わる振動に焦りが生まれる。
時おりエレノアの様子を見上げると、青ざめた顔が視界に映り、早く助けなければという思いが増して縄に噛り付いた。
どれくらい時間がかかっただろうか。
ようやくエレノアの手を縛っていた縄を噛みきることができた。
馬車の床板に縄が落ち、自由を取り戻したエレノアは口に回されていた布を外すと、青ざめた様子で振り返った。
「ツイーディア! あなた、どうしてここに……っ?」
『君が攫われるところを見たんだ。大丈夫かい?』
エレノアの手が猫の身を持ち上げて抱きしめる。
いつもなら膝に乗せられるだけでも気まずさを感じるウィリアムだったが、抱きしめる手が震えていることに気づいて、エレノアが落ち着くまでその腕の中で大人しくしていた。
がたがたと馬車の揺れる音が響く。
エレノアは不安そうに暗い荷台の中に視線を巡らせた。
「このまま売られてしまうのかしら……」
『そんなことはさせない。必ず君を助けるよ』
不安を呟くエレノアに、白い尻尾が手を撫でるようにすり寄る。
その毛並みを撫でて、エレノアは少しだけ落ち着きを取り戻した。
「一体どこへ向かっているのかしら……」
『外の様子を見てみよう』
「あ! ツイーディア、危ないわ……っ」
『大丈夫だよ。少し見るだけだ』
ウィリアムは幌の隙間から外を覗いた。
エレノアも心配なのかその後ろからついてきて、外の様子を見る。
いつの間にか馬車は街中を離れ、人気のない林道を走っていた。
馬車の速度は速く、今飛び降りるのは危なかった。
『馬車から出られる機会を見つけなければ……』
「ツイーディア、あまり身を乗り出すと外に落ちてしまうわ」
幌から顔を出して伺う猫の身を、エレノアが引き戻そうとする。
その時、道幅が狭くなったためか馬車の速度が少し落ちた。
『エレノア嬢、今しかない』
ウィリアムはエレノアの方を振り返ると、猫の口で裾を引っ張った。おあは
言わんとすることに気づいたのか、エレノアも幌をめくって外を覗く。
先ほどより速度は落ちているとはいえ、馬車は止まっているわけではなく、荷台から地面までは決して低くはない。
その事実にエレノアの顔が再び青くなる。
「……っ!」
『私がついている。大丈夫だ』
身をすくませるエレノアにウィリアムが声をかける。
エレノアはみゃあという鳴き声を聞いて、走る馬車の上から見る光景に震えながらも、意を決してぎりぎりまで身を乗り出した。
目をつむって荷台から飛び降りる。
エレノアは林道わきの芝生の上を転がりながらも、体が止まると猫の姿を心配して探した。
「ツイーディア!」
『エレノア嬢、大丈夫かいっ?』
「良かったわ、ツイーディア……」
『怪我はないね? 早くここから離れよう』
駆け寄ってきた無事な姿を見て、エレノアは安堵した。
足はまだ震えていたが、何とか立ち上がってそこから逃げる。
しかし、異変に気づいたのか男達が馬車を停め、振り返って声を上げた。
「女が逃げたぞ!!」
「追いかけろ!!」
背後で怒鳴り声が響き、エレノアは怖くなり足がすくんだ。
『立ち止まってはいけない! 向こうに隠れているんだ!』
ウィリアムは怯えるエレノアの裾を引っ張って、林道の脇の影に押し込んだ。
木の影に隠れた瞬間、エレノアは恐怖のあまり力なく崩れ落ちる。
ウィリアムはエレノアの様子を心配そうに見つめながらも、男達の声が響く方向を振り返った。
『ここから動かないように』
「ツイーディア……!?」
猫の身が林道へと戻っていく。
エレノアが名を叫んだが、白い後ろ姿は立ち止まることなく小さくなっていった。
その姿が見えなくなると、少し離れたところで男達の怒声と悲鳴、そして猫の鳴き声が響き渡った。
今までに聞いたことのないようなその鳴き声に、エレノアはどんどん青ざめる。
しばらくすると男達の声も猫の鳴き声も止み、林道の向こうから戻ってくるのが見えた。
その姿にエレノアは悲鳴を上げる。
「ツイーディア……!」
『もう大丈夫だよ。奴らの顔中を引っかいたから、逃げて行った』
ウィリアムは安心させるように笑ったが、エレノアの顔色はますます青ざめた。
「あなた、血が……!」
『木の枝にかすめただけだ。大したことはない』
白く美しかった猫の毛並みは土で汚れ、頬には赤い血が滲んでいた。
「どうしましょう……」
『これくらい気にすることないよ』
「私のせいでこんな怪我を……」
『君が無事なら良いんだ。さあ、早く城へ戻ろう』
声を震わせて心配するエレノアに、ウィリアムはエレノアが怪我をすることなく無事で良かったと、心から思った。
そのためならば、頬の傷など大した痛みではない。
猫の前足で拭うと、頬の血がついて白い毛並みが赤く染まった。
「いけないわ、ツイーディア。きちんと水で洗わないと……」
『水……』
傷が土で汚れてしまうことを心配して止めるエレノアの言葉に、ウィリアムは大事なことを思い出した。
水に濡れてから三時間くらいで元に戻るので、そろそろ猫の姿から戻るころだ。
エレノアの前で人の姿に変わるわけにはいかない。
『……すまないが、もう少し待っていてくれるかい?』
「ツイーディア?」
『すぐに戻るよ』
いつもの声でみゃあと鳴いて、再び林道の奥へと消えた。
少しして戻ってきた姿を見てエレノアは目を丸くさせる。
「ツイーディア……あなた、どうしてずぶ濡れなの?」
『近くに水場があって良かった』
白い毛並みはずぶ濡れで、水が滴り落ちている。
これでまたしばらくは猫の姿が続くと、ウィリアムは少し複雑に思う。
エレノアは濡れた猫の身を抱き上げながら、頬の怪我の血が止まっていることを見て安堵した。
「良かったわ、血は止まっているみたい」
『ああ。さあ、急いで戻ろうか』
「ツイーディア、濡れているから拭きましょう」
『大丈夫だよ。それより早くここから離れよう』
ウィリアムは丸い足を踏み出した。
先ほどの男達が戻ってこないか心配もあるし、林道は獣が潜んでいる恐れもあるので、暗くなる前に離れた方が良いだろう。
並んで林道を歩き続けると、しばらくして視界が開けて小さな町並みが現れた。
「ツイーディア! 良かったわ、町よ」
『下りてみよう』
エレノアが安堵して猫の方を見ると、白い毛並みが振り返ってみゃあと返した。
住民に町の名前を聞けば、王都からはそれほど離れていないことが判明して、エレノアもウィリアムも安堵する。
けれど空は陽が傾いてきており、暗くなってからこれ以上移動することは難しそうだ。
この日は王都に戻ることは諦めて、町で宿を探すことにした。