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事実は小説の匂いと奇なり

作者: 野庭 今日


 ――ゲロとゴミ臭と天使。

 何のことを言っているかわからないと思うが、これは俺の恋のお話であることを先に言っておく。


 初めに、俺は本の匂いと女がきらいだ。

 紙の匂いを好きだとかいう馬鹿を見ると理性を失って殴り掛かりたくなるほど嫌いだ。

 一時期はやった読書女子、という害悪がピーチクパーチク煩かったこともあるが、これから話す過去を聞いて頂ければ誰でも納得していただけると思う。


 その前に俺の体質を少しだけ説明しておこう。

 俺には本の匂いが分かる。

 と、いうのは紙の匂いではない。

 物語によって変わる匂いだ。


 簡単なものを言えば和食料理の本なら割烹料理店の匂いがする。家庭料理なら自宅の台所、動物図鑑なら獣の匂い、海の写真を扱ったものは潮の香りがする。

 あとは大体開いたページの内容にもよるが、ファンタジーは草原の匂い、SFは消毒液や金属、ミステリーは殺人度によって死体の匂い、ライトノベルは何故か学生時代の剣道部部室の匂いだったな。汗臭い。

 純文学は何の匂いだったか、そう、あれは行灯や伽羅蕗や畳の匂い、というのか?


 兎にも角にも本は臭うのだ。

 本屋の匂い?そんな所に行くわけがないだろう。

 考えても見て欲しい、ありとあらゆる匂いがミックスされて圧縮されて充満している空間というのを。

 一つ一つの匂いは好きでも、1,000や10,000を超える匂いが集まったら人は卒倒すると思う。


 現に俺はまだ原因の分かっていなかった幼い頃、親に引きずられて本屋に入る度にゲロ吐いたせいで近所の本屋は軒並み出禁だ。

 まあ、そんな面倒くさい体質というのが俺だということを覚えておいてくれればそれで良い。



 ――そして俺が好きになったのは何の因果なのか、本屋の店員の女だった。

 その日は急いでいた。本来ならば迂回するであろう街の本屋の前を素通りしてしまったのだ。

 そういう日に限って悪いことは重なる。

 これはもう誰だってそうだろう?

 悪いことっていうのは続くんだ。散々な目にあった、と区切りが着くまでそれこそな。


 俺にとっての悪いことというのは社内トラブルで呼び戻され、帰社を急いでいたことと、体調があまり優れなく鼻をヤラれていた日だったという2点だ。

 話が進めば2点どころじゃないというのが分かってくるが、またそれはその時だ。

 話を戻そう。

 近づくに連れて漂う異臭、だが鼻をヤラれているせいで場所の特定ができない。

 気づけば俺は本屋の目の前で動けなくなっていた。

 その時の気分を言うのであれば「ブルータスお前もか」だ、いや別になんにも裏切られて等いないのだが。


 あと10秒で吐く、そんなときにも都会の住民は冷たい。

 うずくまる俺に視線は送るが通り過ぎていくばかりだ。

 倒れる、死ぬ、そんな時俺の目の前に天使(死神)が現れた。


「だ、大丈夫ですか!?」

 目の前で振られる細い指と腰まで掛かった長い黒髪に驚愕に見開かれた大きな瞳と――。

 俺は、本屋の店員である彼女のエプロンに思いっきり嘔吐した。

「オウッェッ」

「えっ?あっ!?だい、大丈夫ですかああああ!?」

「ちかづ、か……な」

 本の匂いを限界までまとった存在に俺の限界とう名の堤防はあっさり決壊した。

「警察?救急車?誰か!店長~!!」

「ずびばぜん……」


 俺は天使の胸の中で決して安らかではない眠りについた。




「……と、いう出会いだったんだよ谷家!」

「聞く限りでお前の印象は最悪だよなソレ」


 昼下がりのオフィス、同期の谷屋伊弦たにやいつる相手に天使トークを繰り広げる。

 と言っても白熱しているのは俺だけで、恋だの愛だのにまったく興味を持たない男は鬱陶しそうに頷いているだけだ。


「たしかに最悪だったかも知れない。だが彼女は吐いた俺の背中をずっとさすって看病してくれた挙げ句に救急車までよんでくれたんだ」


 彼女が離れないせいで本の匂いがくっついて吐き気が10倍ぐらい増していた気がするが。

 匂いがどこかからしてくる気がしてマスクを思わず触る。


「人として普通じゃないか……?」

「いーや普通じゃないね!彼女は俺の運命の相手な気がする」

「お前……いや……」


 呆れたように谷家が俺にため息を吐く。


「兎に角。天使なんだ」

「天使は汚臭の中で働いてるのか、それは知らなかった」

「なあに。俺と結婚すれば問題ない」

「問題しかないんだが」


 家庭に入ってもらえばいい。それで全ての問題は解決だ。



「先輩~何のはなししてるんですか?恋ですか?」

 こういう話には以上に鼻が利く牙子が俺達に絡んでくる。

 牙子――後輩の女子なのだが、この娘は他人の恋路に興味津々なところを覗けば中々良い子だ。

虎杖いたどりか。コイツが本屋の店員に惚れたんだ」

 谷家が俺に指をさす。

「え、本好もとよし先輩ついに匂いを克服したんですか?入社初日に私のカバンに向かって吐いたのに?私のブラウスも汚したのに?」

 うっ……それを言われると……。


 虎杖夏菜子いたどりかなこ。八重歯がチャームポイント。通称、牙子。

 牙子が入社した日、気合を入れに入れた牙子はビジネスマナーから電話対応のマニュアル本、何をトチ狂ったのか弁当のレシピ本までいれて出社してきた。

 教育係だった俺は、いや、もう、言わずとも分かるだろう。

 大泣きする牙子に慰める女子社員のブタを見るような冷徹な目。

 俺を助けようとする谷屋と上司のドン引きした表情。


 ……牙子の良い所というか、素晴らしい所は突拍子もない俺の話を信じてくれた所だ。

 

 ちなみに他の女子社員からは嘘つき変人として俺は避けられている。

 学生時代から女なんて嫌いだ。俺の言うことを信じてなどくれない。

 ただし天使は除く。

 谷家は学生時代からの付き合いだから俺の体質を知っている。


 土下座しながら謝る俺の話を聞いた牙子は当日こそ泣きながら無言を貫き通していたが、次の日には実験(仕返し)と称して俺と谷家を女子トイレに連れ込み、本を大量につきつけるという蛮行をしでかした。

 目の前で嘔吐する俺を見た牙子はその日からランチ1週間奢れば許す、という名裁定を下したのであった。


「ソレを言うなよ……」

「まあ私は優しいですから許してあげます。ところで体質は治ったんですかあ?」

 間延びする声で俺の顔を覗きこむ。

「治らん、が、どうにかする」

「え~……無理じゃないですかあ」

「俺もそう思うんだが……」

「うるさい」

「ま~何かあったらアドバイスぐらいはしてあげますう。頑張って下さいね~無理だと思いますけどお」

 シュークリームの箱を見せびらかしながら給湯室に消える牙子。

 おのれ牙子め。



 ――あれから二日。

 俺の体調はすっかり回復して、仕事も落ち着いた。

 俺はマスクにマスクとマスクを重ねて(間には湿らせたガーゼを挟んでいる)、天使の勤める本屋の前へ立っていた。

 既に吐き気がしてきたが、これぐらいのことで諦めていたら天使には会えない。


 自動ドアが開く度に押し寄せる臭気。

 某有名先生が書いたと思われるサイン本が頂上に鎮座している山のような新刊置き場からは、過激なラブストーリーのめくるめくラブホ臭と路地裏の唐揚げの匂いが俺を繁華街にでも迷い込んでしまったのかと錯覚させる。

 吟遊詩人のように語っているが、これは笑い事ではない。

 そして天使が――いた。

 ラブホ街から、失礼、自動ドアを抜けて俺の元へとかけてくるではないか!


「あの、この前の!」

「先日は誠に申し訳ありませんでした」

 上司にも見せたことのない俺の本気と書いてマジと読む――な、お辞儀をする。

「いえいえ。頭を上げて下さい。体調は大丈夫ですか?いきなり倒れちゃったのでびっくりしたんですよ」

「あの、お洋服を汚してしまい……」

「気にしないでください!あれ制服でしたし、着替えがまだ更衣室にあったので」


 天使はそう言って微笑んだ。心まで綺麗か。天使は天使だった。

 頭の隅で牙子が私だって許してあげたでしょ!と抗議の声を上げるが無視をする。


「本当にすみません……あの、よろしければこれ」

「受け取れませんよ!」

 俺の差し出した菓子とクリーニング代を彼女は突き返す。


「いやいやそれでは俺の気が済まないので」

「ん~……それではお菓子だけ皆で頂きますね。これって駅前の並ばないと買えないやつですよね?一度食べてみたかったんです。買うの大変だったでしょう?」

「それだけ迷惑をかけてしまったので。クリーニング代はどうしても受け取ってもらえないでしょうか?」

 女性をゲロまみれにしておいて菓子折り1個は流石に申し訳無さすぎる。


「そうですね……」

「じゃあせめて何かご馳走させてくれませんか?」


 この言葉を言うために死ぬほどシミュレートしてきたのだ。

 平静を装いつつポーカーフェイスを演じるが、心臓の音がうるさい。


「えっと」

「すみません、無理にとは言わないです!」

 俺を改めて上から下まで眺める天使。

「じゃあ、ご馳走になっちゃおうかな?」

「ぜひ!」


 俺は内心ガッツポーズを決める。


「あ」

 天使は俺の顔を見てクスクスと笑う。

「お名前……教えて下さい。私、南城百合と申します。見ての通りしがない本屋の店員です」

「そういえば自己紹介がまだでした」


 名前すら名乗らずに俺はナンパしていたのか。

 基礎の基礎の基礎どころか人間としてアタリマエのことは俺の脳内シミュレートからはぶっ飛んでしまっていたようだ。


「俺は本好ミハルです。この先を少し行った所のビルに勤めてます」

 そういって俺は名刺を差し出す。

「本好……本が好きって素敵な名字ですね。私も本が大好きなんですよ!だから本屋の店員をしていて――」

 

 素敵な名字ですね。

 天使、いや、南城さんの笑顔と言葉が俺の頭の中をぐるぐる回ってその後のことはすっかり聞き流してしまった。

 夢見心地でなんとか自宅のボロアパートにつくと、スマホのカレンダーアプリを開く。

 そこに記載されている土曜日のデート予定を見て現実を確かめると、俺は階下の住人から尖ったもので天ドンをされるぐらい雄叫びを上げていた。



 ――土曜日。

 小洒落たカフェで俺達はランチをするべくちょっと遅めの待ち合わせをした。

 私服姿の南城さんを何度も褒めると彼女も嬉しそうに笑ってくれた。

 本の匂いがするのは――仕方ない。嫌よ嫌よも好きのうちというではないか。


 仕事のことやプライベートの趣味のことを話す。

 南條さんの口元に赤いペスカトーレが運ばれる度に動く唇にドキリとする。

 ちなみに俺はペペロンチーノを頼んだ。


「本好さんって、本のこと、詳しいんですね」

「うーん読書家ではないんですけどねえ」


 青春時代、本を克服するためにありとあらゆる研究をしたものだ。

 読みやすいジャンルを探すことは勿論、匂いの法則も解き明かそうとしていた厨二的……いや、やめておこう。

 匂いと物語は直結している。

 俺は恐らく本能的に他人よりずっと本に近いんだろう。

 脳で処理はもちろん、感覚器官でも本を捉えているため、相性が良い登場人物だと精神が同調してしまうこともあるぐらいだ。

 あとボーナスがあるとすれば本を一番長く所有していた者の感情の残り香が読めるぐらいか。

 ここまで来ると超能力と聞こえてしまうかも知れないが、俺にとって本は立体的すぎるのだ。

 だからこそ、切羽詰まったことがない限り、本など読まないが。


「私、前の彼氏とは読書の趣味があわなくて」

 む。それは今彼氏がいないということでよろしいのか?

「つまんないつまんないって言うわ、私の好きな作家を馬鹿にするわ、時間がないって言うから部屋に通って色々家事もして、読書する時間を作ってあげたのに全然喜んでくれないし」

 南城さんは尽くす女性なのだろうか。


「最後には本に囲まれてヘラヘラしてるなんて気持ち悪い!っていうから思わず辞書の角でズドーンと」

「殴っちゃった?」

「そう、やっちゃったんです」


 えへへ、と眉を下げて上目遣いをしながら南城さんは笑う。

 実にあざとい。


「本好さんとはなんとなく合いそうだなーって。読まないなら私がたくさん面白い本紹介しちゃいます!私の好みに染めちゃうぞ~って」

 少し照れながら話す南城さん。


 ぜひとも染めて下さい!!と叫んだ帰り道の俺の手元には手提げ袋いっぱいの本がぶら下げられていた。

 ゴミ臭ファッキュー。

 これ最初から持ってきてたんだよね?

 あれ?もしかしなくてもハメられた?

 今日の南城さんダイジェストに浸りながら駅へ向かう。



「せんぱ~い!」

 背後から聞き慣れた声がする。

 振り向くとそこにはオフィスより崩した格好だが大して変わらない牙子がいた。

「先輩なんかガッカリしましたよね!?」

 牙子に期待などはじめからしていない。

「牙子か……こんな所で何やってんだ?」

「新しいカフェができたんですよ。アンティークショップを併設してるいい感じの~って先輩こそなんでこっちに?お家、この辺りじゃないですよね」


 目ざとい奴め。牙子に彼女とのことを言うと明日には社内中に広まっていそうで怖い。


「まあ……散歩だよ」

「デートですね!」

「散歩だよ」

「誤魔化しても分かりますよ~この前の本屋の彼女さん、ではないですよね?」


 牙子はニヤニヤと先輩も一途じゃないなあ~なんて笑う。

 どうして本屋の彼女じゃないなんて断定できるんだ?

 不本意だが二股だの何だの言われたら面倒なので誤解は解いておこう。


「この際だから言う。本屋の天使こと南城さんだ」

「別に名前は聞いてないです。えーっと……」

 牙子が本当に困ったような顔で俺を見る。

「どうして違うって思うんだ?」

「香水の匂いが凄いから……」

「香水?」


 俺は首を傾げる。


「あーそっか。先輩は本の匂いでわかんないのか。先輩、今香水の匂いすごいですよ。移り香っていうの」

 寝耳に水だ。忌々しい本の匂いで全く気が付かなかった。

「で、それがどうして本屋の彼女じゃないってなるんだ?」

「えーだってえー本屋の彼女さんってナチュラルメイクで清純派なんでしょ?それにしては――」


 キャバ嬢がつけるような、甘ったるくてどぎつい香水の匂い――。

 俺は彼女の違う一面を牙子によって知ってしまったようだった。

 妙にズシリとくる本に向かって俺は文句をいうのであった。


「彼女の好きな匂い……どんな匂いなのか俺も知りたかったよ」

 恋は何処までも盲目なのである。





「ガスマスク貸してくれ」

 本を借りて3日目――とうとう俺はなりふり構っている場合ではなくなり、谷家にヘルプを出す。

 彼女に借りた本は開かなくても悪臭がするためマスクと鼻栓有りでも近寄ることさえ難しい。

 どんなストーリーなのかとググってみるも、マイナーすぎて出てこない。

 つまり、知ったかぶりは出来ない……。危機的だ。


 こんな時こそ親友頼み。

 谷家は何を隠そう、ミリタリーヲタだ。

 部屋に入れば軍服が吊ってあるのはデフォルトの風景、棚には銃やら腕章だか勲章だかよく分からないもののレプリカが所狭しと並べられている。

 その中の一つ、ガスマスクに俺は目をつけていた。


「何に使うんだ?というのは愚問か……女のためによくそこまでするよな」


 谷家が同情じみた目を俺に向けるがそんなの関係ない。

 LINEには俺と早く本の感想を共有したい――今か今かと待ち焦がれる彼女からのメッセージが毎日入ってくるんだ。

 いささか熱烈すぎる気がするが。まあそれだけ俺のことを好きなんだろう。


「いいけど壊すなよ」

「ガチ勢のお前に借りる物品が簡単に壊れるわけないだろ」

「どうだかな」


 壊れてもらっては困るんだ。俺のゲロ的な意味で。


「虎杖じゃないが……その女、俺は好きじゃないな。あんまり深追いはするなよ」

 谷家が他人の恋路というか、関係に口をだすなんて珍しい。

「ああ任せてくれ。ガスマスクと俺は無事に帰ってきてみせる」

 本がなくても俺とは通じ会えるということを彼女には早く知ってもらうつもりだ。

「それは人を死亡フラグという」


 呟く谷家に礼を言って、俺はガスマスク片手にスキップで家に帰った。

 完全に不審者です、ありがとうございました。


 その夜、谷家から借りたガスマスクを装着して読書を完了させた。

 どれも恋愛だが若干猟奇的なものが多かったような気がする。

 最後は主人公が皆死ぬんだが。しかも、男な。

 熱烈な愛が好きなのかな、と妄想をしつつクライマックスの数ページはマスクをとって頑張ったため、自分自身の能力をフルに使って彼女に感想を送ってその日は就寝したのである。

 ――読んだのだから決してズルではない。

 翌朝俺のLINEは爆発していた。主に彼女からのメッセージで。

 7割は俺の感想への返信と同意、2割は次の本について、そしてラスト1割は元カレへの愚痴。

 女子の恨みと熱意は凄い。

 ものすごい量をスクロールしつつ、最後の早く会いたいです!と言う文字だけサクッとすくい取ってデートの約束を取り付けた。





 南城さんとデートを重ねること数回。

 ついに南城さんから決定的な一言を貰うのだ。

「本好さん……いえ、ミハルさん」

「はい!」

「良かったら金曜日の夜、私の部屋に来ませんか?ぜひお話したいことがあるんです」


 顔を赤らめる南城さんに俺はこれは決まったな、と思う。

 金曜日の夜、土曜日は休み。大人の諸君、あとはもう分かるな?


「俺も伝えなくちゃいけないことがあるんです」


 勿論、俺の体質のことだ。一生隠し通せるものではないだろう。

 読書好きなのはこの数週間で死ぬほどわかった。

 読書を辞めてもらうつもりは既にない。腹は括った。

 だが、俺のことを少しでも知って受け入れてほしいのだ。

 それさえしてくれれば俺は谷家からガスマスクを喜んで買い取ろう。

 どれほど谷家に毒づかれようとも、だ!


「え?なんですか?」

 キョトンとする彼女も可愛い。

「百合の家で言うよ」

 さり気なく呼び捨てる。


「わ、わかりました。ミハルさんって私の理想の王子様みたいです。本のことで分かり会える人がいるわけないって諦めてたのに。こんなにも私の言いたかったけど言葉にしづらい所とか、もどかしい部分とか、簡単にスラスラ組み立ててはなしてくれるんだもん」

 百合が俺の腕に絡みつく。

「ああ、分かるからね。匂いで……」

 おおっと。百合の柔らかさに思わず言いそうになる。

「匂い?」

「この辺、美味そうな飯屋の匂いがするね」

「もう、ミハルさん。こんな時にご飯なんて!」


 百合から甘ったるい、どこかで嗅いだことのある匂いがする。これは何の本の匂いだったか。

 牙子が言ってたのはこれだろうか?

 そのままイチャイチャしつつ俺達は百合のマンションまで腕を離さなかった。

 百合を送り終えて、俺はスキップしながらボロアパートに帰るのであった。






 ――19:00に部屋の前まで来て下さい。

 部屋番号は――。


 スマホを片手にガスマスクと本入りの紙袋を持って約束の1時間も前に百合の部屋の前へ来てしまった。

 なぜか谷家が「早めに行ったほうがいい。早めに、コッソリな」と俺を押し出すように帰社させたのだ。

「先輩、失恋したら私におごってくれてもいいですからね」とふざけたことを抜かしつつ、牙子も珍しく仕事を手伝ってくれた。

 後輩に仕事を手伝われる俺って――考えたら負けだ。


 インターホンを鳴らそうかと思うが、指が止まる。

 匂いだ。匂いがする。

 俺は本入りの紙袋に顔を近づける。だが、違う。

 なんだ?この匂いは……。


 この匂いは、百合の部屋の中から外まで漂ってきている。

 本と過ごしていて馬鹿になっていた俺の鼻ですら分かる臭い。

 これは何の臭いだった?

 猟奇的な愛の臭い。情欲的な愛の臭い。狂気的な愛の臭い。


 違う。


 昔々に読んだあれ、動物の本能を書いた本の、共食いに関するページに近い。

 俺は頭の中にある情報と臭いが結びつかないように頭を振るが、本能が、嗅覚という人間がかつて持っていただろう鋭い原始の感覚が、俺に身を守れと警鐘を鳴らしている。



 震える手でドアノブを回す、音が出ないように気をつけながらそっと引く。

 俺の勘違い。そうであってくれ、と祈りながら。


「うっ……」


 悪臭が鼻を突き刺すどころか息を吸う度に粘膜にまとわりついてくる。

 ありとあらゆる臭いをそれこそ密閉された箱の中に閉じ込めたかのような密度のある悪意の悪臭。


 紙袋から谷家に借りたガスマスクを取り出して装着する。

 一人暮らしの女性の部屋をガスマスクをつけた男が覗き込んでいる。

 俺でも俺の行動にドン引きだ。社会的にアウトと罵る牙子の姿が頭に浮かぶ。

 どうやら俺の中で常識を司る部分というのは牙子の姿をしているらしい。

 全く持って不本意だが。


 そして、隙間から広がる異様な世界に俺は戦慄する。

 どこを見ても本、本、本、本――。

 下手をすると部屋の床が抜けるんじゃないか?

 壁に並ぶ本棚にはもちろん、床にも最早原型をとどめていなく、バラバラになった紙が散らばっている。

 その上で一人、女が仰向けに寝転がって手足をバタつかせながら無邪気に手を叩いていた。


「今度こそ私と一緒に読書してくれる王子様ヒーャーハッハッハハ!」


 そして、その隣には辛うじて人と分かる服を着たマネキンを100回ぶん殴ってボコボコにしたような茶色の物体。

 脳天には文庫本が突き刺さっている。

 ……。

 王子様? 俺は謹んで辞退することをここに宣言しよう。

 そっとドアを閉め、ガスマスクを外すと紙袋へ丁寧に戻す。

 百合から借りた本を部屋の前へ山積みにしておく。

 倒したらやり直し、賽の河原だ。

 鬼は部屋で別の男をイビって――うるさい黙れ。


 これで全てを見なかったことにして家路に着く。

 スマートフォンがポケットの中で時間がたつに連れて女のヒステリーのごとく暴れていくのを感じたが、俺は一切合切手を付けず、黙々と歩いた。

 女と知り合った本屋の前は、あえて迂回した。

 思ひでポロポロ?言ってろ馬鹿。


 俺はアパートに着くと谷家から借りたガスマスクを手にとって無言でベランダから外にぶん投げたあと、少し泣いた。

 百合からの恐ろしい数の着信をスルーして110を押す。


「ああ、警察ですか?すみません、実はこの前知り合った女性の家に――」


 本は腐敗臭しかしない。女も腐敗臭にまみれてた。

 この世はやっぱりクソで俺はもう二度と恋などしない!











彼はこの後いろいろな事件に巻き込まれた挙げ句、某探偵の親父に便利道具として連れ回されます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 深夜のお笑いタイムがやって来るくらいに面白かったです!! もう何度も噴き出しました!(/▽\)♪ どんな臭いかと読んでみましたけど、これはヒドイ笑笑
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