九州王朝説
以前私はコレに否定的だったが、今はちと違う肯定じゃないが否定じゃない曖昧になってる。結論から言えば良く分からないになる。だが以前は否定的だったが、今はそれが緩和した。その変化は紀記が胡散臭くなってきたから。正直どうも信じられない。それに絡んだ多くの倭の五王や雄略の剣の記述に対する実在性、そして、遣隋使辺りのややこしさ。
ほぼ確実だと言うのは遣唐使で良いと思う。遣隋使はあったのは分かるが、問題はそれがすべてヤマトの外交だったのか?がかなり疑わしい。下手したら中国側で残した記録はすべて九州王朝で、日本側は自分勝手に記録した捏造の可能性がある。
私はいくつか嘘はあると思っていたが、これはさすがに無いと思っていた。だがどうも胡散臭くなってきた。じゃ九州王朝説なのか?と言うとそれも違う。大事なのは何時ヤマトは倭と強い関係になったか?とどこまでの権力の譲渡があったのか?になる。その微妙な関係をあの資料で断定するのは不可能と判断した。
単純な九州王朝説ではない。ヤマトは過去中央集権的じゃなかった。緩やかな豪族連合的な国家体制を取っていたので、地方豪族だった時と区別がつかない所がある。ほぼ確実に後の天皇制に近くなるのは天武天皇の時期になる。この前から徐々にその色が強まっていく歴史が紀記に書いてある。だがその資料が胡散くさいとなると、徐々になって言ったのは疑わなくて良いが、具体的にどうやって?は無茶苦茶胡散くさい。
倭国とどう関係したのか?で完全に支配下に置いたのは白江村敗戦以降となる。いわいの乱ですら胡散臭い。けいこう天皇の九州遠征がスタートになる。これはけいこう天皇の実在性はどうでも良い。この辺りに九州との関係が始まったとなる。四道将軍後に九州との関係が始まるので、この流れは正しいと思うが、その時の関係がかなり問題になる。
権力がどこにあるか?はかなりややこしい。王朝があったか?なかったか?はかなりどうでも良い。大事なのは、実質であって、名目的に支配下に置いたとヤマトにメリットのある支配をしたは違う。この理由として、倭に任せたほうが良い場合もあるから。他の地域は単純に侵略していて、この手順はパターン化してる。
名目的な支配が始まって、その後権力を完全に直接支配にするための軍事行動となる。まずは名目的な支配権のための軍事行動で、次にヤマトのメリットを損なうような支配をしたらさらに軍事行動を起こして従っていたものでも前の支配者を殺してしまう。最初に反抗的ならすぐ殺してしまう。これが別のケースになる。
倭だけは多分違う。東北を除いて一番最後に手をつけていて、これは意味のある事だと見ている。倭国は残すメリットと潰すデメリットからなんとも難しい関係にあったと最初から見ている。例えば外交をすべて丸投げしてしまっても、その方が得な場合がある。白江村以降確実なのだが、ヤマトは防人制度を作っている。
明らかにあれはヤマトの負担になっている。それを倭が勝手にやってくれたならそれはメリットになる。その軍事力を潰すとなるとかなりのデメリットになる。その辺りのトレードオフでほかの地域と倭国は全く違う。それは2つの理由がある。倭国自身の軍事力がほかの地域と比べ物にならない事。そもそも天皇家やニギハヤヒがおそらくここの出身だからと言うのがある。次に、朝鮮中国との関係の問題になる。ややこしいに尽きる。
それゆえ元々複雑な支配だったと見ている。そこでキーは外交になる。外交をヤマトがやるのがかなり不都合になる。時間的にすべてが後手に回ってしまう距離関係のせい。ヤマトが外交をするメリットは、ヤマトにとって不都合な外交を倭がする可能性になる。いわいの乱がこの典型になる。それさえ怪しいのだが。
いわいの乱のキーは、やまとが半島に膨大な軍事力を費やした点にある。これを倭がやってくれていたならかなり違う様相になるから。その場合いわいの乱とはなんなのか?さっぱり分からなくなってしまう。パターンとしては、他の九州勢力はヤマトに親和的で内戦的になったか?がある。
ただこの後白江村でまた倭とヤマトは絡んでる可能性がある。ひょっとしたら倭単独で行ったとするとわかりやすい。だがまた分かり難くなる。新羅と連合を画策したいわいの反乱であるため、単独王朝があったなら新羅と敵対するのがおかしい。いわいの乱で親百済よりに九州はなったのなら、もうそれは倭国としての独立性は失っている。
そうなってくるとわけが分からなくなる。結論分からないとなる理由が分かると思う。白江村まですべてが不明だと、あれもこれもすべて狂ってくる。倭の五王と天皇の関係がこじつけくさいのは前から思ってて、それでも納得していたのは、ぎりぎり成立してると見てたから。でもそれがちょっとしたほころびで壊れてしまう。
ぎりぎりの成り立ちだと見ていたから。そもそも九州とヤマトの関係はかなり複雑である可能性があるとも考えていたから。外交は紀記どおりならヤマト一本化で見れば良いと見ていた。その紀記が胡散臭くなってきた。だがその根拠が逆にこれまでぎりぎり成立していた剣などの物証にある。
後それらを支えていたのは紀記の記述と言う循環論法な部分がある。元々私は九州王朝説に近い部分がある。畿内やまたいこくがあほらしいと見てるから。畿内やまたいこくが支持される根拠は鏡が一番重要で、次が、ヤマトに邪馬台国の時代にかなり大きな都市があった事になる。
だがこれ、ニギハヤヒ、天皇家の流れで見たら。それらが別として居たんじゃないの?で終ってしまって、ここにやまたいこくを挟む理由が0になる。畿内邪馬台国は鏡以外は本当にあほすぎる言及なんだ。この立場に立つと自然と九州王朝説に近くなってしまう。それを否定するのは紀記とあまりにずれた話しだからになる。
紀記が九州で全く信用できないものなら、もうその歯止めはなくなってしまう。だがそれでもだからと言って九州王朝説が正しいとならない。それはそれでまた違う話しになる。九州王朝説に否定的だった根拠が壊れた。ここがキーになってる。紀記は倭国に対して捏造をしてる可能性を否定できない。
何をやったのか?は九州王朝説に詳しい人なら分かるだろう。倭国の半島との対外的な戦争や外交記録をすべてやまとが紀記のとおりの支配して行ったって捏造になる。やまとはそれらに真実は関わってなかったとなる。元々同族なので出雲ほど深刻なものにはなってないと思うが、それでも連合すらあやしくて、家康信長の同盟程度だった可能性もある。
なおかつ半島戦争では協力し無い関係。ただいくつか疑問点もある。倭の兵隊の数が多すぎる。何故半島にあれほど強さを発揮できたのか?で個々が強かったわけじゃない。とにかく人海戦術で、どちらかと言えば倭は戦争が弱い部類なのが白江村で露呈する。数と国力による物量の力押しで勝ってきた部分があって、それを大幅に上回る中国が出てきたらさっぱり通用し無いというかたちになる。
海戦は確かに強いのだが、それさえこてんぱんに白江村で負けている。騎馬民族征服説に私は近いが微妙に違うのは、日本は本当に優れた騎馬部隊が高句麗にくらべて間違いなく居ない。だからあの説はシンプルに考えている人はアホだと思っている。私はこの一点で倭国にそれだけの兵対数を出せる国力があったのか?かなり疑わしいと思ってる。
日本は鉄の関係からそれをするメリットがあったためと九州に元いたのが、鉄の重要性を分かってる王朝だから。ただそれでもそれは倭国を知らないと言うのが大きい。
九州王朝説に肯定的ではないが、否定的な気持ちは薄れた。それには紀記が九州半島関係で捏造してるという事がセットになって関わってくる。今ではその捏造の可能性を否定できない。