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出会いは少し前に遡る――。
***
その日の昼過ぎ、ウィリアムは両親である国王夫妻から呼び出された。
「――ウィリアム。おまえも成人だ、そろそろ婚約者を決めねばならん」
父王の言葉に、ウィリアムはカップを運ぶ手を止めた。
紅茶を飲もうとした口からは、無意識に重いため息が零れる。
「父上、母上。水に濡れると猫になるような、こんな体質の私の妻となってくれる女性などおりません」
その言葉に、国王夫妻の表情が悲しそうに陰る。
両親のそんな様子を見てウィリアムは胸が痛むが、紛れもない事実なのだ。
「しかしだな、おまえはこの国の第一王子なのだ。将来は王位を継いで、国を支えていかなければならない」
「そうですよ、ウィリアム。きっとあなたのことを分かってくれる女性がいます」
国王夫妻は切実に言葉を繋ぐ。
それは親として、我が子のことを大切に思っての愛情だろう。
しかし、愛情だと分かっていても、ウィリアムにはそれが重たく圧し掛かるように感じられた。
「猫になる夫を持つ女性が気の毒です」
ウィリアムがそう言った瞬間、国王夫妻は言葉に詰まった。
部屋に落ちる沈黙が、目を背けたくても事実だと肯定しているようだった。
自分で言っておきながら、ウィリアムはその言葉が突き刺さった。
水に濡れたら猫になるような夫を、受け入れてくれる女性がどこにいるだろうか。
そんな夫を持つ女性が可哀そうだ。
何よりも、それを一番苦痛に感じているのは自分自身なのだ。
ウィリアムは、濡れるたびに猫に変わる自分が嫌だった。
どんなに水を避けても、毎日入浴するたびに猫になる自身の姿を見て、溜息を零すばかりだ。
きっと妻となる女性も同じようにため息を零す日々を送るのだろう。
そう思えば、結婚など考えられなかった。
「話は以上でしょうか。……失礼致します」
両親の悲しそうな表情を見ていられなくて、ウィリアムは話を切り上げるとその場を後にした。
廊下に出て自室へ向かって歩いていると、向こうから弟である第二王子のアーサーがやってくるのが見えた。
「兄上、話は終わったのですか?」
「ああ。アーサー、すまないが父上と母上の側についていてくれないか?」
「かまいませんが……」
「お二人を傷つけてしまった。おまえがいてくれると、心も休まるだろう」
そう言う兄を、弟であるアーサーは辛そうに見つめた。
アーサーからは、兄もまた傷ついた顔をしていると、そう感じられた。
「兄上……」
「すまない。頼む」
ウィリアムは弟の肩に軽く手を乗せて側を通り過ぎた。
そのまま自室に戻る気にもなれず、途中で庭園へと足を向けた。
華やかな城は、時おりひどく居心地が悪く感じる。
猫に変わる体質の自分はここにいることが相応しくないようだと、そんな風に思えた。
「はぁ……」
美しい庭園を眺めても、口からはため息が零れ落ちた。
第一王子が猫になるなど決して知られてはならない。
まだ幼かった頃は、自分が猫に変わることを特に気にしなかった。
けれど次第に、他の人達は濡れても猫に変わらないという違いに気づく。
両親は決して我が子を厭うことはなく、治る方法を必死に調べてくれた。
しかしその手立ては見つからず、知られないよう厳重に隠される秘密に、自分の異常さを知った。
万が一にも知られることを恐れ、周囲と必要以上に深く関わらないようになっていった。
女性にも自分を偽っているという罪悪感からか、心を開くことができなかった。
きっとこんな自分は一生誰かを好きになることなどないだろうと、ウィリアムはそんな風に思った。
その時、気が重くなり俯いた視線の先が急に薄暗くなった。
地面に一粒の滴が落ちる。
顔を上げたときにはすでに遅く、突然暗い雲で覆われた空からは、いくつもの雨粒が降り注いだ。
瞬く間に全身濡れてしまう。
水の滴る髪の毛が、静かに獣の毛に変わっていった。
手足も毛に覆われ、小さな姿へと変化する。
衣服が地面へと落ち、そこにいた人影は姿を消した。
『ついていない……』
地面に不自然に折り重なった服の山が動くと、その中から青い目の猫が現れる。
通り雨だったのか、雲間からは再び太陽が覗いており、ウィリアムは自分の間の悪さを嘆いたが、その声はみゃあという鳴き声にしかならなかった。
自分の体質を分かっているウィリアムは、なるべく水に濡れないよう日頃から注意を払っていた。
手を濡らした程度では変わらないのだが、全身が濡れると猫になってしまう。
どれだけ気をつけていても、天候まではどうしようもなかった。
『取り敢えず部屋に戻らねば……』
一度猫に変化した後は、三時間ほどはこのままの姿が続く。
午後の職務は中断だと、ウィリアムは溜息を吐きながら思った。
その分は夜に回すしかなく、秘密を知る限られた側近に伝えるため、急いで自室へ戻ることにした。
王子の服が地面に落ちていては不審がられてしまうので、長い髭の伸びる口元で服をくわえると、近くの花垣の中へと引きずって隠した。
こそこそとした真似をせざる得ないことに、つくづくこの身が忌まわしいと感じる。
花垣の中に服を隠すと、丸い足で地面を踏み、城を囲む城壁へと跳び移った。
城の中を通るより、建物の上を移動した方が早く戻れる。
猫の足は器用に城壁を渡り歩いた。
城壁の上からは城の中だけでなく、城門や街に続く道なども見渡せた。
城に出入りする商人や、城で働く者達の声も届く。
幼い頃は、その様子を見たり聞いたりすることが好きで、よく猫の姿で駆けまわって人々の姿を見ていた。
そんなことを思い出しながら城壁を歩いていた時。
『っ……!』
早く戻ろうと急いでいたせいか、先ほどの通り雨で濡れていた城壁に足が滑った。
屋根を跳び移ることはできても、一日の大半は人間の姿で生活している身は、本物の猫のように上手く体勢を立て直すことまではできない。
『しまった……っ』
猫の身は城壁の外へと投げ出されてしまう。
落ちていく先に池が見えて、水しぶきの音と共に水の感触を全身に感じた。
水に濡れると猫に変わるウィリアムには泳ぎの経験などなく、落ちた池の中で必死に手足を動かすも、空しく水をかき回すだけだった。
このまま猫として死ぬのだろうか。
そんなことが頭をかすめたその時だった。
「――大丈夫!?」
高い女性の声と共に、水の中から引き上げられた。
空気が一気に体の中に入り込む。
助かったのだろうかと、そう思いながらウィリアムは目を開いた。
その瞬間、雲間から覗く太陽にきらめく水しぶきと、心配そうな女性の姿が視界に映った。
「大変……っ、水を飲んだのかしら……」
女性の頬からも水が滴り、着ている城のお仕着せは濡れてしまっている。
けれど自身の格好も気にせず、猫を心配そうに見つめていた。
ウィリアムはその女性から目を離せなかった。
それが、恋に落ちた瞬間だった――。