10
数日降り続いていた雨がようやく上がり、久しぶりに青空が広がった。
エレノアはいつもの裏庭で、良く晴れた空を見上げながら同じ色の瞳を思い浮かべた。
「ツイーディア……」
雨の日が続いたため、ここへ来るのも久しぶりだ。
けれど、足は自然とこの裏庭へと向かった。
いつもの四阿に座って静かな庭を見つめる。
こんな風に、休憩時間に一人でいると、どこからともなくあの猫はやってきた。
思えば、不思議な猫だった。
話しかければまるで人の言葉を分かっているかのように鳴き声を返していた。
「確か、初めて会ったときは池で溺れていたのよね……」
まるで雨雲から降ってきたかのように、突然池に落ちてきた猫の姿に驚いた日のことを思い出す。
その翌日、猫は再び現れた。
そしてまた別の日、口に青い花をくわえてやってきたのだ。
まるで恩返しに来ているようだったと、エレノアはそのときのことを思い出して笑みを零す。
「貰った花の名前を付けたんだったわ……」
顔を上げて空を見上げる。
よく晴れ渡った青空のように、澄んだ青色の花だった。
同じ色の青い目が綺麗で、その名前をつけたのだ。
そう呼ぶと、まるで喜んでくれるかのように鳴き声を上げていた。
あれ以来、エレノアの休憩時間にいつもやってきた猫。
まっすぐにやってきた。
後ろから、軽い足音が聞こえて。
まるで自分に会いに来てくれているようだと、そう思ってしまうほどに。
そして、呼びかけるかのように鳴き声を上げて。
「――エレノア嬢」
風に乗って聞こえた声に、エレノアははっとして振り返った。
軽やかな足音ではない。
みゃあ、という鳴き声でもない。
そこに立っていたのは、遠くから見かけたことはあっても、直接言葉を交わす機会なんてない人物だった。
腕いっぱいに青い花を抱えたその姿から、エレノアは目を離せなかった。
「あの姿では一輪しか運べなかったけれど、どうか受け取ってくれないだろうか……?」
目の前にたくさんの青い花が差し出される。
花とその姿を見て、エレノアは目の前の人物がとても地位が高いことを思い出し、慌てて礼の形を取ろうとした。
「殿下……!」
「構わない。どうかそのまま聞いてほしい」
頭を下げようとするエレノアを、ウィリアムは首を横に振って止めた。
猫の姿ではない。
人の姿だ。
エレノアは信じられないという様子で見上げる。
「エレノア嬢。改めて、挨拶をさせてほしい。私の名はウィリアム。名乗るのが遅くなってすまない」
王子が自分の名前など知っているはずがないと、エレノアは思った。
エレノアが自分の名前を名乗ったのは、青い目をした猫に対してだ。
「そんな……まさか……」
「信じられないのも無理がないと思う。今までずっと君を騙してきて、本当に申し訳なかった」
遠くからしか見たことのない人物が目の前にいることに、エレノア落ち着いていられないほど驚いた。
けれど、青い目はどこか既視感を抱かせた。
見つめて良い相手ではないと分かっているのに、目を反らすことができない。
「あり得ない話だと思うかもしれないが、どうか聞いて欲しい」
ウィリアムもまた、青い目でまっすぐにエレノアを見つめた。
「私は水に濡れると猫の姿になる。あの日、急な雨に濡れて猫の姿になってしまい、池に落ちて溺れそうになったところを君に助けて貰った」
「……っ!」
エレノアは先ほど思い出していた、猫と初めて会った日と同じ話に驚く。
池に落ちた猫を助けたことを、エレノアは誰にも言っていない。
あの時、周囲には他に人影はなく、エレノアとあの時の猫しか知らないことだ。
「猫になる体質のことは、限られた者しか知らない」
ウィリアムのその言葉にエレノアは目を見開いて慌てた。
限られた者しか知り得ないことを、自分が聞いて良いのだろうかと恐れ多くなる。
「そんな重大なことを私なんかに……」
「いや、君には本当のことを伝えたい」
ウィリアムの青い目は、エレノアを離さず真っ直ぐに見つめる。
「それまで濡れて猫に変わるのは苦痛でしかなかったのに、それ以来、私は君に会いたい一心で自ら水を被って猫の姿になった。猫の姿で君に会いに行けるだけで嬉しかった」
あれほど嫌いだった水が、むしろ猫になるために水を待ち望むなど、それまででは考えきれないことだった。
それほど、エレノアに会いに行く時間が楽しみだった。
「けれど、君が攫われたとき、猫の姿では守ることができなかった。自分がなんて情けないのだと後悔した……だが、一番情けなかったことは、猫になることを知られて、君に怯えられてしまうのではないかと恐れていた自分自身だ……」
アーサーに言われた通り、ウィリアムは秘密を知られることよりも、そのせいでエレノアに怯えられることの方が怖くて、現実から逃げていた。
「こんな話は信じて貰えないだろうと決めつけ、本当のことも言わず君から逃げてしまった臆病な自分が恥ずかしくて仕方がない……」
「殿下……」
体質を気にするあまり大事なことから逃げ続けようとしていた。
そうして、大切な存在を自分のせいで失うところだったのだ。
きっとこの先これほどにも想うことはないと、ウィリアムは強く思う。
「ずっとこの体質ゆえに、誰も好きになることはできないと思っていた。けれど、君に助けて貰ったあの日、私は君に心を奪われた。猫の姿のときだけでなく、これからも君に会いたい」
青い花束がエレノアに差し出される。
あの日、一輪くわえて持って来てくれたものと同じ青い花。
腕いっぱいの青い花束を見つめるエレノアの瞳が涙で揺れた。
「助けてくださいました……。あのとき馬車を追いかけてきてくれて、怪我までして……殿下は守ってくださいました……」
「エレノア嬢……」
「今のお姿も、猫のお姿のときも、どちらも殿下です……。私も、会いたいと思っていました……」
ウィリアムの脳裏に弟の言った、どんな姿でも変わらないという言葉が蘇える。
同じ言葉にウィリアムは胸の奥が温かくなった。
エレノアの手を取り、静かに唇を寄せる。
「これから先も君を守ると誓う。どうか、受け取って欲しい」
青い花が風に揺れる。
その色と同じ、青い目がまっすぐに見つめていた。
いつも会いに来ていた猫と同じ目が、微笑んだエレノアの姿を映していた――。
あと一話続きます。




