第3話-2
ひたすら駆け続けたディエイラは、屋敷の門を出たところで足を止めた。本当は森にまで駆け込むつもりだったのだが、後ろで盛大に転ぶ音がしては振り返らないわけにいかない。見れば、追いかけてきていたミッツアが転がっている。
「……大丈夫かミッツア殿?」
放置するわけにも行かず近付き手を差し出すと、ミッツアはがっしりと両手でそれを掴んだ。
「ミッツア」
「お気遣いありがとうございますディエイラ様。私は大丈夫です。……ちょっと膝をすりむきましたが平気です。そんなことより、おひとりで外に出てはいけません。せめてお屋敷の敷地内にいらっしゃってください」
強がっているが相当痛いらしい。額の目が涙ぐんでいる。しかしこれ以上気遣いの言葉を紡いだ所でこの真面目な使用人は痛みを素直に訴えることはしないだろう。諦めたディエイラは握り締めてくる手を小さな手でぽんぽんと叩いた。
「すまない、少し考えなしだった。すぐに戻ろう。其も食堂に戻ってよいぞミッツア殿。主の機嫌伺いは使用人の重要な仕事であろう」
腕を引っ張ると、ミッツアが中途半端に立ち上がる。鬼族らしく力の強いディエイラが引けば立ち上げるのは難しくないが、如何せん多少なりある身長差は覆らない。しっかりと立ち上がったミッツアは頭を下げて礼を述べると、ディエイラと目を合わせられる位置まで頭を上げた。
「食堂には戻りません」
きっぱりと言い切られ、ディエイラは戸惑うように眉を寄せる。その彼女を、ミッツアの三つ目はしっかり捉えていた。
「確かに旦那様と奥様にご挨拶をするのは必要だと思います。ですが、今の私の一番の仕事はディエイラ様のおそばにいることです。今の私の主はクラウド様。そしてクラウド様が家族として迎えられたディエイラ様のみです。他の方は今は知りません」
後で怒られるぞ。そう思ったが、今のディエイラはそんな一般的な理屈よりもミッツアの考えなしの感情が嬉しかった。
「……ありがとう、ミッツア殿。だが此は本当に大丈夫だ。だからもう中に――」
「入らせるわけにいかねぇな」
突然場に割って入ってきたのはしゃがれた男の声。聞き覚えのないミッツアは体を起こし辺りを警戒しだす。一方、その声に聞き覚えがあり、かつどこから聞こえてきたのかすぐに察したディエイラはそちらを睨みつけた。その視線の先にある茂みを揺らして現れた色褪せた黄色の髪を持つ男の姿を見て、ディエイラの視線は一層厳しくなる。忘れるわけがない。忘れられるわけがない。彼は、ディエイラを騙し商品として扱った男だ。
「性懲りもなくまた此の前に顔を出すか奴隷商人。ゴルヴァと言ったか? 今の此をあの時のように捕まえられると思っているのか? あの時とは心身の状態は違うぞ」
脅しかけるように魔力を放出すると、その圧で周囲の草木が揺れる。周囲にいた鳥や小動物たちが一斉に飛び出し逃げ出した。緊張感が高まる中、突然風を切る音がする。
「きゃあっ」
高い悲鳴をあげたのはディエイラが後ろに庇ったミッツアだ。驚いてディエイラが振り向くと、そこに彼女の姿はなかった。どこに、と視線を巡らせ、すぐに少し離れた所に彼女の姿を見つける。手放しに安堵出来ないのは、彼女が黄髪の青年――トリストの腕の中に封じられ、同色の髪の女――アビゲイルにナイフを突きつけられているから。アビゲイルのもう片方の手には鞭が握られており、その先端はミッツアの手首に絡まっていた。恐らくあれに引きずられたのだろう。
「この女を殺されたくなかったらこの封印具を着けてついてこい」
しゃがれ声の男――ゴルヴァが端的に命令する。足元に投げ渡されたのは以前ディエイラが着けられていたのと同じ――否、さらに封印の強度が高まった封印具だった。それを見下ろし苦い顔で固まっていると、ミッツアの悲鳴が聞こえる。慌ててそちらを見やると、ミッツアの頬に赤い筋が入っていた。
「早くしな。このお嬢ちゃんの顔が見られないものになってもいいのかい?」
言いながらアビゲイルはナイフの先を涙で潤むミッツアの右目に向ける。
「やめろっ! ……分かった、着ける」
しゃがみ込み封印具を拾い上げると、ディエイラは震える指でそれを自分の首に巻きつけた。ミッツアがずっと駄目だと叫んでいるが、聞く耳は持っていられない。完全に巻きつけ終わる。その途端、ディエイラは全身から力が抜ける感覚に襲われた。その彼女に近付き、ゴルヴァが両手足に別の封印具をつけ、完全に動きを止めたディエイラを肩に担ぎ上げる。
「ずらかるぞ」
「父ちゃん、こいつどうする?」
トリストは口を塞いで黙らせているミッツアを示した。少し考えてから、ゴルヴァは再び歩き出す。
「気絶させて連れて行け。魔力はそうないようだから価値は低いだろうが、女なんだから多少は金になるだろう」
恐ろしいことを言われたミッツアが引きつった声を上げた言下、軽い返事をしたトリストに思い切り殴りつけられた。意識を手放しぐったりする彼女を、トリストも同じく肩に担ぎ上げる。
「帰るぞ。アビゲイル、門を開けろ」
ナイフの血を切って鞘にしまい入れていたアビゲイルは、返事代わりに腰のポーチから多様の色を放つ砂が入った小瓶を取り出した。それを地面に撒くと、その場に魔法陣が出現する。波のような光を放つそれにゴルヴァ、トリスト、アビゲイルが順に入ると、彼らの姿はふっと掻き消えた。
屋敷中を探し回ったクラウドがようやく門にやって来たのは、それから三十分ほど経ってからのことだ。普段感じない魔力の残滓に足を止めた彼は、周囲を見回し地面に散った血痕に気が付く。
「これは……ミッツアのものか」
乾き始めている血に触れその持ち主を判断したクラウドは、厳しい表情でさらに血に残された情報を読み取るべく集中を高めた。時間が経ってしまっているせいで詳しくは分からないが、何者かの影と彼女が抱いた恐怖が脳裏に映し出される。得た情報のひとつに浮かんでいる「誘拐犯」という単語から、恐らくディエイラを攫った者たちが現れたのだろうと予測した。
「魔力の元はここか。移動の系統――ぎりぎりだな。魔術で追いかけては痕跡が消えるか……」
冷静に判断し、クラウドは舌打ちする。忌々しいことこの上ないが、ディエイラとミッツアを救うためには使うしかない。片手で魔力の残滓が残る地面に触れ、クラウドは目を瞑る。
人間が使う魔法と違い本能で使用できる魔術であるが、「意識」してから「実行」するという点においてタイムラグは当然生じるものだ。単純な魔力の放出とは違いそこには「それを成す」という目的があるから。故に、この消えかけの痕跡を魔術で追いかければ途中で「意識」と「実行」が間に合わずに痕跡が途絶えるだろう。
しかし、クラウドにはもうひとつ手段がある。それは、先ほど喧嘩したばかりの父から受け継いだ風の精霊としての力だ。術を使うのであれば魔術と同じ。だが、風の精霊は自由気ままに世界中に吹き渡る存在という『本質』を持つゆえ、移動に関しては考えることなく行動できる。吸血鬼の半身が邪魔をするが、『本質』を受け継いでいるクラウドにも出来ないことはないのだ。子供の頃父の付き添いで使用したきりだが、一度得た感覚はクラウドの中に確かに存在している。
ギリギリで残っている魔力の痕跡を可能な限り拾い上げたクラウドは、その流れに向かって風を吹かせた。次の瞬間、クラウドの体は半透明に変わり、吹き荒れた突風と共にその場から消え去る。