第2話-3
翌日の夜、約束通り夕飯を済ませた後にクラウドとディエイラは森の中にやって来る。深い森の夜は大の大人でも怯えそうなほど不気味な雰囲気を醸しだしていた。その空気を受け、慣れた夜にむしろ昼より調子のいいクラウドは、連れの少女が大丈夫かと懸念を抱いている。聞くに彼女は夜にこっそりと抜け出した先の森で人攫いに遭ったらしい。今でも夜には森を見ないようにしているのに、果たして大丈夫なのだろうか。
ちらりと視線を向けると、両目を閉じたディエイラが何やら深い呼吸を繰り返していた。自分を落ち着かせているのか、はたまた何かしようとしているのか。見下ろしながら彼女が目を開けるのを待っていると、その行動が五度ほど繰り返されてからディエイラはぱちりと目蓋を持ち上げる。
「よし。クラウド、すまないが、此が見えぬ位置に行ってはくれないか? 出来れば匂いも音もしないくらい遠くに」
今正に心配していたことをさらにやれと言われ、クラウドは眉をひそめた。
「ディエイラ?」
「頼む」
短く繰り返され、クラウドは逡巡してから渋々と頷く。
「ただし、護衛はつけさせてもらうぞ」
言下、クラウドは指を口に当て空気を噴出した。それは高音と変わり夜の森に響き渡る。その残滓が消えるより早く、軽い足取りが複数近付いてくる。間も無く近くの茂みが揺れ、そこから狼が三頭顔を出した。何をしているのかとクラウドを見上げていたディエイラは反射のようにびくりとする。だが、現れた狼たちが近付くと従順に並んで座ったことで冷静さを取り戻した。
「け、眷属か? クラウドの――」
「ああ。昔屋敷の周辺に近付かぬよう死に掛けていた狼数頭に血を混ぜたんだ。一代だけのつもりだったのだが、その後子孫にも引き継がれたようで、今は群れの八割以上が眷属化している」
悪いことをした。軽い溜め息をつくクラウドを慰めるように、狼たちはさらに彼に近付き擦り寄ってみせる。鋭い獣の勘に加えて眷属化しているため主の心情がよく伝わるのかもしれない。
吸血鬼の眷属化は簡単だ。相手に唾液や血液などの体液を注ぎ込むことで完了する。それが吸血鬼としての基本であり本能であるため、たとえばキスや吸血時などに眷属化させないためには意識してそれを防がなくてはならない。それが不要なのは相手が自分よりも強い魔力を持ち、かつ眷属化を拒絶している場合のみだ。その場合は体液に含まれた魔力が眷属化の契約を引き起こす前に消滅する。この狼たちの血筋に当たる狼は普通の狼だったため、魔力に対抗が出来なかった。
「クラウドは眷属化するのが嫌なのか?」
浮かない顔を見上げてディエイラが尋ねると、クラウドは苦笑を返す。
「そうだな。眷属化は私の元に魂を束縛することだ。死ぬまで拘束されるなど寒気がする話だろう?」
最初に相手をクラウドで考えたためあまり嫌悪感が湧かなかったが、別の者で考えると確かにそれは嫌だった。そう思う反面、問われたディエイラはとある疑問を覚えた。
「吸血鬼に吸血されたら眷属化して不死になるのではないのか?」
以前読んだ本にそのように書かれていたはずだし、かつて里を襲った者の中に吸血鬼もいた。確か、不死の存在ゆえ倒すのに苦労したと記録に残っていたはずである。ディエイラの質問にクラウドは心当たりがあるのか特に悩まずに「ああ」と声を漏らした。
「それは外来種の吸血鬼の特徴だな。以前に軽く話したかと思うが、私を含めたムーンスティア家はこの世界に従来より存在する吸血鬼だ。古き吸血鬼とも呼ばれる。我々と外来種の違いは、まず何より生者か死者かということだ。我々は生者で、あちらは死者。我々に命の制限がある以上、眷族にも当然寿命は課される」
他にも、十字架は効かないしにんにくも効かないが、銀の銃弾は効果がある。流れる水は渡れるし鏡にも映るが、太陽は苦手。などその相違点があることをクラウドは語った。外来種と呼ばれる別の世界の吸血鬼たちに弱点が多いのは、彼らの世界の宗教に強く影響を受けているのがその原因らしい。一方のクラウドたちは宗教を起因としないため、それらの「弱点」は効果がない。
「ただし、生者である以上通常の攻撃にダメージは負う。魔力が間に合えばすぐさま回復するのだが、怪我の度合いが大きいと回復は間に合わず死んでしまう。よく知られた弱点こそないが、強い相手と戦うことになればそんなものは関係ないな」
時々ハンターなどを名乗る連中に襲われることもあったが、三〇〇余年そのほとんどを平和に過ごしてきたクラウドにはあまりぴんとこない事態の説明だ。だが、目の前の聡い娘には十分伝わったらしい。真摯な顔で頷いている。説明は十分と判断し、クラウドは蝙蝠を呼び出した。
「では私は離れる。……本当にいいのか? 危なくなったらすぐに呼ぶのだぞ。駆けつける」
呼び出した蝙蝠に乗ったものの、気になってしまいクラウドは何度も何度も心配そうに振り返る。ディエイラは苦笑してそれを見送った。
その姿が完全に空に舞い上がったところでディエイラは目を閉じ耳を塞ぐ。声に出さずに千を数えきってから、赤い双眸は再び夜の世界を映し出した。くるりと周囲を見回すと、狼たちがディエイラを守るように三方に睨みを利かせている。
「頼りになる護衛たちだ」
くすりと笑ってから、表情を改め再び目を瞑った。深い呼吸を繰り返し集中を高め、静かに魔力を広げる。数十メートルほど魔力のカーペットが広がってからディエイラは眉を寄せて苦い顔をした。
「違う。こうではない。これでは魔力が無駄に消費されてしまう。そうではなく、対象を感じ取って糸で引き上げるように――」
広げていた魔力を引き上げ、今度は細く長く、そして高く伸ばす。頂点で更に細く長くした魔力を放射状に広げ、周囲を探るように魔力の先端に意識を乗せた。
ちらちらと意識の端に何かがちらつくのに、それが掴み切れないもどかしさ。ディエイラは焦れながらもさらに集中して意識を広げる。その時、不意に伸ばしたそれを掴まれたような感覚を覚えて咄嗟に目を開けた。
広げていた魔力が途切れるが、一本だけ……先ほど掴まれたものだけがまだ残っている。しかしそれはディエイラが成功したから残っているわけではない。対象がディエイラの魔力を補強したまま掴んでいるからだ。ディエイラは少し不機嫌な顔で伸びた魔力の先に向かった。左右と後ろからは狼たちが付いてくる。
しばらく歩いてから、何かを掴んだような形の手を顔の前に置いているクラウドを見つけた。太い木の根に腰かけていたクラウドはすでにディエイラに気付いていたらしくにこりと笑いかけてくる。
「これがやりたかった術か? 気配察知だな。最近読んでいる本で知ったのか? 上手く出来ているではないか」
見事と褒められるが、間近に来たディエイラは不機嫌な顔でクラウドを睨みつけた。何かまずいことを言っただろうかと、クラウドは思わず掴んでいた魔力を放して軽く頬を引きつらせる。
「クラウド! 何故其から掴んでしまうのだ! 其が掴んでしまっては此の修練にならん」
珍しい大声で怒鳴られ、クラウドは両手を首の高さまで挙げて申し訳なさそうな顔をした。
「すまん、良かれと思ったのだが、考えなしだった……」
素直に謝られ、熱くなっていたディエイラも急速に落ち着いたのかしょんぼりとした様子で肩を落とす。
「いや、こちらこそすまなかったクラウド。此が何も言わずに付き合わせているのに言葉が過ぎた。本当にすまない」
深く頭を下げると、そこそこに長さの整ってきた灰色の髪を撫でられた。顔を上げれば、クラウドが宥めるように優しく微笑む。
「構わん。だが、出来ればどうしたのか教えてくれるか?」
問われ、ディエイラは一瞬の沈黙の後こくりと頷いた。クラウドが腰かけている木の根の横の小さな木の根に腰かける。狼たちは周りを警戒するように先と同じく三方を向いて座った。
「……此が、逃げ出してきた場所を探したい」
逃げ出してきた場所。それに該当する場所はひとつしかクラウドには思い浮かばない。
「……誘拐犯のアジトか? 何故?」
「置いてきてしまった人が、いる」
ディエイラはぽつりぽつりと語り出す。彼女は攫われた後広い牢に入れられた。そこには多くの者がいたが、誰もが他人を気にかける余裕を持ってはいなかった。だがただひとり、ディエイラに声をかけてくれた者がいた。常々飄々としつつも、眼差しにはいつか逃げるのだという強い意思が煌々と灯っていたことを今でも明確に覚えている。
「此は、かの御仁と約束したのだ。共に逃げ出そうと。けれど結局此はひとりで逃げてしまった。……助けたいのだ。全部諦めようとしていた此を引き止めてくれた礼をしたい。――本当は、もっと早くに始めるべきだったのだ。だが、ここの生活が心地よすぎて先延ばしてしまった。昨日読んでいた本に先ほどの術について書かれていて、やるべきことを突きつけられた気がしたのだ」
組んだ手に額を当ててディエイラは俯いた。悔恨の念に駆られている彼女を見やってから、クラウドは昨日より少し太った月を見上げる。
「その意思は尊重したいが、まさかひとりで行く気であったわけではあるまいな? そやつらはそなたを攫った者たちでもあるのだぞ? そなたは確かに黒角の一族ではあるが、技術の足りぬ幼子だ。ひとりで何もかも出来るとは思わぬことだ」
厳しい言葉かもしれないが、真実の言葉でもある。彼女は実際に単純な魔術戦になれば大抵の相手には勝利出来るだろう。今どれほどの術を覚えているかは分からないが、レベルの低いそれですら彼女が使えば他の者が使う高レベルの威力を発揮する。だが、いかに聡明でも経験も技術も足らぬ子供であることもまた事実だ。虚を突かれれば一瞬で形勢が逆転することも大いにあり得る。
本人もどうやら分かってはいたようだ。反論することなく俯いてしまった。言い過ぎたか、と思ったものの、彼女のためだとクラウドはその件に関しては慰めを口にしないことにする。代わりに、先ほどディエイラが行おうとした術を実践して見せた。察知の対象は屋敷にいるはずのクーガル。その気配はほんの一瞬で把握される。クラウドは行おうとした術を感じ取って顔を上げたディエイラに視線を向けた。
「だが、そなたが術を覚えることは支援しよう。ただし、見つかっても決してひとりで向かわないで騎士団に情報を提供することを誓うのが条件だ。よいな?」
「分かった、誓う!」
僅かな迷いもなく即答するディエイラの真剣な表情にクラウドは微かに微笑み頷く。
「では早速はじめよう。まずはミッツア辺りでも探ってみるといい。まず展開し――」
クラウドの丁寧な説明にディエイラはいちいち頷き、同時に術を実践した。何度も何度も繰り返し、中々上手くいかないことに悔しい思いをすること数十回。不意にミッツアの気配を感じ取る。が、それはあまりにも帰りが遅いクラウドとディエイラを迎えに彼女が間近まで来ていたせい。ふたり揃ってミッツアに叱られ、その日は帰途についた。
それから一週間ほど毎夜修練を続けた結果、ディエイラは森の範囲内であれば気配察知を行えるようになる。しかし、ディエイラは、クラウドは、気付いていなかった。「指定対象を見つけること」を念頭に置いていたため、覚えるべきもうひとつの気配察知――本来主な使い方である、「周辺の気配を把握する」――を覚えていないことに。もし彼らがそれに気付いていたならば、この後の出来事は変わっていたことだろう。