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穏やかな昼下がり。
城の中でも一番奥まったところにある部屋の扉を、第二王子であるアーサーは静かにノックした。
「兄上。今よろしいでしょうか――兄上?」
もう一度扉をノックするが、中からは物音一つ感じられなかった。
アーサーが怪訝そうに扉を見つめていると、別の部屋から年配の側近が出てきた。
「ウィリアム殿下は、ご休憩をされるということで不在でございます」
「不在?」
「はい。最近は昼間に休憩をお取りになって、どこかへお出かけになられているようです」
アーサーは珍しいと感じた。
彼から見た兄は、大きな秘密を抱えていることもあり、あまり部屋から出ない性格だった。
その分、休憩の時でも書庫から自室に本を持ち込んで読むことが多く、あまり表に出られないかわりに、豊富な知識が農業や研究分野へ役立ちここ数年で大きく発展する結果を生んでいる。
アーサーは物知りな兄にねだって、昔はよく本を読んで貰ったりしていた。
そんな兄が不在とは、いったいどこへ行ったのだろうと、アーサーは当てもなく周囲を見回した。
そんなやり取りから少し離れた城の一角で、猫が軽やかに屋根の上を駆けていた。
空は青く澄み渡り、暖かい日差しが降り注ぐ。
白い尻尾がよく揺れていた。
屋根を跳び移り城壁を越えて目的の場所へと着くと、丸い足は勢いよく地面へと着地する。
それほど広くない裏庭は静かで、小さな池と、休むための小ぢんまりとした四阿が建っている。
屋根がついた四阿の中に、いつもと同じ位置に座るお仕着せ姿を見つけて、青い目が大きく開かれた。
その瞬間、これほどにも気持ちが弾んだことがあるだろうかと思えるほど、ウィリアムは胸の奥が温かくなった。
「あら、青い目の猫さん」
軽い猫の足音に気づいたメイドが振り返る。
笑顔を向けられて、みゃあという鳴き声が出た。
「いつもこの時間に散歩なのかしら? 私は休憩時間なのよ」
『私も休憩なんだ』
「お城の庭は綺麗だから、いつもここで休んでいるの」
『本当だね。奥の庭しか知らなかったけれど、ここも綺麗だ』
人の声と猫の声が交互に交わされる。
猫の声では言葉までは伝わらないけれど、会話をしているようでウィリアムは嬉しかった。
城のお仕着せを着たメイドは手を伸ばすと、猫の白い毛並みを撫でた。
「人懐っこいのね」
大人しく撫でられている様子に、メイドは目を細めて笑った。
撫でる手に頬を擦り寄らせる。
池に落ちたところを助けて貰った日以来、ウィリアムはこうして毎日のようにこの庭へと足を運んでいる。
理由はもちろん、彼女に会うためだ。
女性と深く関わらず、一生誰も好きになることがないと思っていたウィリアムの心に、一瞬で焼き付いた存在。
きっとただの猫としか思われていないだろうが、それでも彼女に会いたかった。
「名前がないと呼びづらいわね……」
メイドは毛並みを撫でながら、困った風に呟いた。
「でも、勝手に名前をつけたら、あなたの飼い主に怒られてしまうかしら?」
『そんなことはない!』
ウィリアムは思わず叫んだが、口を出たのはみゃあ、という猫の鳴き声だけだった。
しかし奇跡が起きた。
「つけても良いのかしら?」
メイドの言葉に、ウィリアムは思わず何度も頷く。
きっとメイドの目からは、猫が首を振っていただけにしか見えないのだろうが。
「どんな名前が良いかしら……」
『君がつけてくれる名前なら何でも嬉しいよ』
考え込むメイドの姿を、ウィリアムは彼女の足元で身を丸めて見つめた。
いくつもの名前の候補が唇から紡がれていくのを、声を聞いているだけで楽しいと思う。
しばらくそうしていると、メイドが一つの名を口にした。
「そうね……ツイーディアはどうかしら?」
『ツイーディアかい?』
「前にあなたがくれた青い花の名前よ」
そう言われて、ウィリアムはこのまえ贈った花のことを思い出した。
涼やかな青色の花は星のような形をして愛らしく、彼女に似合うと思って選んだ。
「あなたも同じ青い瞳だわ」
『私の瞳?』
メイドが顔を寄せて青い瞳を覗き込んだ。
あの日贈った花と同じ、空を映したような青い瞳。
「気に入ってくれたかしら?」
『とても気に入ったよ。ありがとう』
みゃあと鳴いた声が肯定だと伝わったのか、メイドの表情が微笑んだ。
「気に入って貰えたみたいね。私はエレノアよ。よろしくね、ツイーディア」
『よろしく、エレノア嬢』
目の前のメイドの名前を知ることもできて、ウィリアムは嬉しい気分になった。
エレノアの手が猫の背を撫でる。
これまで周囲と深く関わらず、秘密を抱えてきたウィリアムにとっては、こんな風に誰かと過ごし他愛のない話をすることは初めてだった。
正確には会話をしているわけではない。
一人と一匹。
エレノアに猫の言葉は通じない。
ウィリアムの問いかけにエレノアが返事をすることはもちろんなかった。
けれど、ウィリアムはエレノアの話を聞けるだけで満足だった。
みゃあと鳴き声を返せば笑いかけてくれる。
側にいるその時間が、ウィリアムには幸せと思えた。